all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

2017/03/15

ここ1ヶ月、テレビはまったく付けない。するとあんまり静かすぎるので、居間のオーディオセットに(も)volumioの入ったラズパイを繋いで、nasに置いた曲を流しっぱなしにするようにしている。その日の夕食のときは、In Through the Out Doorが掛かっていた。
よく聞けば(なんと失礼な)、良いところがあるアルバムなんンだけど、どうにもAll my loveが苦手だった。最後にI'm gonna crawlが入ってるから良いようなものの、なぜあの曲を入れたのかが謎だった。ジョーンジーのストリングスアレンジのためなのか、とか。その日まではそう思っていた、不覚にも。

 

家人とふたり食事をしながら、そういえばロバートプラントも息子を亡くしててね、と話したところでAll my loveがかかり、いつもなら聞き流してしまうこの曲を、このときに限っては、なぜ愛のうたなのにこんなアレンジにしなければならないのだろう、どうしてholyな感じがするのだろう(前は、聖歌隊の指揮者になりたかったジョーンジーの趣味だと片付けていた)ということが引っ掛かって、歌詞の一番最後のI get a little bit lonely.の指し示すところがようやく府に落ちたのは、次の曲も終わって音楽が途切れたときだった。
これは、息子への曲だ。私には、わかる。私は、わかるようになってしまった。

歌詞を探して見てみるが、どうとでもとれる多義的な、象徴的なもの。ただ最後の一行が浮いている。訳詞はどれも直訳か、恋愛のうたとしての訳。そうじゃない、それでは辻褄が合わない。

ということで、答え合わせにwikipediaのIn Through the Out Door.の項をのぞく。やはりそうだった。息子を喪ったのが1977/7、アルバムの録音が行われたのは1978/11-1978/12。そこまでの約一年半のどこかでロバートプラントは、この曲にたどり着いたことになる。それは我々にとって慰めであり、光明なのだろう、と思う。ありがとう、ロバートプラント。今度最新作を買ってみるよ。

そういうふうに現実へのリンクや道の手掛かりを集めつつ、帰還を目論む今日この頃です。遠そうですが。

引きこもりの辞

本日、家人ほか一名とコストコへ行く。中で30分弱待っている間に家族連れのオーラに当てられ、頭がボーッとしてダルくなってきたので、一人で勝手に帰る。松任駅から程近いロケーションだったのに救われる。家族連れの多い所は避けて暮らすのが吉やね。健常者ではないね、もはや。

松任駅でちょうど在来線に、西金沢駅でちょうどバスに乗れたのが救いであるが、焼け石に水。またも引きこもりが始まるからである。世界中、全部うるさい。バスのなかも観光客でうるさい。刃物を振り回す等とんでもない。ワタシが引きこもります。

承前

またも間があいてしまった。
何をしていたかというと、Amazon Primeが推薦してくる幼女戦記をつい固めて見てしまったり(見始めた途端に「世界最大の肉挽き器」こと西部戦線塹壕戦、またもシンクロニシティだよ。しかしコレと言い、Fate Zeroと言い、自己投影がしやすいのでつい色んな事を考えてしまうね)、

君も連れて行ったことが有るあずま寿しが閉店されるというのでワレワレ残された二人で通ったり、

掃除をしたり、

洗濯をしたり、

食器を洗ったり、

まあ気が向いたらご飯も作ったり、

ぼちぼちギターの練習をしたり、

スピーカーのネットワークの配線をやりなおしたり(エンクロージャーを変えたら低音から中音がスゴク良くなって、しかしその結果として2番目の問題が1番目に昇格することになって...ってのはワインバーグの法則どおりだけど...効率が2dbくらい上だったツイーターの暴れっぷりが一層際立つようになってしまい、それをなだめるためにツイーターの手前にアッテネータを入れてみたり、そのマウンターを作るのに盛り上がったり)、

模様替えをしたり、

模様替えをしたり、

模様替えをしたり、

つまり普通の生活をしているフリをしながら君がいない君のお誕生月を耐えていたのでした。

枝振りの良い木を本気で物色したりとか(心が安らぐよね)、ささいな事で激高したり鬱に入ったりするので飲みに出るのを控えたりとか、信号を無視して交差点に突っ込んできた北鉄バスに轢かれかけたときには心底シメタと思ったりとか、そのようなダークゾーンもなんとか抜けつつあるようで、ようやく続きが書ける。
 
 
さて、「ワタシ達はアレのように巨大で、厳密で、場合によっては人がシぬ物や事には向いてないのではないか。戦略思考が足りないのも、セオリーを無視するのも、(ワタシ達の組織論に)何か根本的に足りないところがあるのではないか」という事へと戻っていこう。
 
最初に変だなと思ったのは、学校を卒業して入った会社の入社式だった。1988年の4月1日のことだ。その日は横浜に季節外れの小雪がちらつき、日本大通りのそばにある開港記念会館には200人余り(ちなみにその翌年は400人に迫る勢いだったらしい。時代だなあと思うね)の新入社員が全員集められていた(と、ここまで書けば判る人には判る。戸塚の不夜城と恐れられた某重電系のソフトウェア事業所に多くのソルジャーを送り込む同グループのソフトウェア専業会社、それがボクが初めて働いた会社だ)。会場では三ヶ月間の新人研修期間を一緒に過ごすクラスの編成も発表され、昼食をそのクラスごとに分かれて取る事になった、その時のことだ。


そこここから聞こえてくるのは、ハジメマシテの挨拶とこれから始まる研修への不安だった。不安?何が?まったく理解できなかったのを鮮明に覚えている。ほとんどの人はソフトウェアを作る仕事のために雇われたはずで、その人達が研修に不安というのは何を言っているのだろう。だってプログラム書けるんだろ?何かアヤシイところがあるなら内定が出てからの間に自分で勉強するのだよね。もしやこの会社の新人研修には鬼でもでるの?それとも仕事としてのプログラミングということの厳しさを怖れているの?それなら判る。でもねえ。


新人研修が始まると、程なく背景が見えてきた。驚くべき事にプログラムを書いたことがあるのは全体の1/3程度、あとはコンピュータを使ったことがある理系の人が1/3、そして実は初めてコンピュータに触るのです(何と言っても1988年だからね)という文系の人が1/3。たしかにその頃は情報系の学科も限られていたし、200余名の全員がプログラミング経験者である筈はない。それは確かにボクの思慮の足りぬところであった。不安だと思う人も出てくるかもね。でも物には限度があるぜ?あいつも、こいつも、このあと本物のプログラム書くの?そういうのが少なからずいた。会社ってスゴイ思い上がりをするのだねと思ったよ。これを何とかするっていうのだから。そしてもっと驚いた事には、コンピューターが判らない、プログラムが書けないと困っている人達が、しかし会社員ライフに対しては何らの不安を持っていない(すくなくとも表明していない)のだった。えーとボクタチは、直接または間接にソフトウェアを作る仕事のために、ソフトウェアを作る会社に雇用されたのだぜ。決してゲマインシャフト的な共同体に加入した訳ではないのだぜ。雇う側も、雇われる側も、なんだか倒錯していないかね。
 


しかし、実際にはどうにかしているのは、すくなくともメンシェビキ(※)なのはボクの方だった。会社が求めているのは会社と絆(またも社名のヒントが...)を持ってくれる人だし、従業員側も会社と一体になりたくて仕方がない人が多数派だった。もちろん出世に興味がある人は一杯いて、すでに研修中からマウンティング(という便利な言葉はまだ人口に膾炙していなかったね)が始まっていたのだけれど、それはあくまでも会社の中での序列の問題であって、市場における高いプライスが自分につくようにする、という話ではなかったんだ。

そもそも会社の外に労働市場があるということを考えている人はほぼ居なかった。これは1992年に次の会社に移るまでの5年間で一貫していた。その会社で辞める人が居なかった訳じゃ無い。むしろ他業種の会社よりも離職率は高かった筈だ。でも、自分の値段が幾らになるのか、しがらみがない状態で自分がどんな風に評価されるのかを気にしている人は、最後まで極めて少数だった。

なんだかとても不思議だったよ。ボクはプログラマという仕事についたのだけど(そして最初の雇い主がその会社だったのだけど)、彼らはその『会社』に就職したんだね。でも一生その会社と寄り添っていくの?ホントに?怖くならない?退屈しない?

ボリシェビキ、メンシェビキという言葉の意味が腑に落ちたのは、トロツキーの自伝を読んでからだ。これ、未だに多くの人が政治的な立場の事だと誤解している。でもトロツキー(そしてレーニン)は、Us と Them 程度の意味に加えて、そのどちらが正しいか(優勢か)という事を言いたいだけなんだ。で、すごーく粗野な事に多数派が常に正しいという前提が彼らにはあるので、多数派(ボリシェビキ)は常に正しく、少数派(メンシェビキ)は常に間違っているというトートロジーのような言説になるんだ。もちろんUsがボリシェビキ
 
前にも書いたけど、これは伝え損なったことを伝えるための手紙なので、長くなっちゃうのは諦めてほしい。そのうえで纏めると、最初に勤め始めたときから、多くの人の会社というものに対する関わり方が、ボクには何だかとても奇妙に見えたということなんだ。プログラマという仕事で一生食べていくと学生のときに決めたから特にそう思ったのかも知れないけど、会社と結婚するような就職の仕方と、そこから発生する諸々の出来事に共感も、納得もできなかったのだね。いまだと共感は出来ないけど一定の理解はできる。もちろん肉挽き機にアレコレ突っ込んだからだ。
 
 
また自分の話を少し(少し?)する。
藤田デンに救われてから3年後、君の生物学上の祖父は営んでいた画廊を潰して3年間の失踪に入り、その結果としてボクは小学校卒業直前の3ヶ月と中学校の3年間とそこから先のさらに何年かを貧乏のうちに過ごすことになる。どの程度の貧乏かというのは多くは語らないけど、家に執行官がきて動産の差し押さえをしたのは見たことだけは記しておく。差押物件標目票って昔はホントに赤紙で、それを貼ってくんだ。最近は赤紙でもないし、物に直接貼らない、しかもほとんどの家財道具は差し押さえ禁止なのだそうだ。これまた桑海之変で、いまとなっては二重の意味で貴重な体験だ。おや、また脱線した。
ともあれ、そのような訳で十代から二十代の前半にかけての主要な問題はお金だった。何しろお金が無かった。だからチートもしつつ何とか日々の糊口を凌いだ。どうやって生きてたのか今となっては良く判らないところがホントにいっぱいある。一つには221さんのお陰ということがあるのだけど、それだけでは説明が付かない部分も多い。
それでもなんとか最終学年にたどり着いたので(途中で二回も留年したけど!!)、ボクの才能なら一生食いっぱぐれないでしょうという観点で選んだ...もちろん面白かったからでもあるけど...プログラマという仕事で食っていくことを決め、就職先を選び、出席日数もゴニョゴニョして学校も卒業し、入った会社では普通のお給金と普通ではあり得ない残業手当を手にして(200時間オーバーが何ヶ月も続き、それが全部支払われたという奇跡のような時代)、学生時代につくった不義理もなんとか整理して、そして昭和も終わったころ、突然お金というものが良く判らなくなった。いや、もともと良く判ってなかったのだろうね。


お給金が入るそばから溶けていくような使い方をそれから何年かやった。いまでもお金の使い方は決して慎ましくないけど、そのときはお金に仕返しをするような使い方をしてた。当時は最後の無頼派プログラマと名乗っていたのだけど、それはヒロポンをつかってたということではなくて、プログラマとしては合格、人間としては(多分会社員としても)失格、という意味だ。プログラマとしての活動が評価され、そこから得たお金が人間を失格させるために使われるという生活をしていたのだね。そしてあるとき、大きなゲップが一つ出て、それまでの生活が突然いやになった。このままじゃ才能が枯渇しちゃうな、一生プログラマやってけないな、と。


プログラマのコアは考えること、つまり要求から問題を抽出・抽象化をすることと、問題を解くモデルを構築することと、そのモデルが要求に適合することを証明乃至は説明することだ(だから予め用意されている仕様書をプログラムに変換する仕事をプログラマと呼んではならない。あれはコーダというのだ)。ボクはプログラマとして一生気楽に暮らしていくつもりであったので(何しろ若くて怖い物知らずであり、大概のひとは能力的に下だと思ってたからね)、もっと頭が回ってくれなきゃ困るし、現状に満足してさび付くのはもっと困る。

無頼派だの破滅型だの言いつつも、計算機(※)関連の知識の獲得は続けていたのだけど、それだけでは問題を抽出・抽象化する能力は向上しない。計算機は問題を解く道具だけど、その解かれるべき問題をはっきりさせるには計算機の知識だけでは当然に足りない。計算機とその周辺以外、むしろ全然関係ないことを肉挽き機に投入するリミットが来てるのといよいよ向き合うかね、そういう気分になったのだった。
※昭和のうちにプログラマに成ったワタクシ共は、コンピューターなどとは申しませぬ、計算機と呼ぶのです。


それでも、すぐに会社を変わる判断をした訳じゃ無い。その会社の中で個人として立っていく途を探ろうとしてたんだけど(別に仕事内容にも、待遇にも、不満があったわけじゃ無いからね)、岩井克人の『ベニスの商人資本論』を会社の昼休みに読んでいるときに何かがブチッといった。あー、この会社にいても、結局管理職にしか成れないんだろうな(なんという暴言)、この本にあるみたいな鮮やかな立論も、整理も求められないし、評価されないんだろうな、と。
 

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%95%86%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%96-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B2%A9%E4%BA%95-%E5%85%8B%E4%BA%BA/dp/448008004X

 

なぜ岩井克人を読んでいたかと言えば、自分が振り回されたお金というものを判りたかったからなんだけど(もちろんナニワ金融道も併読してたけど)、その結果として勤め先を変える最後の一押しをされることになったのにはちょっとビックリした。


それから数年後、その岩井克人の『資本主義を語る』という本に掲載されているインタビュー『「法人」と日本資本主義』』を読んだときに、勤め始めてからずっと違和感を感じていること(これは移った先の会社でも、頻度は減りこそすれ、同じく感じていた事)がちょっと判ったような気がした。
 

Amazon | 資本主義を語る (ちくま学芸文庫) | 岩井 克人 | 資本主義論 通販

 

 

個人とそれをつなぐ契約(※)の集合としての「法人」というのは、ボクの思っている会社の像にジャストだったのだけど、それは日本的ではなかったのだね。なるほど。でも雇用契約っていうじゃない、会社って主体が何かは一先ずおいておいて、会社と契約した個人が契約の範囲で働くのだと思ってたんだ。小学校(いや、中学校だったか、とにかく義務教育の範囲)でそのように習ったよ。きっと君もそう教わった筈だ。

だから新入社員に対して「いっしょに会社を盛り立てていこう」とか、「稼いでくれよ」などのメッセージが出てくるのは話者の個人的な見解であって(もっと酷くいえば、単に気分を述べているだけであって)、具体的に何を委託するのか等は双方誤解の無いように明確に説明していくのだろうと学生の時には思ってたんだけど、実際会社に勤めてみるとそんな事にはなってないし、そこを変えていこうという意欲を感じることもなかった。ああ、成る程、と。ワタシ達は契約の無い世界に住んでいたのね、と。すべてのものがべたっと融合した、生物都市のようなところにいたのだなあ、と。でもそれは新しい世界じゃない。
※契約と書くとキツい感じがするみたいね。でも双務的(って17才にはピンとこないか。双務的/片務的でググってみよう)な契約なんだよ?それでもツライかね。だとしたら以後で契約と目にしたら、心の中で「お互いの約束」と読み替えてみて。
 
プログラマ極左主義と言われそうだけど、すべての組織は目的のための手段だとかたく信じている者としては(官庁だって国という存在を存続させるための手段に過ぎないし)、組織は目的とゴールを掲げなきゃならないし、その実現方針も明示しなけりゃならないし、そこに参画している人はそれらゴール、方針を認めたうえで組織固有の目的に資する約束をした個人でなけりゃならないと思ってたのですよ。ったって、そんなムズカシイ話じゃなくって、ソフトウェアを作る事が組織として必要なら、プログラマプログラマとして雇用するというだけのこと。総合職にプログラマの芸を仕込むってんじゃないですよ、程の事です。それの範囲で雇用契約を結ぶのが、平たくいやあプロフェッショナルな従業員(みんな気安く社員というけど、社員ってそんな意味じゃないからね)ということでしょう。

この辺りは21世紀に入って職種別のキャリアパスという概念が一般化されていきているので、ずいぶん風通しが良くなってきつつはあるのだけど、それでも多くの会社の新人採用は職種別採用じゃないから、あら何だかなあというのは大きく変わっていない(その辺りと通底する話として、日本だと大学で取ったタイトルが求職に対してあまり効果を持たないというのもある。あれはやっぱり世界的には不思議なんだそうだ。そうだよね)。

会社は目的を追求するし、個人は会社が変わっても困らないプロフェッショナルになる。それがごく普通のことであって、日本的な会社のあり方というのは社会が成熟するまでの一時的なもの、過渡現象だと思ってたんだけど、しかしどうやらそれは局所解として安定状態にあるということを、1998年にこの本を読んで初めて理解したのでした。もっと早く判れよって。バカでした。総括します。ボクは西欧中心的な進歩史観に毒されて、現実を丹念に見ることが出来ていませんでした。

会社と、社員と、従業員が、家的な結合をするのが一般的だとすると、たしかに就職したときの違和感も納得です。会社を辞めるときの、課長の恨みがましい目も良く判ります。あれは「オレの顔を潰しやがって」だけでは無かったのですね(顔を潰したのも勿論大きいとは思うけど)。前の会社を辞めて約5年、ようやく事象と認識が噛み合ったのでした。境目のない、ベッタリとくっつき合った世界は自然に終わることは無い、それがイヤなら世界を変えろ、革命だ。

...ちょっと威勢が良すぎるね。でも塹壕戦みたいな過重労働(昨今の言い方だとブラックな労働環境ね)の根源は、実はこの辺りにあるのではとも思ったんだ。幸せに暮らすということと、個人として成立するということはスゴク近い事なのだろうと。そのための一番判りやすい道がプロになることなので、革命の第一歩というのはプロを養成することなんだ。それは2017年の今でも続けている。会社と一体化するな、流通可能なプロになれ、というのをね。時々立派に成長した人が他所の会社を変わっちゃう等イターイ事もあるんだけど、それはウチに魅力が無かったということで仕方がない。それよりも革命だよ。
 
ではプロになる事を求められない個人は、組織のなかでどのように育っていくのだろう。気にならない?話の進行上、ぜひ気になって欲しい。ほら気になってきたでしょ?1998年当時はまだハッキリしなかったんだけど、最近の認識は、組織と一体化を果たそうとする、です。その中において、自分の意志と組織の意志を混同させながら、組織内の階梯を上昇することを志向するのだと思ってます。アチコチのステキな会社さんの状況をウォッチし続けた結果、そういう見解に達しました。ここが「巨大で、厳密なもの」への適合性を低下させる主な原因だとみてます。優秀かどうかじゃない。組織の目的と自分の意志の見分けが付かない人が放し飼いされてるのが不安定要因の一番なのだと。
 
 
<ようやく纏め(仮)。言い訳はしないわ。でもツカレタから乱暴に纏めるわ>
なぜ組織のなかで、個人が想像力を発揮したり、組織の目的に反した行為を成すことができたりするのか?その第一歩は、やる側も、やられる側も、組織において意志を持つ者と意志を実現する者は本来峻別されているということを曖昧にしている所にある。

別の(ムゴい)言い方をすると、社員と従業員の区別ということを教えてないから(教えるのを拒否する超自然的な「日本の力」があるや否やはここでは問題にしない)。

例えば、どのような役割・権能・責任で組織に参画するのかを、雇用契約時も含めて明確にされる事が少ない。言い換えれば、目的のために組織構造を決めて、責任範囲を分割して、という中に込められる組織自体の「意志」が、それに従事する人と契約を結ぶという事を通じて顕現されていないという事だ。そういえばtodoばかりが語られて、Whyが語られないというトップ講話をアチコチで耳にする。それもまた「意志」の不在だ。そして「意志」が不在の結果、適否を計られることのない個人の意志が組織のなかを漂うことになっちゃう。これが20世紀終わり今現在まで一貫して続いている気分です。
 
中小企業のサイズなら形式を整備しなくても、「意志」の源泉である社長(代表者)が適時目を光らせて、実施すべき「意志」にノイズが入らないようにメンテしていくという人治もアリだけど、でもそれより組織が大きくなってしまったらどうしよう。

もちろん何らかの仕掛けは用意しなきゃならないのだけど、そのもっと手前に、なぜここにいるのか・参画しているのか、ということに対して基本合意を形成するのが絶対に必要。Howの前に必ずWhyあり。神無き国であれば、根本となる約束を人間と人間のあいだで面倒がらずに結ぶしかないのです。そういうマインドが無いところでいくら監査をやっても、なぜだか不思議な事件・事故が発生して、その原因である人物にヒアリングを行うと「だってイイって思ったんだもん」という趣旨の返事が返ってきたりするのです。適否を計られることのない個人の意志!!リアルで良くある話であってとても悲しい。ああ、世界を革命せねば。
 
プロセスの欠如とか、アセッサの不足とか、そういうHowの話ではなくて、もっと手前のマインドセットの問題から始まってる。そこを苗床にして、個人として組織と関われない(組織の外において自己を流通させることができない)人達が、自分と組織の見境を無くして、自分の意志を組織に拡散させていく。そういう構造だというのが就職以来ずっと(しかし細々と)考えていることの結論。

そんな状態になっちゃったら、組織が目的とするところを実現するなんて不可能だよね。中小企業サイズなら「意志」を人治的に適用していくのも出来るだろうけど、それより大きいサイズだと...。

今のところの処方箋としては、契約(約束)を明確にする、組織に埋没しないプロフェッショナルとしての個人(組織の外部というものを理解し、出て行ける個人)を育てる、個人の意志を組織に反映させたのなら社員になれと説教をする(なんとリアルな!)、等々の発生の機序を押さえる処置を講じた上で、監査プロセスを必要なレベルで設定していくしかないかな。こういうメンテをしていかないと会社(組織)って発散しちゃうのです。どうですか、大人は面倒でしょう?面倒なんです。疲れました...。
 
 
 
一応約束は果たした、よね。
であるので、次回からはもっと軽いことを書く予定。たとえばずさんな言葉遣いをあげつらうとか(ファシズムってこの世の全ての悪の名前のことのように言われているけど、それってどうかな、という話。右も左もどうでもいいけど、言葉は考えて使えよな、と)。
 
 
あ、それから最後に。組織に埋没しない個人はプロフェッショナルとして屹立するのが一つの方法だよ、と述べており、かつ一生プログラマとして食っていくという決心をした事も上で告白したとおり。しかし/では、おまえの現在の仕事は何なのか、と君に聞かれそうなので先回りして答えておく。ボクは今現在でもプログラマのプロフェッショナルであるのだけれども、プログラミングの対象が計算機ではなくて組織や事業やそれにまつわる制度等というものに変わったのだと理解して欲しい。いまだに「最後の文芸派プログラマ」と自称して羞じないよ(いや、ハズカシイだろ、厨二かよ)。

 

では、また。

なにが肉挽き機にくべられたのか、またはどのようにワタシの世界は始まったのか

このBLOGは前にも書いたけど、君に伝えたかった事や一緒に話したかった事を書き綴るために開いたものだ。今年の2月の冒頭に家族会議を開き、いかなる宗教にも帰依することはない、魂の有無については有り、輪廻転生については判らない、という我々の基本設定を再確認している。魂があるなら、読めるか読めないかは別にして、やはり書くべきだと思っているということだね。
 
 
 
前回の続きで、結論を急がずにどうしてそう考えるのかを伝えたい。そのためにはボクの肉挽き機(※)に何を投入したか、それが何をもたらしたから書いていこう。
※挽き肉機とアンディーパートリッジの言葉の訳で使われていたけど、これは肉挽き機の誤記だよね。ちなみに巨大な肉挽き機といえばまずはWWIだ(※)。そういう話もホントはしとかなきゃいけなかったんだ。後悔不先立。
※そういうのが判らないと、例えば最近ビッグコミックで始まった「赤狩り」の話も立体感が出てこないよね。Johnny got his gunとか。
 
 
ボクの肉挽き機に突っ込まれた何かが、自分自身に与えた影響を最初に自覚したのは多分1974年だったと思う(勿論肉挽き機メタファーを理解した訳では無くて、インプットが自分を変えるという体験ということだね)。1974年というと、前年にはオイルショックノストラダムスの大予言日本沈没もあって、その更に一年前にはあさま山荘事件もあって、これでこの世も終わりだぜという雰囲気が世間に横溢している時期だったのを覚えている。もしかしたらボクがそういう風に感じただけだったのかも知れないけど、多感な9才にはそう見えたのだった。...多感というのは便利な言葉だね。筋道や基準がなくて、デタラメなパースペクティブで世界が見えていた気持ちが悪い時期というのが多分正解なんだろう。
 
たとえば当時スパイ手帳っていうのがあった(ググルと出てくるね)。1973年だと思うけど、それが欲しくて学校のそばの文房具屋さんからどうやってかっぱらおうか、店の前をグルグルしたりしたことがあった。アレはお店の人も困っただろうと思うけど、とにかく損得の尺度が定まらない(だって盗むのなんて相当に損な行為なんだよ?)、事象(という言葉ももちろん知らなかったけど)と事象の関連も、事象の大小も判らない、人間になる途中の馬鹿丸出しの年代だった。その頃は、次に何が起きるのか予見不能というか、世界は恐怖に満ちているような感覚がずっとつきまとっていた。小児精神病は大人の精神病とは違う、というのを後年知るのだけど、自分の事を振り返っても確かにそういう気がする。精神を病んでいたということではなくて、外部からの入力を躱して自分の内側に閉じこもりたい小心な子供にとって、筋道もない、予測もできない(そして論理も見当たらない)、ようするに次の瞬間に何が起きるか判らない外部世界は、家族を含めて恐怖以外の何物でもなかったのだね。好き嫌いと恐怖は別な事に注意して欲しいんだけど、何しろ世界中が得体の知れない怖さに満ち満ちていたと思う。ホント、世界は根拠のないスライスの連続のような感じだったんだ。怖いでしょ?


そういう小学校中学年だから、終末感との相性の良さは半端なくて、自分がおびえるのと同じように(ホントは違うんだけど)世の人もおびえるというのは、一体感のようなもの(※)を覚えなくもなかった。でもその終末感も1974年に入ると飽きられはじめ、世の中はまた前を向こうとしていて、自分としてはなんとなく置いてきぼりをくらったような感じがあった。なんてったって、ノストラダムスの大予言の映画の同時上映は念力珍作戦だからね。暗いのに疲れたんだね。
※言っとくけど9才だから、そんな明確じゃないからね。あくまでも、只の引き籠もり志向の馬鹿小学生が感じた気分ということ。
 
そういう訳で、自分としてはまだまだ続いて欲しかった暗いお祭りにピークを過ぎる気配が出てきたころに、家の本棚に発見したのがこれだった。
 

頭の悪い奴は損をする―ユダヤ流・金戦の哲学 (ベストセラーシリーズ〈ワニの本〉) | 藤田 田 |本 | 通販 | Amazon

 

ちなみにこの本は「Den Fujitaの商法」というシリーズの一部として、加筆版(※)がいまだに入手可能だ。こっちの方は「より成功した」筆者のバイアスが掛かっていて、今一つ新鮮味に欠けるが、それでもコレは読むべき時(!)に、読まれるべきものだと思う。時期が来て目が塞がっちゃうと、何が書いてるのかが判らなくなるところがある本だからね。
※いや、加筆・訂正版だね。トルコとあった箇所がソープランドに変わっていたのは確認したから、少なくとも一箇所は訂正しているな。

 
ある人などは、これはお金儲けの本であって、ワタシはお金儲けとか嫌いだから、という理由でページをめくるのが苦痛だったのだそうだ。「お金」が人間社会に取って欠くべからざるものであるのは間違い無いので(善だとは言ってない、仕掛けとして必要だと言ってるだけ。そういう所も誤読する人が多いので君も気をつけるべきだ)、お金を儲けを目論む人の思考を知るだけでも十分に面白いと思うのだが、自分と関係ないと言ってシャッターを下ろしちゃうところがそれもまた人間で面白い。ま、それを面白いと思うのはボクの業だけど、それについてはまた今度として、くだんの人も、読むべき時に読めてればな、と思わないでもない。
 
ともあれ「藤田 田(デンと発音してください)」だ。マクドナルドを日本に引っ張ってきた人だね。ちなみにこの本には書かれてないけど、マクドナルド、という読みを発明した人でもある。原語の発音は 勿論 マクドナルドではないのだけど、それじゃ日本では流行らないということで「日本語的に馴染みやすい3・3の韻になるよう」にアメリカ本社の反対を押し切って、そう決めたのだそうだ。このエピソードは1974年に9才の小学生がやられたのと同じ構造だ。

 
ではその年、ボクは何にやられたのか。もちろんお金持ちになりたいと思ったわけではない(孫正義は思ったらしいが、残念ながらボクはそのときはまだお金に困っていなかったのだった。父親が破産して失踪した、小学校も卒業直前の頃に読んだのなら、この本自体がモチベーションの中心になったのかもしれないけど、それはまた別の人生だ)。この本にはHowだけじゃなくて、WhatもWhyもあった。そしてそのHowは小学生にも判る明快さで書かれており、Whatは世界をどういう単位で切り分ければ良いかを述べており、Whyには一貫性があり、しかもその一貫性を支えるより大きな体系があることがうっすらと判る様な感じがあったのだ。そこにやられた。
ハズカシサを承知で書けば(何と言ってもこれは君への手紙なので、少々のハズカシサは構わないのだ)、この本には世界を恐怖からすくい上げるための理由と考え方と方法が書かれていたのだ。勿論そこまで明確に9才が思ったわけはないんだけど、この本を読んで大変に気が楽になったのを覚えている。世界は判るし変えられるかも知れないんだ、と生まれて初めて思った。
それまでは世界は自分を嵌め込む場所だと思っていた。ピンクフロイドのレンガだね。でもこの本では、教科書の真逆のスタイルで、もっともっと考えろとこっちに呼びかけてるようだった。覚えて出来る様になれ、じゃないんだ。頭を使え、考えろ、判れ、判ったなら行動を変えろ、なんだ。
...全然お金儲けの本に見えないでしょ?うん、ボクにはお金儲けのHowto本には見えなかった。そうじゃなくて世界、社会及び人間に関する原理並びに諸法則の説明がメインで、それは結果的にお金儲けにも良い影響を与えられるぜ、という啓蒙書に見えたんだ。
これ以上の詳しい内容はここには書かない。霊前に供えておくので是非読んで欲しい。
 
というわけで、この本はボクの基礎を作っているものだ。原理から考える。人の考えないことを考える。勇気を持つ。なにより、頭を使う。それから忘れがちだけど、小学生にも判る様に伝える。
何しろこれらの恩恵で今日まで生きながらえてきたのだ。そんなに素晴らしい本なのにどうしてその程度なの、と聞かれそうだけど、それは高校に進むときに盛大に道を踏み外したからだけど、それもまた別のときに。ともあれ、こんな風にボクの世界は始まったのだった。
そしてその後は、ぐれたり(高校進学時の逸脱に始まるソレ)、コンピューターと出会って新しい産業の勃興期にうまく潜り込んだり、それはそれは放埒な生活を送ったり(君にはいつか言わなければならないと思いつつ言えなかった事があるのだけど、実は離婚歴があるのだ)、仕事に惑溺したりしたり、そして途中からは君と一緒に暮らすようになり、子供に後を託すこと...と言っても仕事を継げとかそんなんじゃなくて、自分と繋がっている誰かが自分が死んだ後にも残って生きていくという幸せを初めて理解したり、そういう人生を送りながらも肉挽き機も動き続けた。何時止まるかと思ったけど、ボクの肉挽き機はまだ動いている。
 
いつものことだけど、ずいぶん脱線した。なぜ大きな組織が向かないのか、ということが発端だったよね。そこに戻る努力をしよう。その違和感のきっかけは肉挽き機に突っ込んだ岩井克人の本だったんだ。次はそこからスタートしよう。
 
 
17回目の誕生日に。

掲題:ワタシ達は巨大で、厳密で、場合によっては人がシぬ物や事には向いてないのではないか

ようやく時間が取れたので、整理を再開する。今回、いつにも増して16才向けなのは彼のお誕生月だから。身近な16才に語りかける感じでウザく、かつブロードに、そして自分の事を織り交ぜつつ進める。そもそもそういう趣旨のBLOGなのだ、これは。
 

(承前)
「ワタシ達はアレのように巨大で、厳密で、場合によっては人がシぬ物や事には向いてないのではないか。戦略思考が足りないのも、セオリーを無視するのも、(ワタシ達の組織論に)何か根本的に足りないところがあるのではないか」ということをボクはいつも気にしてる。

アレにはいろんな巨大組織の名前が当てはまる。軍隊とか、原発を運営する電力会社とか、その他いろいろ。古典、大物、最近ホットなところなどを取り混ぜて列挙してみよう。
ゴールも終わらせ方も設定できずに本末転倒な「総力戦」を遂行した、軍隊の本義に悖る某国の軍隊。予見された危機に対する対策を取らず、福島に白地図と、日本国全体に長くのしかかるリスクと問題を作り出した電力会社(※1)。デューデリ(って16才は知らないか。ぐぐってください)やってて尚どうしてそうなるという致命的な契約を乱発して、そしてそれを原因として倒れようとしている重電会社。買った会社を腐らせてみなさまから預かったお金をオーストラリアに溶かした郵便屋(※2)。
※1.君も知っているとおり3/11の日はボクは東京にいて、その翌日にスゴイ事に営業を再開したJALに乗って小松にたどり着いたんだけど、そのとき小松空港のTVから核燃料の一部が溶け出した可能性があるというニュースが流れていた。あのときは地獄の釜の蓋が開いたと心の底から思ったよ。コントロールに成功したとしても、原発を中心とした半径20kmくらいの土地は国が責任を持って買い上げて立ち入り禁止にするんだろうなとも。実際には最悪は避けられはしたけど、やはりあそこは許認可の責任をとって、国が買い上げて封印すべきだったと今でも思ってる。それは長くなるのでまた今度。キーワードは、石をおく、または線を引くということ。
※2.2015年にオーストラリアの運送会社を買収したんだけど、その時点で買収額の6200億は高値づかみ...って16才にはなじみのない言い回しか...まあ無駄に高く買ったんじゃないの、という批判が出ていた。それから2年たったら、やっぱり大赤字ということが出てきた。すっごくアレな話だ。
 
なかなか馬鹿げてるよね。どうしてこうなっちゃうんだろう。ここに上がった組織は、悪い人が力をふるえる場所にいたということなんだろうか。陰謀論というのがあるけど(これも知らないならググルように)、つきつめれば、期する利益を得ようとする人がいて何かを企むという考え方だよね。規模の大小を除けば、悪い人がいたから失敗したんだという考え方は、極論すると陰謀論と同じ次元の話になってしまう。でも、悪い人(という言葉は多義的だ。法律にまだ定められていない犯罪を思いついて実行する埒外の人から、ワルイ人ねと言われる人まで、とても幅広い)のせいにすれば再発は防げるんだろうか?一緒に考えてみよう。
 
いま名前が挙がった組織は、どれもこれもその時々の優秀な人達をかき集めてる(吸い寄せてる)のに、すっごくバカなことをやってる。不思議でしょ?ぜひ不思議だと思って欲しい。みんな優秀なんだよ?すると、この辺りでお決まりのツッコミが入る。「勉強が優秀なだけで人間としてダメな人達だったからでしょ(そんな事も分からないなんてアナタはバカなのね)」って奴だ。これのバージョンアップ形として「人間として大切なことを学ぶ時間も勉強ばっかりしてたから」というのがある。なるほど、人間に必要なものって確かにあるよね、思いやりとか共感力とか。そういうのが無いひとの代表格といえばサイコパスだけど、サイコパスの相対的な比率が高い職業(しかも1位!)として企業のCEOがあるっていう研究もある。ちょっと懐かしいけど(ボクにはね)IntelをビッグプレイヤーたらしめたAndy Groveの"Only the Paranoid Survive"という有名な言葉もある(し、本もある)。人間性じゃ無いんだぜ、会社が成功するってのはヨウ、ということですね。であるので、人間として至らないから問題が起きるのだ、というのは論としてちょっと弱い。問題のありそうな人達が企業を成功させちゃってるのだから。
 
さて、不思議に帰ってきた。優秀な人達があつまる組織は、しかし時としてトンデモなくバカげたことをする。なぜなんだろう。共通する原因があるんだろうか。そうしていろんな事を調べて、考えて、迷宮に入っていく。でも答えが出なくてもおなかは空くし、明日はやってくる。もちろん会社も学校も続く。だから答えが出ないことに向き合うことも必要になる。そういう時には先人の英知をつかう。今回の場合は「不思議だが本当だ」。
だから理由はさておき、組織の構成員の出来もさておき、「人間が集まったら、予想外のバカなことをする可能性がある。それが顕在化したときの破壊力は組織の大きさに比例する」ということを公理としてみとめてしまおう。公理と書いたのは、証明をしないからだし、そこを出発点にして考えようということだね。原因が気になっていたは次の「バカダナー」を避けるためなんだから(まあ、純粋にバカを見て楽しむという趣味の人も居ないではないけど、ボクを含めた大多数の人はそんなにいびつでは無い)、公理をみとめてしまえば、バカな事が起きても困らない組織にするにはどうしたらよいかに変形されることになる。なるよね?

ちなみにこういう立論をしちゃうと、悪い人がいる、というのは原因の1つに過ぎなくなってしまうというのも魅力だ。悪い人を除外せよ-、なんてのは魔女狩りにしか繋がらない(ヨーロッパの歴史も蒙いけど、アメリカも相当だよ。魔女 セイラム でググってみよう)。
 


さて、すっぱりと説明してしまえると思ってこのアーティクルを始めたんだけど、中々想定するゴールに近づいていかない。判りやすく伝えるのが難しいというものあるけど、考える筋道ってその人の形そのものなので、それ自体を判ってほしいという欲もあるから。お互い急ぐこともなくなっちゃったので、なんでそんな風に考えるのかをもう少しゆっくり伝えていこうか。
そしてそれに当たっては自分の原則を伝えておかなくちゃならない。そのものズバリ(ってのは相当に古くさい言い方だ)の発言があるので、それを引用する。

 

「僕は別に白人である事にも英国人である事にも、特に誇りは持ってない。偶然そういう境遇に生まれ出てしまったんで、『まあじゃあそれを精一杯活用するか』」程度のものでさ。音楽がこういう形で現れるのは、子供の時に吸収したものの影響に過ぎないんで-白人の作るポップミュージック、それだけだったんだ。レゲエやオペラを作ろうとしても、僕はそうしたものを吸収してこなかったんだから、仕方無い。入ってきたものといえばビートルズキンクスにある種のモダン・ジャズだった。だから必然的に今出てくるものもそれなのさ。僕はただの挽き肉機なんだよ。この世にオリジナリティーなんて存在しないんだ、あるのは誤った解釈だけだよ」

 

XTCというバンドの、アンディーパートリッジさんという人の発言で、Fossil Fuelというシングルコレクション集のライナーノートに記載されていたもの。ボクの思っていることをこれ以上の精度の望めない形で伝えてくれてる。

つまりボクの考える道筋までもを伝えるなら、何をインプットしてきたかを開示しなきゃならないということだ。世界少年名作全集みたいな物語千本ノックのおかげで、物事を類型化する癖がついたよというのはもう話したことがあったと思うから、その先の事を伝えよう。ウチにおける「ビートルズキンクスにある種のモダン・ジャズ」はビジネス書だったんだ。

 

今日はここまで。こんどはそんなに空けないつもり。誕生日も近いしね。

言論統制

言論の自由がとか、政府の統制がとか言われる際に、引きあいに出されがちなのが「戦時中の言論統制」のことだ。すごく精密な官僚機構が戦争遂行のために、言論人や出版社、報道機関、そして個人を押しつぶした時代として専ら語られ、自分自身もそんなものなのだ、と思い込んでいた。言論統制の前線に立ち、言論人から小ヒムラーと呼ばれた情報局情報官・鈴木庫三少佐を通じて戦時体制下の言論統制について述べたこの本を買ったのも、その辺りの知識の補強のため、くらいの積もりだった。

 

言論統制|新書|中央公論新社

 

鈴木庫三といえば、清沢洌に「日本思想界の独裁者」と断じられた事など(これについては後ほど)、言論統制の代名詞であり専横を極めた軍人くらいの認識しかなかったので、本書はかなりインパクトがあった。もちろん「オレって何も知らなかったのね」系のインパクトです。
国防国家構築のための教育改革、そのために行われた思想戦、それが言論統制ということだったという所にまず驚きがある。戦争遂行のための人々を束ねるツールの1つだと長年思い込んでいたのだけど、もっと長いスパンのことを考えていたのだね、少なくとも言論統制の代名詞として知られる鈴木庫三は。
軍(※)というのは戦争という行為における矛and/or盾を責任範囲とする実施組織であって、どこに矛を向けるかという意志を持つものでは無いし、ましてや社会を改革する意志というのは軍に存在してはならないものなのだけど、満州事変などと同様、ここでも組織の根幹をはみ出す個人(あ、もちろん複数形もアリね)の意志の発露を見ることができる。そしてさらに面白いのが、その鈴木庫三は軍自体とも断絶があり、海軍に、陸大卒のエリートに、反感を持っていて、二重の意味で軍の則に抵触している(226と地続きなんだね。本人も226に共感していたようだし)。では鈴木自身の立ち位置はどうなのかというと、本書によれば自らを教育者と任じていたのでした。うむむ、成る程。

(※軍政/軍令の関係は判ってるつもりで、しかしそれでもそれらの上位存在として軍という理念というか、目的と枠組みがあるはずです。もちろん、そのフレームを守れなかったところが旧軍の致命的な欠陥ですよね)

 

その鈴木庫三が軍の代表として、言論統制の悪を一身に背負って戦後貶され続けたのは大いに皮肉なことだ。と言って、鈴木庫三の 思想 が現代に通じるものがあったとか、そこには見るべきものがあった、などという気も全く無い(人間性は別よ。あー、でも仲良くは出来そうもないな。相性ってあるからね)。鈴木庫三の思想を突き詰めれば、平等で、清潔で、人情味があって、誰にでも判る素朴な趣味を礼賛する、ファシズムということになる。なぜそんな思想を持つようになったのかという彼固有の事情は理解するけれども、それで国(当時の思想には「社会」というあいまいな括りはなかったのだね)が良くなる事は到底ありえない。みんなが頭を使わなくなってしまう社会に発展は無いよね。ただその思想の是非はおいて、彼は熱心な教育者として(!!)、国を良くするための活動に邁進していたのだという構図は、言論統制という言葉についてワタシが思っていたイメージと、つまり後年の批判とあまりにもかけ離れている。


そしてもう1つ。上記のような思想を時局の力も借りて、高圧的に周りに広めようとすると(何しろ本人は良いことだと思ってるからね)、当然だが軋轢も起きる。とはいえ相手は軍だから長いものに捲かれなきゃやってられないし、中には本当に良いことだと思う人も出てくるだろう。そうして多くの言論人・出版人が戦争協力者となったこと自体はとても自然なことだ。面従腹背(2017年6月現在、突如流行ってるね)も生き抜くためには必要だ。でも、過去の改ざんはだめだろう。これについて本書では多くのページがさかれている。時局に迎合した言論人、出版社、つまり当時の日本で普通であったその筋の戦争協力者が、戦後になって自らの過去を糊塗するための依り代として鈴木庫三は用いられたのだという。
弾圧者の悪名が高ければ高いほど、それと対決した言論人、出版人は偉いことになる。本書ではそれらの「逸話」が事実と異なることを資料を元に明らかにしている。世の中が変わると同時に自分が行った事を消そうとする浅ましさは、人間の限界を伝えていてとてもタノシイ。もちろんその浅ましさは今現在まで続いている。本当に信じていたのであっても、面従腹背であっても、そもそも腹など持たず単に状況に流されていたのであっても(こっちは悪の凡庸さについての報告へと続くルートだね)、やったことの軽重はかわらない。それを判らない浅ましさというのは今日に特有のことなのではなくて、70年あまり昔であって同様に存在していたのだね。人間だものね。


等という具合に、本書は思想的にはアレだけど人間としては割合に上等な人と、能力や思想的には高級なんだが人間としては下等な人のコントラストで進んでいく(上等、下等はワタシの主観)。読み物としての牽引力はとても強くて、2017/2/2に最初のページを開いてから、途中よんどころない事情で中断したことを除き、最後まで一気に読み通したのだけれども、しかし自分なりの一応のまとめが出てくるまでには4ヶ月以上の時間がかかってしまった。その流れをざっくり記しておきます。


鈴木庫三の事を「日本思想界の独裁者」と断じた清沢洌は、しかしその著書である暗黒日記を読むと判る通り、出来不出来とは別として相当に鼻持ちならない古くさい自意識のオトコでもあり、なるほどあの辺の言論人のつまらなさが実証的に納得がいったなあいうスッキリ感が当初は支配的であったのだけど、そんな感傷的な纏め方ではダメだ、全然総括(!)できてないじゃないかという気持ちに段々となってきた。まあ、それはそうだね。
(ちなみに調べ直したら暗黒日記は橋川文三編じゃない圧縮版が出回ってる。 山本義彦編の全一巻本@岩波は清沢のダメなところ、鼻持ちならないところを抜いた版でない事を期待する)


ではどう読むべきか。1つには人知を越えた事象に巻き込まれた人々の運命として読むという道がある。

軍内部のパワーバランスを使った調略によって1942年4月輜重学校付けに転属、8月にはハイラルの輜重部隊連隊長に転任。鈴木はあれほど熱を入れた思想戦の現場から突如排除されてしまう。鈴木庫三の考えるところは国防国家の構築を目指すのであれば無下にできないものだけど、いざ太平洋戦争が始まってしまえば 教育 による準備よりも、単純な統制、統制のための統制の方が優先度が高く、地ならしが済んでしまった言論人やメディアとの関係の方が重要になってしまった、と見るべきだろうか(ただし彼の場合は、戦争の進展と関係無く、いずれ用済みになったであろうとも思われるが)。では言論人・出版人はどうなったか。石原莞爾が戦後マッカーサーの側近に対して「予は東条個人に恩怨なし、但し彼が戦争中言論抑圧を極度にしたるを悪む。これが日本を亡ぼした。後に来る者はこれに鑑むべきだ」と述べたように、戦中(太平洋戦争戦中)を通じて苛烈な言論抑圧が行われたが、その多くに鈴木は関わっていない。言論人・出版人は鈴木庫三を排除したことによって楽になったわけでは無く、むしろより厳しい言論統制に曝される事になった。さまざまな思惑も、相克も、すべて颶風のごとき戦争の前に等しく押し流されてしまう物語。悪くはないけど、やはり感傷的なだけだよね。


それなら話のコアを変えてみよう。鈴木の活動を疎みつつ頼ったという姿が淡く描かれている軍を主において読むのはどうだろう。なぜ疎む相手を頼ったのかといえば、代わりが居なかった(余人を持って代えがたかった)からだろうし、では何故居なかったのかといえば、軍が軍である以上、思想を持つ事が良い事ではないから。戦術、戦略ではなく思想を語る軍人というのは、自らが主人になろうとしてしまう。軍人は政治によって使われる剣であるべきなのに。でも思想が無いから、伝えるべきことも考えられない。そうすると異端であると知りつつも、思想をもった軍人を使わざるを得ないことになる。矛盾と、そこから発生する反発。書中では鈴木側からの嫌悪感のみが強調されてるけど(日記をベースにしているのだから当然なんだけど)、軍のほうだって異端者を快く思う筈がない。そういう軋轢があるなかでのクライマックスが1942年4月の転出(左遷)で、それ以後はごく一般的な、思想無き、戦争遂行のためのツールとして言論統制が行われた物語として読めないだろうか。本書では明確には語られてないけど、1940年には鈴木が所属する陸軍省情報部を包摂する情報局(俗称:内閣情報局)と大政翼賛会が発足し、プロパガンダと検閲は分業化され、かつ盛大に行われるようになっていく(1941年には花森安治大政翼賛会宣伝部に参画しているね)。それらが本格稼働するときにはもはや鈴木の居場所はなかったのかもしれない、とか。等々想像が広がった以上は、その周辺のことをもう少し調べなければならないね。そのときには軍ではなくて国のことも理解しないといけない。しまったこの道は宿題が増える道だ。でも、まあ、この本単体で完結した読み方をするのが無理だろうという気もするので、ここを起点にもう少し調べ物をするというのが、取りあえずのまとめ。


相当に発散したことを書き散らしているけど(しかも時間もダラダラかけて)、自分のサイズでアレコレ考えていくことの練習なので取り繕っても仕方が無い。そのうちにもっとすんなり考えたり、記したりができるようになることを期待しつつやっていくしかないよね。そうしていろんなことを16歳に対してわかり易く説明できるような人間になるのだ。


あ、前回の最後に宣言した宿題を達成してない。それは次のエントリで解決する予定。今日はもう寝る。

18年目の「バケツでウラン」

www.nikkei.com

量子科学技術研究開発機構放射線医学総合研究所は13日、日本原子力研究開発機構・大洗研究開発センターで被曝した5人の作業員が全員退院したと発表した。5人は今後も通院し、検査結果などの説明を受ける。必要に応じて再治療する場合もあるという。
放医研は7日に5人を受け入れた。放射性物質を体の外に出す治療が終わり、健康状態に大きな変化がみられなかったことから、退院しても問題ないと判断したという。

 だそうです。
恙ないことを希望しつつ、しかし1999年の時から何も変わってないように思われるこの事件(事故とは言いたくないな。管理側の怠慢による人災だからね)は、相当にワタクシ共をくらい気持ちにさせる。
1999年の奴はここにキレイに纏まってますね。

東海村JCO臨界事故 - Wikipedia

 

みんなこの事件のことを「バケツでウラン」と何だか気軽に呼称したけど、実際はとても悲惨で悲しい話だった。細胞の再生ができなくなった人間が最後にはどうなるかということが、多くの人には想像できていなかったのかも知れない。助からないと思ってたボクも、最終局面の悲惨さはちゃんと想像できていなかった。そうだよね、安楽死させてもらえないならこうなるよね(記事中の心停止後に救命処置をして蘇生させたという下りは、いまの医療のルールは平時の倫理観向けのものでしかない事もついでにむき出しにしていたよ)。
google検索に「バケツで」までを入れると、補完候補として「バケツでウラン」が今現在2番目に表示される。昔の事を覚えている人が当時のキーワードで検索したということなんだろうけど、なぜだかGoogleトレンドでは出てこない。事件直後は補完候補1番だった気もするのと合わせて非常に解せない...という先は陰謀論になるので止めておいて、記録に残しておきたい事に向かいます。


1999年の時、Wikipediaにあるとおり

現地では事故現場から半径350m以内の住民約40世帯への避難要請、500m以内の住民への避難勧告、10km以内の住民10万世帯(約31万人)への屋内退避および換気装置停止の呼びかけ、現場周辺の県道、国道、常磐自動車道の閉鎖
 

が行われたのだけど、その閉鎖のまえに情報を得ていた某社従業員の家族はすでに現地を脱していたのだそうだ。だそうだ、というのはホップ数1で聞いた話だから。

家族だけでも逃がそうという「普通の人」の感覚も判んなくはないけど、そういう「普通の人」達に原子力を扱って欲しくはないな。それが1999年に思ったことで、そこから18年。自分の家族がその場にいても、もしくは自分の家族が作業をしたとしても絶対に安全、そういうオペレーションを組み立てようというマインドは依然として醸成されてないんだというのが今回思ったこと。ワタシ達はアレのように巨大で、厳密で、場合によっては人がシぬ物や事には向いてないのだろうな、と。戦略思考が足りないのも、セオリーを無視するのも、何か根本的に足りないところがあるんだろうな、と。それは明日のネタ、情報統制という本へのコメントに続く。




追記
屋内退避というとジャガイモ袋のことが思い出され、ついでに同時上映の主題曲、walking in the airまで脳内再生されたりして。おや、すでに30年余りが経っているのだねえ。早くお迎えが来ますように。