all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

2/21 再開を誓う

1年以上ほったらかしにしてました。

 

その間にも様々イベントが...。

 

  • 40年前からの知り合いに30年振りにお会いして食事を共にするという幸運に恵まれる。
  • amazonのレビューの何かがマズかったらしくレビュー権限が剥奪され今までのレビューがすべて消されてしまった(いや、判っているのです。国家社会種主義という訳語はおかしい、国民社会主義とすべきだという奇妙な主張を行う本に対して、いやいやその時期のドイツならナツィオンは民族と訳すべきでしょうと書いたのが引っかかった模様。もしや著者自らアカバンのために努力したのか?もしそうなら、それはそれで胸熱だが)。
  • 1/1の地震。うちは直撃の地域ではないのだが(それでも面倒な事になった)、同じ県内のことなので知り合いや、知り合いの知り合いくらいには本当に大変な事になった人が繋がってくる。何ともいえない。出来る限りのことはしたいが、直接貢献できるスキルがない凡人にいま出来るのは義援金だけという状況。
  • コロナの後遺症で半年くらいあたまが悪くて難渋した。

 

書いてみるとチマチマしているな(地震は除く)。

なんだか色んなことがあったはずなのに、そして振り返ればくっきりと思い出せるとおもってたのに。

 

うーん、これを老化というのでしょうか。おそらくそうなのです。書き付けを残しておかないとマズイお年頃になってしまったのです。

 

 

そのような訳でblogの再開をしようと決意をした、ということを記録しておくものです。

事業計画の指導地獄(これはされるほうの地獄ではなくて、同時にいくつもの計画が入ってきてパラレルに指導する側の地獄)もボチボチ終わるので何とかしますとも。

思い出のない老後というのは洒落にならんですから。

 

12/中旬 故あって近くのホテルに泊まったときのメモ。

翌朝早く動かなきゃならない、しかも前夜から雪が降るらしい。では地元駅前のホテルに泊まりましょうという判断をしたときの記録。

 

泊まったホテルは金沢駅に向かって右手の角のアレ。*1

 

さて、メモはこんな感じ。

----

エントランス、受付、廊下で感じる(感じさせようとしている)イメージと、部屋の実際には大きなギャップがあり、そこにがっくりきた。
羊頭狗肉、姿形のよいビジホ、ただし部屋が広いのは手柄というのが今回マジメに泊まってみての印象。

構え、設備(バンケットあるんだよね)、部屋の広さなどからビジホとは言いがたいものの、普通のホテルなのかと言われるとそれも困る。
おんなじような感じのホテルとしては目黒のプリンセスガーデンというのがある。あそこもまさにそんな感じ。こういうのってどう言えば良いんだろう。
プレミアムビジホ?しかしビジホにバンケットというのは...。
やっぱりカジュアルなのかね、ハイビジネスではないし、まさかアパーミドルの筈はないし。

以前に忘年会か何かで深夜まで延々と飲みが続く予定のときがあり、帰るのが面倒だと思って一回予約をとって泊まったことがある。そのときはそれほど悪い印象じゃなかったんだけど、はやり酔っ払いの評価はアカンらしい。今回泊まってみて、かなり違った結果になったのにびっくりした。まあ、これは自分の不正確さについてなんだけど。

 

もう少し細々と。

部屋の静粛性がとても低い。床が薄いのか、夜遅くまで、そして朝早くからどこかの部屋のどかどかと歩く音が切れ目なく入って来る。
スタッフは時々実際に泊まってみると宜しい。
ビジホではないのだから、このうるささは致命的。

致命的と言えばバスルームが持ち上がり型(一段高くなっているタイプ)なのも興ざめ。
これこそビジホの典型的な作りではないの。だから階上、階下の音がうるさいのだな。フラットにすると、下に下がる分床の高さが上がる。それをケチった結果、ホテルに一番必要な静粛性が失われてしまっているのだ。

塵も積もれば、ではないが確かに持ち上げにするかフラットにするかでワンフロア分は客室数が違ってくるだろう。
しかしそれはビジネスホテルの論理だ。

バスの設備も、言いたくはないけどショボイ。いまさら温水、冷水の蛇口が二つあるのってどうなのだろう。そこをケチらなければならなかったのかと不思議な気持ちに。

 

ベッドは悪くない。ここは素直に好印象。
ただしどうやっても常夜灯が消せないのは致命的。
浴衣がベッドの上におかれていたので*2、その帯で目隠しをしつつ寝た。その分眠りが浅く恨みが残る。アイマスクを売っていたら1000円でも買っただろう。ホテルは商機を逃している(イヤミ)。

 

スタッフはなんというか、もっとお高いホテルのつもりの雰囲気でちょっと困っちゃう。

昔ホリデーインだった時から、ここは偉そうなんだよね。何か勘違いしている。なんというか、今は大昔の学生時代に大阪でロイヤルに飛び込みで入ったときのあの冷たい目線を彷彿とさせるのだ。そうかね、わたしゃあのときと何も変わってないように見えるのかね、と逆上してしまいそうになる目つきだ。

今のホテルに建て替えて名前も変わったんだけどオーナーは変わらなかった筈で、してみるとこれはオーナーの好みなのか?ホテル建て替え後に一回オーナーチェンジをしてるけど、これは居抜きだった筈だから文化はめでたく継承されたんだろう。

それとも立派なホテルになるためには、スタッフにあの目つきが必要なのだろうか?

よくわからない。

 

あさ8時過ぎ、ベッドの上でニュースをチェックしていると廊下から金沢弁が聞こえてくる。賑やかを通り越してうるさい。
どうも清掃スタッフが楽しく語らいながら仕事をしているようだ。

うーむ、やはりスタッフは時々実際に泊まってみると宜しい。改善リストがすぐに山のようになるだろう。

 


まとめればこんな感じ。
やはり収益を狙って持ち上げ型のバスルームにしたときにホテルの骨格は決まってしまっていたのですね。最初のオーナーの風評からすると、そういうコスト優先の判断になったのだろうなと想像はしますが、しかし勿体ないことです。良い場所なのですがね。
そしてその骨格の上に、バー、バンケット、食事どころなんかが乗っかっているわけで、さてこれはなんだろうという気持ちになったりします。

そうですね、七尾駅のまん前に構えるくらいだとちょうど良かったのだろうとは思いますが、いまの場所だと役者不足は否めませんね。

*1:金沢駅は東口、港口とあるらしいのだけど、いい年をした市民は東口のみを玄関口として認識しており、港口の方はいつまで経っても裏口の気分だったりする。金沢駅の港口は品川駅の港南口のようなもので、昔はただの通用口だったのだ。ともあれその気分が抜けないので、わざわざ港口と言わなければ東口に決まっているというのは、まあいやらしい物言いに聞こえるだろう。そこは十分自覚している。しかしそれぞれの人はどこかの局所性、固有性に依存して暮らしているのであって、開かれた説明を常にしろというのは、それはそれで極左暴力主義の温床に他ならない。

*2:なぜ部屋着に浴衣! 観光都市の玄関口にあるホテルなのでエキゾチシズムを出したいのか?まさかね。

12/上旬 久しぶりに外れホテル(ビジホ)だったので、怨嗟の記録。

大井町のヴィアインに泊まった時のメモ。

 

何しろ廊下の声が良く聞こえる。
客筋が悪いのか、12時近くになって団体の酔客が大声でやりとりしてるのがよくわかる。

壁や扉の防音機能がないんだから団体で予約がはいったら、部屋を分けてアサインするなどの智恵を使えばよいのだが、そういう事に対する想像力がない。
想像力がないといえばチェックイン待ちの大行列もそうだ。
22時ごろにチェックインしたのだが、4つ受付があいているにも関わらず20人近い行列ができている。つまり処理するスピードよりも到着する人数の方が多いのだ。
なぜ行列ができるのか、分析をする頭がないのだな。
そのような惨状に直面しているフロントスタッフの態度は慇懃無礼。すばらしい、実にJR-WEST的だ。運営会社は当然別資本なんだろうが、JR-WESTで出会う官僚的な「サービス」と同じ感じなのが面白い。そういう態度になるような要件やスタンスを、WESTは運営会社に対してインプットしているのだろうか。実に興味深い相似性だった。

ベッドはとても安い感じ。この底つき感は久しぶり。一泊当たりのコストをミニマムにするという事に全力を振り絞った結果、宿とは何なのかという本質が遠のいている。
これはアメニティについても同様。APAの爪のアカでも煎じて飲むがいい。


ここまで書いてなるほどと気がついた。これはJR-WESTと同じだ。旅客業とは何かを忘れて統制と経費削減に血道を上げるあの感じだ。ちゃんとJR-WESTの文化に揃えられているのだな。


結論。
ヴィアインはどこで泊まってもがっかりするのだが(だから最後まで空いているのだが)、それはこの大井町でも全く同じ。
JR系でもEASTがやっているメッツなんかはそんな事はないのであって、鉄道会社だからマズイという事ではないのだ。JR-WESTの何かがそうさせているのだなあと納得がいったのは収穫だが*1、だからといってこの「損をした気持ち」は消えることはないのであった。

*1:日勤教育って本当に根深いのかもなあと思いましたことよ。あれは原因じゃなくて、アレをやらなきゃならないという組織のDNAがあるのですね。だからきっとWESTはまた何かをやらかしますわ。これは直感というよりも直観。ほっとにべったりとWESTの刻印があったなあと。

12/25 (本当にメモ)「フーシェ」ってどう思われてるんだろう?

川島正次郎は「江戸前フーシェ」と呼ばれたそうで、なんとも言われぬ味わいがある。

江戸前+(ジョセフ)フーシェってのはちょっと思いつかない。時代なんだろうか。しかし渾名だったというのだから、それが人の口に上ったわけで、当時の常識の水準の高さが忍ばれる。

とはいえ、行跡をみるとあんまりフーシェぽくはない。

たとえば岐阜羽島に新幹線駅をつくらせた以外、今に名をとどめないところのない大野伴睦を総裁選で転ばせたのがこの川島正次郎なのだけど、その際に発したとされる言葉が

「要は勝つこと。負けた後に文句を言っても何の解決策にもなりませんよ」

だそうだ。

あんまりフーシェっぽくない。ホンモノのほうは、そういう時も(いや、そういう時こそ)韜晦したのではないか。

 


他にもフーシェと渾名された日本の政治家はいて、後藤田正晴は「日本のジョセフ・フーシェ」なんだそうだが、帝大出て役人になっといてフーシェもないものだと思うのは私だけか?*1

 

 

 

ツワイクの講談調のフーシェを丸呑みにする訳にもいかないが、生存と権力の(しかし裏口からの)追求が表裏一体であった時代に、なんらの制約もためらいもなく、ただ才能を発揮した人の名前を付けるには、日本の政治家二人はあまりにも小粒過ぎる。

いや、川島正次郎のほうはそれでも後世に悪名を残しているあたり、まだフーシェになぞらえられる資格をいくらか持っていたのだろう。

しかしこの日本の政治家二人とフーシェには決定的に異なるところがある。

それは晩年の没落だ。

フーシェは特異な人であったが、その名前が後世に残っているのは特異な時代と結びついて特異な輝きを放ったからなのであって、その時代が終わると同時に没落を迎えるというのはある種の必然としか言いようがない。

*2

そのような特異性や一回性は、川島正次郎にも後藤田正晴にもありはしない。

気安くフーシェの名前を使わないでほしいと思うのです。

時代無くしてフーシェなしというか。

 


いや、しかし「江戸前フーシェ」のキャッチーさにはおそれいるのですがね。

 

 

 

*1:ちなみに保阪正康の後藤田の評伝はほんとうにつまらない。吉田茂の評伝に感じた保阪正康の限界が、そのまんま符号反転したようなつまらさなと言えばよいか。

*2:同時代人であり、同じように時の政府の間を泳ぎ回ったタレーランが、実は時代との関わりが希薄であった事と対象的だ。基本的にディレッタントだから、タレーランは。故にタレーランは満ち足りた晩年を過ごすのだけど。

9/1 「日本の人事部」、これは...。

日本の人事部とはココ。

jinjibu.jp

 

面白そうな資料があったのでダウンロードボタンを押下したところ、

ご登録内容を確認次第、資料ダウンロードの可否をメールでご連絡いたします。
今しばらくお待ちください。

 

というアナウンス画面に遷移した。

おやおや、資格審査があるわけだ。

 

さてこの資格審査、「日本の人事部」に閉じて行われてるのなら何も問題無いのだが、これが資料の提供元であるSmartHRに一旦データが渡って行われているのだとすると、個人情報保護ポリシーの書きぶりはちょっと注意しなければならないだろう。

 

さて、実際にはどうなっているか?

プライバシーポリシーを見てみよう。

jinjibu.jpここには利用目的として以下が掲げられている。

会員が掲載企業へ問い合わせ、資料ダウンロード、またはセミナーの参加申込を行った際に、当該掲載企業に会員情報を提供するため

 

利用目的が「会員情報を提供するため」となっているのは根本的にセンス無いとは思うけど、今回気になるのはその手前だ。ダウンロードの申し込みではなくて、ダウンロードという行為自体が条件になる書き方をしている。

とすると、ダウンロードが拒否された場合はこの条に適合しないことになる。

 

さて、「日本の人事部」の行うダウンロード可否判断は社内に閉じているのだろうか、それとも当該掲載企業までつながっているのだろうか?

なんだか気持ち悪いなあ、ダウンロードさせてやらない、と言ってきたら、お便りして個人情報の扱いについて確認してみたくなってしまうではないか。

面倒なのでおそらくやらないけど、しかし気にはなるのだ。

 

 

とここまで書いて、もう一度ダウンロード画面を見直してみると、末尾にこんな注記がある。

 

※資料の不正利用防止のため、事務局によるご登録内容の事前確認がございます。1~2営業日中に確認を行い、資料ダウンロードの可否をメールでご連絡いたします。
※掲載企業及び取り扱い企業にあなたの会員情報が送信されます。あらかじめご了承ください。

 

 

 

これはまったくダメですな、第三者提供に関する告知の仕方をまったく理解してない。リーガル通したとは思えない文言である。

個人情報保護法が面倒なのは、個人情報に関しては契約自由の原則が適用されない(=了承したからOKなのではない)からであって、法の縛りに従って告知をせねばならんのだけど...。

 

ただ「日本の人事部」はPマークを取得している(!)ので、よって2年に一度更新があり、その際には文書審査、現地審査がある(そして結構面倒なのは、弊社もそれに対応しているからよくわかっている)。そのときに突っ込まれるとは思うのだが、しかし審査員もピンキリだと聞くしなあ...。

 

 

まあいいや、ダウンロードの審査というのは今まで見たことがなかったものだし個人情報保護法との相性が激悪なので、とてもとても驚いたということは記しておこう。

まあ、ありえないレベルだということで。

 

 

 

あ、そうだ、もう一つ本件に関して記したおかなければならない事があった。

それは「日本の人事部」的な、会員制情報提供サイトのマスクをかぶったWEBマーケティングサイト(以下、生け簀サイト)を運営するビジネスモデルに秋風が吹き始めているという予感だ。

 

ダウンロードの審査云々は、生け簀サイトから生成されるリードの質が低い(=せっかく入手したリードリストに対して手間暇を掛けても、そこからのコンバージョンが上がってこない)という事がばれ始め、少しでもリードの質を上げる必要に迫られた生け簀サイト側が導入した新機軸に見えて仕方がないのだ。

「不正利用」とは片腹痛しであって、そんなレベルのエサをそもそも撒いていないだろうに。

 

例えば電子カルテなどのように、

  • ある程度以上の単価があって、
  • しかも先進的な顧客はもう導入が一巡していて(それどころかリプレース合戦もアタリマエになっていて!)、
  • ところがそこから落ちこぼれている未導入の中小の病院・施設があって、
  • そんなところも国の施策によって電カルを入れなければならない圧力がかかっている

などというマーケット状況であるならいろいろとやりようがあるんだけど、「日本の人事部」を生け簀サイトとして使うタイプのビジネス(製品およびサービスの販売)は、結局のところ「会社向けコモディティー」の提供に他ならず、リードそれぞれの事情に食い込んだ「提案」なんかをしている余裕がない。単価も多寡が知れてるしね。

 

今現在、ビジネス向けのクラウドサービス(会計系のあそことあそことか、HR系のあそことかあそことか、CRM系のあそことか)は、だがしかし、生け簀サイトによるリードジェネレーションと、それを受けての電話を使ったリードナーチャリングで何とかしようとしている。

だから資料をダウンロードすると間髪入れずに電話がかかってきて、10分~15分くらいそれっぽい話をして、では何かありましたらよろしく、という無駄な時間が毎回発生していたのだ。*1

 

 

だってこっちは資料が欲しいだけなんだもの。

検討はゆっくりしたいんだもの。

テレアポのオペレーターがぞんざいなスクリプトベースでセールストークをしても、心に何も響かないんだもの。

プラスの評価はゼロに、ゼロの評価はマイナスになるだけなのよ、しかも自殺点で。

 

 

思うに「会社向けコモディティー」をWEBマーケティングと、それに続くテレアポ軍団で売ろうという発想がそもそも間違いなのだと思う。

コモディティーに提案無し」なのであって、マルチチャネルで見込み顧客への接触を図るのはコモディティー販売のお約束だとしても、その際WEBマーケティングはブランド浸透にとどめるのが吉であって、そこでリードジェネレーションをしようと欲をかくのはどうかと思う。あれこれ見比べて買いたいのに、資料を引っ張っただけでグズグズ電話をされると買う気まで失せてしまうではないか。

そういや本当に「売る」店員さんはのべつ幕無しに声を掛けるなんてことはしないのだそうで、そころが「会社向けコモディティー」であるクラウドサービスを売っているところはその真逆をやっているのだ、揃いも揃って。

 

いや、本当に判っている会社はそんなことはしない。

SFAと言えばアレという某社はセールスはパートナー会社にまかせ、自身は情報発信とブランド向上に努めている。サイボウズだって、ファンの力をつかって情報を増幅発信する事に力を入れている。

いずれも手厚いリードナーチャリングで売るのではなくて、ブランド+製品のエクセレンスという王道と、製品に適した販売網で供給することの組み合わせで商売している。

 

しかし生け簀サイトを使っている会社はその真逆だ。

頭が悪いことに理由はないので、まだ使い続けている理由を考えていても仕方がない*2のだが、「コストに見合った成長」が得られないと観念する日はきっと来る。なんでこんなに販売費がかかってるの? と誰かが問う日が必ずやってくる。

そして今回発見された「日本の人事部」の施策、これこそ「なんでこんなに販売費が?」という問いが始まっているサインに見えて仕方がないのだ。いや、ご本人たちはこれでリードの質がアップして、と本気で思っているのかもしれないけど。

 

嫌気がさして生け簀を抜けるユーザーが出てくるのか、それとも(ちょっと信じがたいが)思惑通りリードの質が向上し生け簀サイトとしてより発展するのか、これからの動向が気になってきたのだった。

 

しかしなあ。

日経系やitmedia系のように、対象、商品の性質、サポートするWEBマーケティングの方法がすべてかけ算になっているものをフルラインナップな生け簀サイトと呼ぶとすると、「日本の総務部」は対極である。対象、商品の性質、サポートするWEBマーケティングの方法がすべて一通りという専業生け簀サイトは、やはりその集中(という名の局所最適)によって顧客の動向の変化に追従できず滅びていくのではないかと思うのだ。

フルラインナップな生け簀サイトであればポートフォリオ的にやっていけるのに対して、専業の生け簀サイトはいつも代替案なしの一本勝負しかできない(まあ、だからあんな愚策をやらざるを得なくなったのだと思うのだけど)。

しかも集中した事業環境というのが、コモディティを筋の悪い方法で売ること(WEBベースのリードジェネレーションと電話ベースのリードナーチャリング)なのだから...やはり潰れるか、身売りまでいくと思うんだけどな。

来年くらいには筋道が判るかな?

 

なんにせよウオッチ対象があるのは良いことであって、来年まで生きていこうという気持ちに1ポイントくらい加算されたのであった。善哉。

 

*1:で、彼らの初回の電話の目標は、WEB MTGをセットすることで、これにYESというとさらに1時間の出費が発生することになる。

*2:だってうまくやっている会社を横目に見て、今なお生け簀サイトを使ったリードジェネレーション+テレアポによるリードナーチャリングに命をかけてるんだから、正気だとは思われないのであって。

6/12 宿題をやった

やらなきゃと思いながら手を出しかねていたこと(宿題)を立て続けにシュートしたので記録を残す。

なるべく手短に。

 

1.Moonridersの新譜

 

まさか新譜が出ようとは。

あんまりありがたすぎて、4/20の発売日に入手したものの今日まで聴いていなかった。

いや、大丈夫だと思うんだけどね、でも、ほら万が一ということもあるし。

 

 

ようやく意を決して聴いたのが本日、6/12。

まったくの杞憂でした。誠にもうしわけない。最高です。

老いではなく成熟を。経験と蓄積に振り回されて焼き直しをしてしまうのではなく、経験と蓄積を使い回して新しいものを作り上げるということを。集大成として形をなしていこうとするのではなく、なお完成に向かわず広がっていこうとする様を。

そういう事を最初から最後まで突きつけてくる、ある意味おそろしいアルバムでした。

いや最高なんですが。

 

ファンでよかった。40年以上付き合い続けてて本当によかった。

prtimes.jp

よりにもよって、なぜPRTIMESの記事を使うか。

ここに出てるってことは、自力投げ込みじゃなくて@pressとかそういうプレス業者使ったんだろうな、それって面白いなと思ったことの備忘録として。

 

ともあれ、ついていきますどこまでもと思いを新たにしたのでした。

 

 

2.シンウルトラマン

 

これも5/13の公開からずっと寝かせっぱなしで、昨日ようやく観た。

ウルトラマンだと思わなければ最高に面白いというのが感想。SF映画として非常によくできてました。オチも暗いしね。

またウルトラマンという系に定義を与えるという試み(おそらく制作側の意図はこっちでしょう)としても出来がよい作品だったと思います。定義に対する証明も適切に与えられていたのではないかと。

 

----

もともとのウルトラマンは走りながら作られていたものであって(しかも、未踏領域の先頭走者なのであって)、一貫性とか作品としての主張なんてものがあるとは思っていないーこれがセブンになると大いに変わってくるのだけれど。

なので、ウルトラマンが好きという言説は眉に唾して聞かなければならないと思っている。みんな、それぞれの好みの点、せいぜいが線の話をしてくるからだ。ウルトラマンという「作品」を語るという人を見たことがない(金城哲夫というフィルターでウルトラマンを捕まえた気になるのも、やはりどうかと思うのだ)。散見される批判的な映画評はほぼこのパターンに終始している*1

 

作品としての一貫性がないとは、言い換えれば活用可能な隙間が多いことでもあるのだけど、当の円谷がシリーズ化してしまったせいで(しかも「帰ってきた」など早期にリブート手法を取ってしまったために)、当のウルトラマン自体の隙間は放置されっぱなしで今日に至っているとみている。もちろんその隙間、もっとはっきり言えば混沌の故にすべての派生作品は成立しているんだけど、この土台のうえにさらに建物を建てていくのはやはり厳しい。

今後もウルトラワールドを続けていくなら、なぜ何かと合体した人間が巨大化して戦わなければならないのか、この問いが成立する基盤を用意する必要があったということだ。

 

そのような背景をもとに、既作を包含可能であり、かつ新しい作品を建設可能な土台をつくるという難題に挑んだのが本作だとみている。

----

 

と勝手に思っています、シンウルトラマン

そこからスタートすれば、あのシナリオはおそらく必然。

話を詰め込みすぎという評をあちこちで見るけど、これ以上どうやって薄くすると言うのか、君たちはウルトラファイトが見たいだけなのではないか?なぜだか日本にウルトラマンがやってきて、アレコレあって別れがあって、そしてこのあと地球防衛軍が出来るという事に筋を通そうとすると、これ以上の答えはなかなか思いつかない。

特に日本でなければならない事について、間接的にだが説明がついたのはびっくりした*2

またウルトラマンの最終回にある希望と、ウルトラセブンの極めて暗い世界観の断絶が本作でうまく整合されたのは何よりだと思っているーセブン派なので。

ウルトラマンの最終回の先にはウルトラセブンは来ないと子供のころからずっと思っていて、もしそうなるならその途中に悲惨なエピソードがなければならないのだけど、それをどうやってウルトラの力なしで凌ぐのかという神学上の問題に悩まされていたのだ。

しかしシンウルトラマンの終わりはそうではない、そのようなエピソードがなくともセブンの世界はやってくるのだ。かくて世界には一貫性と整合性がもたらされたのだ。

非常にめでたい。

もしや、シン帰ってきたウルトラマンやりたさの基礎工事ではないのか。そのような事まで思ってしまった本作だった。そしてそれが可能になる整理だったと思う。

あとは寿命だけだな(Moonridersとつながる話でもある)。

 

 

そして最後に。

「わたしのすきな」SF映画になったのは、必然なのか、それとも僥倖なのか。人間が描けない監督であった事が人物の書き割り感を増し、結果的に「あの」SF映画っぽさが出たのではという気がしています。

僥倖が7で必然が3くらいの感じですかね。

 

*1:セクハラというのも散見しますが、エロシーンに対してセクハラと言うのってよくわからない。(ボキャブラリーの貧困という意味で)バカなのか、(それが有効な言説だと思うという意味で)本当にバカなのか、それとも単にナイーブなのか(まあ、これもバカということなのですが)。誰から誰に対するハラスメントなの?映画があなたにハラスメントをしているということなの?やっぱりよく判らない。エロシーンがいやだというのは全然OKなんだが、こういう馬鹿な物言いは誰かにしつけて欲しいものだと思う。上野千鶴子先生?いやいや、あの人は目的の為には手段はすべて許されるというところに回帰してるので、そのような言説をすべて肯定するでしょうとも。革命の理念が否定された年寄りほどみにくいモノはないと思いますな。

*2:今日のお昼に北極のランチの持ち帰りを食べていたときに家人といつものごとくアレコレ話をし、当家では使わないUber Eatsの話からチップ制に話題がころがり、そもそもヨーロッパだとチップだけでくらす人が普通にいるよねという事につながり、そのチップの扱いを個人が勝手にするのか、一旦お店に集約するのか二派あるよねという話になったときに、お店に対する信用ってどうやって形成するのかね、いやそれ以前に境界線というのが双方が押し合って始めて定まるという国に住んでいる人と、四方を海に囲まれていて境界線が天然自然のものだという国に住んでいる人だと信用とか他人の意図に対する仮定の置き方ってきっとずいぶんちがうよね、とかなんとか。そこまで話をしたところで、やはり日本は地理的にナイーブになりやすいのか、そりゃビリヤードの手球に使いたくなるわな、と突然つながったのでした。ザラブもメフィラスも、日本国のことを徹頭徹尾手球としてみていたではないですか。便利なんでしょうね、そこそこに発言権があるナイーブな国は。

5/26 権力と向き合う姿勢としてのフェミニズム

Amzonで書籍を探索していたらフェミニズムの海に突入してしまって、そこでいろいろ考えることがあったので備忘録を残す。

 

「男と比べたときの不利益を解消しようという運動」は判る。うん、だれだって不利益はいやだ。

「男と比べたときの不公平を解消しようという運動」は、しかしそれに賛同することは難しい。不公平というのは二者間の差異のことだ。さて差異は解消されるべきなのか?

違うことはわかる。しかし、その差異はどこまで縮めればよいのか?そこにどれだけのコストを使うべきなのか?言い換えればその距離に対してどのような意味を付けるのかというプロセスが必ず必要になってくる。だれが、どうやって?そしてそれは紅眼と違うということをどうやって証するの?

であるので、本当に解決がしたいのなら、不利益にしぼって是正を図るのが一般的だ。民事の裁判を見よ!それが蓄積されるうちに、事後ではなく事前に不利益の発生を回避するように仕掛けも、社会も変わっていき、そのうちに各個人までが変容をせまられるようになる。

不公平=悪という図式は一見もっともなように見えて、実は根深く悪辣だと思っている。例えば紅眼からの誣告によって人が大量に死んだ1960年代の某国では差異は悪であり、故に教養もまた悪だった。不公平を解消しようという言葉を聞くたびに、紅衛兵に殺されて湖に放り込まれた老舎のことを思い出す。不公平は状態でしかない。故に不公平が悪なのは看過できない不利益があるときに限られるべきであって、何を、どれだけ損したかという視座で語るしかないのだ。

不公平は不利益を生む一つの要因であることは間違いない。けれどもすべての不公平が看過しがたい不利益を生むというのは当然に間違っている。あまりにもナイーブ*1だというしかない誤謬だ。計量可能な、そして補償を求めることが可能な、不利益という形式で語るべきなのだ。

 

 

なんだけど、Amazonに並んでいた書籍は不公平の解消がしたい人が多数派に見えてしまった。

もしかしたら本はそういう内容じゃないのかもしれないけど、少なくともレビューはそういうのが多数派で、フェミ本に関してはレビュー止めた方が得なんじゃないのかと思ってみたりした。

こんな人たちが喜んで読む本とは...。

お金と時間があれば、わざわざナイーブな人たちが好き好む本を読んでみるという倒錯した娯楽もあるのかもしれない、と思ってみたりすることは可能だが、しかしそれは。

 

 

そしてレビューからは、より重要なもう一つの懸念が浮上してくる。「これ(男中心主義の社会とか)さえ倒せば」と考えているんじゃないかということだ。

ある本のレビューにこんな一節があって、ちょっとびっくりした。

男中心の社会で脊髄反射的に男に忖度したりルッキズムに翻弄されたり、無知な若い女を演じてしまった過去の自分も炙り出された。

この人がどんな意図でこれを書いたのかよくわかんないんだけど、権力*2というものと自分との関係について自覚的になったということなのか、それとも「男中心の社会」というものがわたしをスポイルしていたということなのか。

前者の道の果てに、男女間だけではなく、さまざまな形の権力とどのように付き合っていくか(権力が無くせると思うのはとても、とてもナイーブな事だ)、それが見えてくるのだとすると美しい。しかし本当にそうなのか?

わたしをスポイルしていたもの、そしてスポイルされていたわたし、それらを理解したのだから、それを倒せば全きわたしになれる、という後者の立場だったりしないのか?

なんと失礼なことを、と自分でも思う。しかし。

 

例えば脱コル。

自由というのは愚行権の事だと信じて疑わないのであって*3、よって愚行権の中で説明可能なのであれば、それはお好きにおやんなさいという事柄であるのは間違いない。たとえそれが実際に愚かであろうと、なかろうと、それは他人がどうこう言うべき話ではない。

そういう立場からすると、脱コル、どうぞご自由におやんなさいとしかならない。ただしそれは個人の好みの問題でしかないのであって、それを他人に強要するのは他人の愚行権の侵害であって、つまりそれは悪でしかない。

少なくとも脱コルが「正しい」ことだという証明を見たことはないー党派性に基づく政治的な言説(これもまた権力)を「正しい」というナイーブな、または悪辣なものを除いては*4。であれば、あれは自由の範囲にしかない主張だ。神聖な愚行権を停止すべき謂われなどない。

という訳で、わたしの中で脱コルは「造反有理」という言葉となんとなく地続きになっている。あれはきっとフェミニズム紅衛兵なのだ。

 

おっと脱線した。

という訳で、紅衛兵が多数いると判っている状況なので、先に挙げた一節を、権力との向き合い方をより健全にするという立場の表明だとすなおに信じられないのだ。

そうあって欲しいと思っているのだけどね。

 

 

ということで、本日の雑感の締めくくりに向かう。

そろそろフェミニズムは名前を変える時期がきてるんだろうな、と思う。

このままだと「男社会を倒して終わり」というだけの運動になりかねないという危惧があるからだ。

そんなしょぼい活動だったの?ちがうよね?*5

 

「全きわたし」も、「他人に踏みつけられることがないわたし」も、本当のところでは全く信じていないワタシであるが、それでも無限遠にそれをおいて、そこに至る過程として権力との関係を進化させていくという遠大な話だと思っているわけです、フェミニズムのことは。

であれば、重要であるけれども出だしの問題である(でしかない)「女性であることの不利益の解消」を離れて、もっと多くの人をインクルージョンできる名前にすりゃいいのにな、と。

 

それともフェミニズムという名前は居心地がいいんでしょうか?

うーん、あたらしい調査タスクをしょってしまったかも。

 

 

 

追記1

スコプツィという言葉を思い出してしまった。ここは発想の飛躍だけど、フェミ*6は一歩間違うとスコプツィみたいな事になりかねない気がするので。

こんなのどこで頭にいれたんだろう?澁澤か、そうかも。

そしてその延長として「滅びてしもう教」という宗教が出てくる(宗教?)という短編小説の事まで思い出してしまった。そしてその小説が入っている本が、いつのまにか本棚から消えていることに気がついてしまった。いったいどこに行ったんだ?

 

追記2

「性差別主義者としての自分」を断罪することでフェミニズムにすりよろうとしている男性の薄汚さというのはなんとかならんのだろうか。

いや、薄汚さというよりは野蛮のほうが適切か。

特定の問題を終端させるのではなく、問題の構造を無効化するという視座。その昔に岩谷宏*7がイライラしていたのは、たとえばこう言う視座が欠落している事にむけられていたのだろうか。

最近岩谷宏のことをよく思い出す。あのとき判らなかったことが、今なら判る気がするのだー彼の言ってたことをただ飲み込むというのではなくて、受け止めて、咀嚼して、是非の判別できると思うのだ。いまさら岩谷宏選集なんて出ないだろうし、さてどうやって読めばよいのだろうか。うーむ。

 

追記3

上野御大、いよいよボケてきてるかな。

それとももう時間がないから焼き畑をする気になったのか。

どちらにせよ、宣伝文で暴言はくのやめてくれないかな。フェミニズムのじゃまにしかならないよ。

まさか上野御大がフェミニズムの邪魔をすると思う日がくるなんて。

驚きよりも、一つの時代のおわりをみてるのだなという感慨の方が強いね。

 

*1:英語の意味で。すなわちバカ。

*2:権力というとなんだか大げさに聞こえるかもしれないけど、powerの直訳ということで。文中にパワーが頻出するのもそれはそれで違和感あるし。重力と電磁気力と弱い・強い相互作用、そんな基本的な力と同じレベルで(政治的な)力=権力というものがあるのだという理解で使っていくしかないのですかね、権力。それとも政治的な力の省略形として政力みたいなタームをつくるのですかね。でもきっと権力でしょうね。

*3:それを基盤として、より複雑で高度な自由を構築するのはこれまたOKなのだけど、すべての自由の基礎には愚行権があるという立場をとるものである。

*4:そもそも正しいということを言い出す時点でナイーブなんだが。そしてそういう人に、どんな前提条件を充足するのですか、と丁寧に質問すると大体において暴れ出すのだ。

*5:第一世代、第二世代が今のフェミに対して抱いている違和感というのも、つきつめるとそういう事なのだというのを識者に聞いた事がある。さもありなんである。

*6:ここではそう言ってしまおう。フェミニズムとフェミの分離というのが、フェミニズムが生き残る道なのだという直観があるのだ。

*7:さんをつけるべきか、いまだに悩む。