septiembreokbj’s blog

記録と備忘録、および手掛かり。

10/26 ELLEみる

シネモンド金沢で、ポール・みんなダイスキ・バーホーベンの最新作、ELLEを家人と共に鑑賞。バーホーベンならではの牽引力と、フランス語(およびパリの風景)のマジックが相まって、間然とするところのない130分を過ごす。

様々な事が直接には了解不能なワタクシとしては、物事は意味の繋がりとして整理・記述をしないと困ってしまうのであって、ソレなかりせば、例えば主演のイザベル・ユペールはメンテの行き届いた驚異の63歳でしかない。そのような機能不良のワタクシにおけるELLEは、まずは、何人かの人間が解放され自由になる物語を骨格とする映画であった。
息子は母を襲う暴漢を殺しエディプスコンプレックスから解放され(そして大人になり)、母はウソをつくべき原因であった両親の死去によってウソから、新しい依存の対象となり始めていた暴漢を息子が殺したことによって依存のループから解放され、その母がウソをつくことをやめた結果、母子の友人は不実な夫から解放され、それぞれが「からの自由」を得る。ほとんどの人間は何かが起きない限り自分の形をした檻に縛り付けられたまま暮らしていく(もしくは檻から出られないままに死んでいく)という事実の陰画である物語、それを主題とする映画であったと言っても構わない。


さて物語である。決してナマの生ではなくて、意図を持って語られるストーリー。多数の人間が一定時間拘束されないと成立しえない様式であるところの映画において物語は必要不可欠な要素なのだけれども、しかしその物語が映画にベールをかけ続けるのも事実であって、我々は映画を見ているのか、物語がヴィジュアライズされたものを見ているのか、つねに混同をしがちだ。それを避けようとする映画は、物語を映画の支配下におくべく、物語に様々なミスティフィケーションの口輪をはめようとする。(という言わずもがなの事をなぜ書くかといえば、長逝した息子に伝えたかったことだから。高校を出るまでの残り2年のうちに、こんな話もする筈だったのだ)

もちろんELLEにおいても物語による映画の乗っ取りを避ける為にさまざまな仕掛けが凝らされているのだけれども、そしてその甲斐あって最後まで目を開けていられたのだけれども、しかし。

 この映画は女性の自立を描いた映画になっている

 とイザベル・ユペールはインタビューで語っている。
ミスティフィケーションの口輪が行き過ぎて主演女優ですらも視座が錯乱したのか、それとも役柄(ミシェル・ルブラン)に同一化しすぎた結果、ミシェル・ルブランが居たとしたら感じるであろうことを口にしたのか。いずれにせよ、そんな映画ではなかった筈だ。いや、もしかしたら商業的な成功のために、バーホーベンがイザベル・ユペールにそのように答えよと指示をしたのかもしれない。


プロテスタントの国に生まれ、WWⅡを子供の時に体験し、数学と物理を学び、映画の時間を前にすすめるための機械仕掛けの神以外に何も信じなさそうな男が、女性の自立を主題にするものかね。いつもバーホーベンの映画がサワヤカなのは、人間に内面がないからではなくて、人間の内面が機械仕掛けであることを認めているからだ。心?心は高度に発達した機械が、その機械を運用するために宿すものなのだ、とまでバーホーベンが言ったかどうかは知らないが(多分言って無いと思うが)、バーホーベンの描く人間は、自由意志で動いているつもりでありながら、自らを構成する機械の都合に振り回されてばかりいる。
機械仕掛けの人間(つまり普通の人間)が、意図の交換に成功したり、もしくは失敗したりしながら、発生するイベントに翻弄されていく様をバーホーベンの固有時間に巻き込まれつつ観る、それが「みんなダイスキ」バーホーベンの構図だと思っている。善悪も、宗教も関係ない。世界に人間はただ有るのだ。sex and violence?それらは人間の基本属性だ。だからそれらも、ただ有るのだ。そういう感じ。

ELLEはカソリックに喧嘩を売っているという評もあり、確かに当初はそういう気もしたのだけれど、オレが正しくカソリックは間違っているのだ等とバーホーベンがわざわざ主張するかね。世界はただ有り、そこで様々なことがおきる。あるものはループから脱出し、あるものは何も気がつかないままそこに留まる。小説『Oh...』を換骨奪胎して描こうとしたものは、そのようなものであったのだ、というのが一応の結論。カソリックもいじられてはいるのだけど、それは本質ではなくて、人間の機械性につけ込む枷の一つという程度の扱いだろう(要するに性欲と同じということ)。
もちろん主義主張があれば映画になる訳では無く、それが130分の映像となって観る者の目をそらさせないのは流石。しかも1938年生まれのバーホーベンは来年傘寿なのだが、枯淡という雰囲気は一切無く、バーホーベンのままフランス映画になっているという新境地を見せている。

 

 「この映画を作ることで、私は今まで自分が作り上げたことのないものを作れるかもしれないと思った。それは未知の世界への跳躍でもあるが、芸術家である以上、新しいことに挑むのは重要なことだ。私が一個の実存になることができるからだ。芸術家なら、できる限り未知の世界に足を踏み入れ、そこで自分に起きたことを見つめなければならない。」

 

と本人も述べておられる。


惜しむらく、というよりは単なる夢想であるのだけど、ミシェル・ルブランが父の死を知った刑務所からの帰り道におこした車の事故で、そのまま死んでいたとしたらどうなっただろうか。物語としても、映画としても破産をすることに間違いないのだけれど、本当の生とは、来たるべきクライマックスが確率の暴力によって阻害されるような理不尽さとたえず向かいあうところに存在するのであって、それが映画にならないかと妄想したりする訳である。ELLEがそういう映画ある必然性はもちろん無いのだけど、もしあそこで足を踏み外していたら、ナマの生にもう少し迫っていたかもね、と思わなくもない。ま、プロデューサーは止めるでしょうし、ボクも金主なら止めるでしょう。

 

ということで、他人は知らねど、ワタシには大変に面白い映画でした。次回作を期待します。

11/9 雑記

www.nikkei.com

 

はい、来ました。ついに因習維持だけではやっていけないな(見栄を張りきれなくなったな)という感じですね。いろいろやらかして体力がないみずぽ銀行が、まずはもうだめぽと言い出しましたね。そもそも日本の銀行の高コスト体質(単純作業に無駄なお金を払う体質)は世界的には嘲笑のまとだったのです。

最近、こんなツッコミもありましたし。

 

www.excite.co.jp

真実を告げると炎上する(カサンドラですね)というのは世の常だけど、これはキンコン西野(って、テレビ一切みないので、どんな人かよく知らないんだけど)の言ってることが正しいですね。nikkeiが援護射撃をしてくれた格好です。

 

ちなみに上記記事に相当にハズカシイ事が載ってたので晒しときます。

 

慶應卒銀行員です」という人は反論を書き込んでいる。

銀行員がロボットに代替されるという点については、「どんなイメージで言っているのか、代替される職業と代替されない職業の選別を説明してください」とコメント。その上で、


「自分がクリエイティブだから代替されないと言いたい思いがあるんでしょうか。銀行員はATMではありません。皆さんが知らない銀行の仕事は芸能界含めあらゆる業種に深く関わりお金の融通を利かせている仕事です」

と、銀行業の意義を説いた。

 

 

とあるそうだけど、銀行の本質である信用創造がまったくできない事で世界的に有名な日本の銀行員が偉そうに説くかね。お金の融通は結果だよね?そのまえに信用創造があるんだよね?邦銀はそれができないから、国内企業の支援という形でしか世界と関われないんだよね。

そして、そもそも日本以外の国では銀行員のコア業務をするひとは極めて少なく、日本で高いお金を払って人間がやってることって、よその国ではすでに単純労働として切り離しているものが一杯あるのだけど、そういうこともきっと判ってない。

 

まとめれば、AIが問題なのでは無くて、AIを言い訳にすることでようやく世界レベルの仕事の仕方に変わってきたよというのが昨今の情勢であって、本来ならばもっと早くにやっておくべき事だった、のでありますよ。

まあ、ものを考えず(長期的な産業動向を考えず)、銀行員になっちゃった人が現実を認めたくなくてグダグダ言い散らかすのは心情的には判るけど、どうにもならないっすね。

 

 

実は今日、明日行う社内ワークショップがまさにそれで、長期的な視点、本質的な理解をもって計画を立てようというマインドを持って貰うために若手を集めてあれこれやるんだけど(それに忙殺されてて、ブログが書けてなかった)、上記の銀行員のようなXXXXな事を言い出したらどうしよう。

いや、うちのこにかぎってそんなことはないはず。

 

 

追記

AIが仕事のありようを変えていくのは間違いが無いでしょう。ラッダイト運動は、やはり敗北するのです。

でもね、これは単純作業という言葉の定義が変わっていくということに過ぎないのでは無いかとも思ってます。つまり何かに低廉に代替(だいがえ と発音する奴はXXXXだ)できる仕事を、これからは単純作業と呼ぶようになるのではないかと。

実はいままでも仕事の興亡(順番的には亡、興ですが)はあったのだけど、AIはそのスピードを極めて速くしているので、亡ばかりが目立っちゃうのだろうな、と思いますよ。そして、そのような過去に経験がない産業構造の変化(に留まらない社会の変化)こそ政治が頭を使うべきところなんだけど、そこは為政者、国民共々どう考えているのでしょう。いつものごとく、興味は尽きないですね。

 

 

10/29 政治の役割

最近にやりとしたニュースがコレ。

 

www.nikkei.com

6兆円とは大きく出たなあと思うが、もちろん「本件は極めて重要なイシューなのだよ」という主張の根拠を固めるためのものであって、ウソとは思わないけどガチの本当でもないだろう。ではその主張の矛先はどこに向かうのか。
リンク先の記事を見ると国交省がターゲットのように見えるが、その向こう側があるというのが当方の読み筋で、6兆円という派手な数字は法務省を刺すための武装なのだと思われる、おそらく。

例えばこんな感じ。

 

diamond.jp

こういうのもある。

www.fujitsu.com

法務省仕事しろ、というための威嚇ツールとしての6兆円という気分がしてこない?

ちなみにその法務省は、戸籍のマイナンバー化を頑張ってらっしゃるのだけど、その先の見通しがきこえてこない。なぜ何だろう、社会を良くすることに興味がないんだろうかという気になってくる。多分、そういうマインドはないんだろうな。
土地登記をマイナンバーと紐付けてシュアにするというのは法務省のマターの筈なんだが全然やる気無しという怨嗟の声を耳にする(目にする)ことがあるけど、本件はまさにそこを突いた攻撃の模様。


本来の中央官庁の仕事というのは企画と監督が主たるものであって、それぞれの分担範囲のなかでこの先の社会をどうしていくかを考え(企画し)、それをコントロールするための法律を作り、分担範囲の中のプレーヤー(私企業であったり、地方自治体であったり)を規制・監督していくのが王道だ。実際のオペレーションをするというのは中央官庁の仕事ではないのである、本当はね。
ところが日本の中央官庁にはオペレーション自体が組織の中核になっているところが2つある。一つは防衛省で、もう一つが法務省だ。(あ、もう一つあるけど今日は省略)

毎度のことだけどwikipediaで見てみよう。

法務省 - Wikipedia

他の中央官庁との差は歴然。大臣官房を除くと、基本的にはオペレーション部局だけ。

 

法務省:国会提出法案など

にある提出法案をざっと眺めても、法務サービスの利用者(国民)を向いた法案ってほとんど無くて、現在のオペレーションの精度を向上させるか(例えば刑法の改正とか)、さもなきゃ裁判官の処遇(給与)を変えるか等の内向きの話ばっかりだ。

 

最近の民法改正はインパクトあったけど、でも

法務省:法制審議会 - 民法(債権関係)部会

にある検討の記録を読むと、斯界の権威が集まってアレコレ述べているだけで、サービス利用者の利便性向上というのを気にしてるようには見えないなあ。
オペレーション部局ばっかりだとそういう気分になってしまうのか、と思う事しきり。法務省が世の中のあるべき姿を考えるというのもぞっとしないけど。


尻込みをしがちな官庁を蹴飛ばすのは正に政治の役割なのであって、土地登記の件をフレームアップするのは筋としては悪くない。マイナンバー入れたんだから、毒を食らわば皿までで、可能な限り(少々の流血も怖れず)使い倒して欲しい-次の世代に、変なしがらみを残さないためにも。
この手の話は地味になりがちで(だから官庁のバリアーを中々破れないんだけど)、それを6兆円という圧力でぶっ飛ばすという絵柄に見えるのであって、つまりどのようなオチになるのか大変楽しみにしております。

 

少なくとも某党や某党が大勝してたら、この手の票に結びつかない、けど次の世代のために重要な話が停滞していたわけで、助かったなあというのが正直なところ。

10/27 Jerusalem

家で仕事をしながらランダムプレイで音楽をかけてたら、たまたまEL&PのJerusalemが流れて来てしまったところから今回の連想の漂流は始まる。


Jerusalemと言えばEnglish National Anthemにも推薦された歌であって(詳細は後出)、ロンドンオリンピックのオープニングでも合唱していた曲だ。そのLondon2012のオープニングセレモニーでは、オリンピックに出場する二人のランナーを巡るドラマ(映画)、邦題「炎のランナー」のテーマ曲も流れていた(サイモンラトル指揮だったそうです。あ、England出身だ)。「炎のランナー」、原題を「Chariots of fire」と言う。

今回もwikipediaから引用。

炎のランナー - Wikipedia

" Chariots of Fire " というタイトルはウィリアム・ブレイクの『ミルトン』の序詩"And did those feet in ancient time"からとられている。詩では "chariot of fire" と単数形。ブレイクがモチーフとしたのは、旧約聖書『列王記』においてエリヤが炎の戦車(Chariot)に乗って地上を見下ろすシーンである。

以下は詞の抜粋である。

Bring me my bow of burning gold!
Bring me my arrows of desire!
Bring me my spear! O clouds unfold!
Bring me my chariot of fire!

わが燃えたぎる黄金の弓をもて
欲望の矢を、槍をもて
雲よ散れ
わが炎の戦車をもて

 

 

Jerusalemの歌詞デスネ。そういや映画のラストでも聖歌隊によって歌われているし。

 

エルサレム (聖歌) - Wikipedia

にも

18世紀イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの預言詩『ミルトン』(Milton)の序詩に、同国の作曲家サー・チャールズ・ヒューバート・パリーが1916年に曲をつけたオルガン伴奏による合唱曲。
更にはラグビークリケットでのイングランド代表が国歌として使用しているなど、イギリス国内では様々な場面において特別な扱いを受けている作品である。
 

 

とある。してみると、ロンドンオリンピックのオープニング/エンディングは、イギリスの誇る商業音楽家が大量に出てくるというショーであると同時に、イギリス(というかEngland)が誇る詩人、William Blake祭りだったのだという気がしてくる。

しかしWilliam Blakeである。元々BlakeはThe Doorsがバンド名をパクッたネタとして私の中では認知されており、メスカリン上等の幻視派の詩人は確かにJim Morrisonの大先輩だろうよとは思うのだけど、だからこそオリンピックや(準)国歌、そして炎のランナーにジャストフィットな、あまりにもストレートに見えるJerusalemの歌詞には違和感がある。逆にBlakeとThe Doorsの地続きが一般常識なのだとしたら、そんなのをオリンピックのオープニングでフィーチャーして良いのかとも思う。

 

よし現実逃避で真面目に調べるかということで、しばしネットをうろついたところ、London2012を含めて解説をしてくれるヒント情報満載のページに行き当たった。

 

www.redicecreations.com

ちょっと引用する。

A cast of 10,000 volunteers will help recreate country scenes, against a backdrop featuring farmyard animals and landmarks like Glastonbury Tor.
The opening scene of the £27m ceremony will be called "Green and Pleasant", artistic director Danny Boyle revealed. 

 

「オープニングシーンは"Green and Pleasant"という」と美術監督であるDanny Boyleが明かしたと。
ふむふむ"Green and Pleasant"ね。

そして、同URLのWEBページ内を Blake で検索すると、コメント欄に素晴らしいことが書かれている!

Like almost everything to do with the Olympics, the art, music and thematic choices for the opening ceremonies are made with wide-ranging symbology in mind.

The selection of "Green and Pleasant" is an interesting one in that it not only speaks to the beautiful physical landscapes England possesses, but also indicates the long history of religion and mysticism in the British Isles, and gives a pointed nod to what many believe is the Zionist message contained in these events.

The "Green and Pleasant" theme is a line taken from William Blake's 1808 poem, "And did those feet in ancient time", from a collection of writings known as the Prophetic Books.
It is best known today as the anthem "Jerusalem", the music having been added by Sir Hubert Parry in 1916.

 

やはりBlake祭りである(っぽい)事が指摘されている。そうですか、Prophetic Booksですか。

そしてこの有益なコメントは、続けて本当に恐るべきことを語る。無学なワタクシとしては畏れ入るばかりとなる。

The poem was inspired by the apocryphal story that a young Jesus, accompanied by his uncle Joseph of Arimathea, travelled to the area that is now England and visited Glastonbury during Jesus's lost years.
The legend is linked to an idea in the Book of Revelation (3:12 and 21:2) describing a Second Coming, wherein Jesus establishes a new Jerusalem.

The Christian Church in general, and the English Church in particular, used Jerusalem as a metaphor for Heaven, a place of universal love and peace.

In the most common interpretation of the poem, Blake implies that a visit of Jesus would briefly create heaven in England, in contrast to the "dark Satanic Mills" of the Industrial Revolution.

 

ああ、そうですか、GlastonburyにJesusが来てたんですか。普通の人にはそういうのって思いつけない。まさに幻視派。
そういう文脈でJerusalemを見直す(読み直す)と世界の様相は一変する。何故かと言えば、London2012のメイン会場はGlastonburyだから。Danny Boyleは何もかも判っててBlake祭りを開催したんだな。

 

大英帝国の人々の間でこれらのことがどの位理解されているか、というのはワタクシの如きには見当もつかない。たとえばJerusalemはGlastonburyゆかりの曲だという事とか。その背後にヤク中の詩人が潜んでいるとか。そしてGlastonburyには、かつてJesusが訪れたことがあるとか(幻視)。
ソレコレが判る人は判れば良いし、判んない人は「炎のランナー」(Chariots of fire)からJerusalemの繋がりでEngland!! England!!(WellsとかScotlandは放置な訳ですが)と盛り上がってろという二面性のある演出をDanny Boyleは仕掛けたのだなと、5年も経ってようやく得心しましたですよ。Blakeが幻視者だと知っている人には違和感が出てくるのだろうけど、そこについては"Green and Pleasant"と言う手がかりを残しているので上手く調べろと(今回は親切な人が恐るべきことを 教えてくれた訳ですが)。

 

...こちらの妄想も広がりきったのでまとめよう。

 

幻視者のみた世界観がLondon2012(のセレモニー)のベースにあるのだとしたら、イギリスの誇る商業音楽家が大量に出てくるというショーの構成も一本の筋が見えてくる。アレは「妄想体質のヤク中が詩を垂れ流す」という伝統芸能の系譜が世界を席巻した事を理解しろというメッセージではないかと。であればこそのJerusalemスタートのオープニングセレモニーだったのではないか、と。
Chariots of fireは?アレこそが普通の人を謀るためのアイテムなのであって、Blakeもまた健全なのだ(だからBlakeテイスト溢れるセレモニーのデザインも安心なのだ)、という虚偽の主張を補強するための材料ではないか。
つまりDanny Boyleの企んだデザインはこうだったのではないか。普通の人にはEnglandの聖歌(Jerusalem)、Englandとオリンピックの感動的な関わり(炎のランナー)、Englandが誇るポピュラー音楽というViva Englandに見え、Blakeを知っている人にはかつてJesusが訪れた場所(Glastonbury)にその事を言祝ぐ詩が響き(Jerusalem)、その事を記した詩人(ヤク中)がモチーフである事を暗示し(炎のランナー)、その事を記した詩人(ヤク中)の末裔が世界を席巻したことを伝える(Englandが誇るポピュラー音楽の数々)というBlake祭りに見える。そのような二重の構成をもったショーを目論んだのではないか。

もちろんそれはワタクシの妄想であるのだが。

 


追記
おっと、大事なことを忘れていた。
EL&Pはどっちの積もりでJerusalemを演ったのだろうという疑問が残る。つまり普通の人が知るところの聖歌やありがたい歌としてのJerusalemなのか、それともWilliam Blakeを知るものとしてのJerusalemなのか。
EL&Pの健全さから考えて前者のような気がするのだが、さてどうなのだろう。どこかにインタビューなど残っていないものだろうか。

 

10/23 日経ビジネスオンラインにあきれる

本日届いた日経ビジネスオンラインのヘッドラインメールに激しく呆れる。

こんな見出しが載っていたのだ。

 

◾️選挙は終わった。さあ、働こう。

 

元ネタは言わずと知れた、アレである。

 

「祝ひ終つた  さあ 働かう!」大政翼賛会謹製のコピーである。

今年は皇紀2600年であって、来年には米国と開戦するのかと思ってしまった。品のないことこの上ない見出しである。

(不幸にして元ネタをご存じない方は以下を参照されたし

紀元二千六百年記念行事 - Wikipedia

 

 

ヘッドラインに続く記事のサマリーを見れば、生産性向上関連の真面目なもののようである。アイロニーでも、嫌がらせでもなくて、あのネタを使って見出しを作るってのはどういう了見なのか?そして、それをたしなめる上席は居なかったのか?

只々あきれ果てるものナリ。

 

10/18

今一つスッキリしないので、今日も生存確認のエントリでお茶を濁す


今年の2月に某件で救急車に乗ってからというもの、街を走る救急車を見る度にDOAではありませんようにと思うようになった。DOAはdead on arrivalの略。ところがプロに聞くと、DOAとは言わずCPAというのだと。
CPAはCardioPulmonary Arrestの略で、心肺停止のこと。うむむ、そうきたか。

 

心肺停止 - Wikipedia

報道用語としての「心肺停止」と、「死亡」の境目

日本のマスメディア(メディア)では自然災害や事故に遭遇して死亡し、医師による死亡確認・宣告がまだ行われていない状態の人について「心肺停止」「心肺停止状態」と表現される[1][2][3]。

日本の医学界では、実際には死亡していても、心停止と呼吸停止のほかに脈拍停止と瞳孔散大(散瞳)を確認して医師が死亡を宣告しなければ法的に確定しないとされており、医師以外の者(救助要員や警察官・報道関係者など)は心停止・呼吸停止を判断することはできても、死亡を宣告することはできないことが理由である[1][2]。ただし例外として、救急隊が到着した時点で、既に死後硬直が始まっているか死斑が現れている、低体温であるなどいった状況から救急搬送する意味がもはやなくなっている場合、死亡判定がされることがある[3]。

事故・災害現場において、まだ救出できておらず、医師も近づけない状態にある遺体や、病院に運ばれている途中の遺体は、医師による死亡が未宣告であり「心肺停止」とされる。

日本国外のメディアでは、日本のメディアが「心肺停止」と報じていても、世界の報道では「死亡」「遺体」に該当する語が用いられることもある[1]。

 

 

と、あるとおり、日本では医師が診断しないと死んだことにならない。そりゃDOAとは言えないよなとおもう。思うんだけど、じゃあ医師が現れなければいつまでも不定な状態が続くのかというと、実はその通りで大規模災害の時なんかにそういうことがあらわになる。311のときも、御嶽山噴火のときもそうだった。
(ただし医者の問題だけではないよ、という貴重な情報を以下に発見した。たしかにこれは有りそうな話)

matome.naver.jp

 

さて、そのような状況に一石を投じる文書を仕事の途中で発見したので、ここに残しておきたい。

http://wwwhourei.mhlw.go.jp/hourei/doc/tsuchi/T170913G0020.pdf

 

背景を説明したサイトは、例えばここ。

medit.tech

 過疎と高齢化、地域医療の資源が枯渇しつつある地方において、医師が遠方にいるなどして死亡診断が遅れ、円滑な死亡診断書発行、埋仮想ができない恐れが増加している。そのため、それを回避するため住み慣れた地域から遠く離れた病院に入院したり、逆に医師のいる場所までの長距離輸送を余儀なくされるケースも出てきており、対応が望まれていた。

 

ナルホド。社会を維持するリソースの減少というのは、様々な影響を引き起こすのだなあと嘆じたことですよ。


いかん、次回こそ明るいネタを書こう。

 

10/11

ネタの推敲に時間が掛かりすぎて、全く更新が出来てない。このままだと書けなくなっちゃう。
ということで、当面は生煮えを辞さずと云う方針で臨むことにしよう。そうしよう。

 

では、諸々雑感。
日産叩きの記事にげっそり。さすが現代。だろう、だろうで煽ること煽ること。
プロセスの問題と型式認定の取り消しを混同するとか、現代っぽい、もっともらしいけど論理の線が通っていないクソ記事にどきどき。
出口がない暗愚さ。まあ、日本らしいかも。保守・リベの対立が喧しいこの頃だけど、ばか・非ばか、下品・非下品の対立の方が個人的には大問題。現代は、ばか&下品の代名詞だね。

gendai.ismedia.jp

まだこういう記事もある。ちょっと安心。メディアがメディアだから日産に忖度したのかもしれないけど、でも内容は理性的。

clicccar.com


そして話題は飛んで、みつを。

business.nikkeibp.co.jp

ノーベル賞授賞者はみつをファンの行動経済学者。
みつを、畏るべし。

 

さらに話題は飛ぶ。
10月は去年、一昨年とお布施のシーズンである。ホントに助からないと思ったのは、2015年の12月らしいのだけど、ガン治療の途中で万が一を考えたのか、5年を区切りとしたBoxセットを何年かに渡ってリリースする計画が発動されたのだった。最初のBox、FiveYearsの時には単にⅤivaリマスター位の気持ちだったのが、年が明けた1月l0日にはそれが大いなる勘違い、浅薄な理解だったことを思い知らされる事になる。
贈り物、と解するべきなのだろう。今年を含めて、あと3、4年は便りがとどくのだから。

amass.jp

3回目である今年はベルリン3部作。・・・3作目がSTAGEなのか、LODGERなのか、個人的には微妙。WikipediaにはLODGERが、という記載があるけど、LODGERはハンザスタジオじゃないんだよね。Enoがいれば良いのか?う一ん、と思うくらいLODGERは断絶感がある。

すつきりしようとBerlin Trilogyでググってみると、何時ものごとく、一発で答えが出るのだった。

Berlin Trilogy - Wikipedia

Bowie began referring to the three albums as a Berlin-centered trilogy
during the promotion of Lodger, although "Heroes" was the only
installment primarily recorded in the city.

 

ああ、そうですか。
日本語版は、素直に翻訳記事載せろと思いましたことですよ。