all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

場を提供するというのは大変なことなのだなあ。

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極めて親しい友人におめでたいことがあるらしく、その記念に最近の日本語処理というか漢字の扱いについてコンパクトな説明を試みようと思っているのだけど、始めてみると中々思惑通りに話が転がっていかない。
ということで、いつものごとく全然別の話題でstop gapを行うものである。


今回のbogus storyは(いつもbogusな話で申し訳ないが)、今月のある日に夕食をとろうと、某カレー店に入ったところがマイナス方向に強くインプレスされ、その悲しい気持ちを広くシェアしようと某食事系口コミサイトにアカウントを取り(バカ過ぎる...)、投稿をしたところから始まる。

最初の投稿はこんな感じ。

 

『すでにゾンビ』

某社による支援の結果、どうなったかを確かめるために家人と訪問。怖い物見たさということで。

もともと池田町のときから味の定まらない店であって、シェフ次第の味のブレを経営者がビシッと仕切れないという伝統のところであった。それはオーナーが変わっても引き継がれていたようで、西泉に引っ越した後も、何度も味の変遷があり、その度に苦笑していたものだった。
だから伝統の味がなくなるところを某社が救った、美談だ、とかいうネット上のデマゴギーにはあきれ果てるばかりだったのだけれど(君たち、あの味のブレをどうみてるの、とか)、その日は私も家人も荒れており、逆に今日なら大概のことは冷笑と共に我慢できるという気分が一致したため、訪れてみようかということになったのだった。

 

食べるのはいつもの定番、マサラキーマとチキンテッカ。私は生ビールをつけて。
マサラキーマの味はさらにぶれていて、インドカレーというよりは、インドカレーと某社のカレーの間をつなぐミッシングリンクのような味になり果てていた。もしかしたら計算ずくの味付けなのかもしれぬ、と思い更にゲンナリ。ようするに思い出もへったくれもあったものではない。
チキンテッカはもっと大変で、とてもタンドリーで調理したとは思えないマットな食感の鳥肉に眩暈がした。熱々でもないし。別途加熱したのを最後にタンドリーで仕上げたか、それとももっと不思議な調理をしたか。何しろ生ビールとほぼ同時にでてくるチキンテッカというのは、いままでのXXXXXXではあり得なかったことで、それ一つをとっても同じ店が生きながらえたのだとは思われない。

 

私と家人の印象は、某社が別ブランド展開をするためのネタ元として資本をぶっ込んだのだろうなということで一致。決して味を守りたかったりしたわけじゃ無いのは自明で、同じ看板でやるのが恥ずかしくなるくらい味が落ちてるのだから。
そのうちXXXXXXチェーンというのができるでしょう。そして善男善女は某社の気高い行いをこれまたネットで祭り上げるでしょう。

ダメになったお店は素直に倒れさせて上げるのが礼儀です。お店が倒れるというのは、基本的に味が落ちたからなんですから。暖簾だけ活用して商売をしようなんて人を、みんなで持ち上げてちゃだめです。その結果のゾンビ店、涙もでない悲しさでした。

 

 

その二日後、こんなメールがやって来た。

 

ご投稿いただきました口コミに関しまして、ご連絡させていただきました。

ご投稿いただいておりますところ、大変恐縮ではございますが、下記の口コミにつきましては、口コミガイドラインに該当しておりましたため、下書き状態へ変更させていただきました。
お手数をお掛けしますが、下記の内容をご確認いただき、口コミのご修正をお願い致します。

【ご確認いただきたい内容】
■店名:「XXXXXXX 西泉店」
■該当箇所:
「ダメになったお店は素直に倒れさせて上げるのが礼儀です。お店が倒れるというのは、基本的に味が落ちたからなんですから。暖簾だけ活用して商売をしようなんて人を、みんなで持ち上げてちゃだめです。その結果のゾンビ店、涙もでない悲しさでした。」

■該当ガイドライン
「6.個人への誹謗中傷、店舗への断定的批判、及び不適切な表現は禁止します。」
・XXXXは、お食事をした際の主観的な感想・意見を共有する口コミサイトのため、主観的な表現であっても、レストランの口コミサイトとして不適切な表現の記述はご遠慮いただいております。

 

悪口と、強めの悲しみは、表現しようとすると確かに似通ったところが出てくる。のではあるのだけど、基本的には悲しみを伝えようと思って書いたのだ、これは。
悪口に見えたのだとしたら、それはワタシの表現力の至らなさに依るものであって、批判は甘んじて受け、真摯に対応すべきだと思うのであるよ。
ということで、丹念に修正をしてみた。

 

『すでにゾンビ』

某社による支援の結果、どうなったかを確かめるために家人と訪問。怖い物見たさということで。

もともと池田町のときから味の定まらない店であって、シェフ次第の味のブレを経営者がビシッと仕切れないという伝統のところであった。それはオーナーが変わっても引き継がれていたようで、西泉に引っ越した後も、何度も味の変遷があり、その度に苦笑していたものだった。
だから伝統の味がなくなるところを某社が救った、美談だ、とかいうネット上のデマゴギーにはあきれ果てるばかりだったのだけれど(君たち、あの味のブレをどうみてるの、とか)、その日は私も家人も荒れており、逆に今日なら大概のことは冷笑と共に我慢できるという気分が一致したため、訪れてみようかということになったのだった。

20:30過ぎに入店するが、店内に他のお客さんはなし。すでに不吉な気配が漂う。

食べるのはいつもの定番、マサラキーマとチキンテッカ。私は生ビールをつけて。
マサラキーマの味はさらにぶれていて、インドカレーというよりは、インドカレーと某社のカレーの間をつなぐミッシングリンクのような味になり果てていた。もしかしたら計算ずくの味付けなのかもしれぬ、と思い更にゲンナリ。ようするに思い出もへったくれもあったものではない。
チキンテッカはもっと大変で、とてもタンドリーで調理したとは思えないマットな食感の鳥肉に眩暈がした。熱々でもないし。別途加熱したのを最後にタンドリーで仕上げたか、それとももっと不思議な調理をしたか。何しろ生ビールとほぼ同時にでてくるチキンテッカというのは、いままでのXXXXXXではあり得なかったことで、それ一つをとっても同じ店が生きながらえたのだとは思われない。ちなみにこのチキンテッカ、「伝説のチキンテッカ」と銘打って6P、1200円也となっている。これで1200円なんだ。そうか。

 

サービスも、某カレー店と同じスタイルで、メニューを見て追加を逡巡する余裕を与えない。カレー、チキンテッカを伝えたらそのまま下がろうとする。あわててビールを注文すると、間髪入れずに「以上ですね」と言い残して下がってしまった。あらら、サモサどうしようか迷っていたのだが。太らずに済んだとは言え、客単価1000円までの店じゃないんだから、回転率よりも満足度(引いては客単価)向上を狙ったサービスを考えればイイノニねえ、と人ごとながら心配になる。

 

私と家人の印象は、某社が別ブランド展開をするためのネタ元として資本をぶっ込んだのだろうなということで一致。決して味を守りたかったりしたわけじゃ無いのは自明で、同じ看板でやるのが恥ずかしくなるくらい味が落ちてるのだから。
そのうちXXXXXXチェーンというのができるでしょう。そして善男善女は某社の気高い行いをこれまたネットで祭り上げるでしょう。

 

と思ったら、11/22の某新聞朝刊に「学生の頃によく通った金沢市内の老舗インドカレー店...中略...おいしくて人気のあるカレーを残したい」、「将来は取得したカレー店を東京とパリ、ニューヨークでチェーン展開...中略...金沢のインドカレーを広めることができる」というインタビューが掲載されておりました。ああ、やっぱりね。でもね。

この店の全てを伝えるかもしれない、ステキなビールの写真を載せておきます。二杯頼んで、二杯ともこれでした。オペレーション も 極めて難しい状態です。

 

悲しさがより重層的に伝わるように、サービスの劣化にも触れてみた。また取得した某チェーン代表の、これまた悲しいインタビューも添えてみた。更にエヴィデンスがないと、悪口と見分けが付きにくいよね、ということで悲しみに満ちあふれた生ビールの写真も添えてみた。これは相当に悲しいよね。

これで決着が付くだろう。そう思っていたら、さらにメールが来たのだった。

 

【ご確認いただきたい内容】
 ■店名:「XXXXXX 西泉店」
 ■該当箇所:「すでにゾンビ」

 ...理由などは前回と同じ...

 

ああ、タイトルもですか、そうですか。

ちなみにこの口コミサイトの介入ポリシーは、以下のとおりらしいです。

 

XXXXは、お食事をした際の主観的な感想・意見を共有する口コミサイトのため、ユーザー様がお店を選ぶ際の参考になる・信頼できるサイトを維持することを目的とし、口コミにガイドラインを設けております。
また、ユーザー様の口コミが起因となり、ユーザー様とお店との間でトラブルが発生することは、弊社として本意ではなく、健全なコミュニティサイトとしてご利用いただくため、本ガイドラインの遵守にご協力いただきますようお願い致します。

 

内容は一切不介入だと思ってたんだけど、ガイドラインを設けて内容をある程度統制するように変わってたんだね。
いや、所詮は商業サイトだし、何らかのルールによってトラブルを回避しようとするのは極々自然なことだ。別に腹も立たないし、それどころか毎回修正依頼ポイントを絞って伝えてくる丁寧さには頭が下がる。嫌みじゃなくて、本心から。お店の方が自分の評判をウォッチしてて、そこから上がってきたシグナルに対して運営側が誠実に処理をしているのだろうな、という構図が良く判る。そこはホント、感心している。
でもね、『口コミが起因となり』は日本語としてどうかいな。『口コミに起因して』もしくは『口コミが原因となり』なら判るんだけど、むりに起因を使おうとして滑った感じ。自分のとこにチェックが回ってきたら絶対に朱を入れる。あ、また逸れた。

 

ともあれ、こちらも悲しいものは悲しいのであって、その悲しさが伝わらないという自分の能力に対する悲しさも加わって、都度の原稿の練り直しはいきおい真剣にならざるを得ず、最初はさらっと書いて済ませようとおもっていたものが、なんだかずいぶん長大な、しかも着込みのテクストになってしまったよ。最初は悲しいことを伝えたいだけだったのに、最終稿は悲しさの上着の下に鎧が透けて見えるね(着込みだ)。まずくなっちゃった、サビシイねえ、ということをさらっと書いて、しかも書かれた側は切られたことに気がつけない、そんな切れ味を養わなければと思うのだけど、中々むずかしくて、ついつい書きすぎて、それを補うためにまた構造を継ぎ足して、とゴシックになってしまう。ああ、アタシの人生のようだねえ。文は人なり

 

では、この一連のbogusなやり取りに関する記録の締めくくりに最終稿を載せときます。クドイよ?

 

『「伝説のチキンテッカ」、はあ、左様で。』

某社による支援の結果、どうなったかを確かめるために家人と訪問。怖い物見たさということで。

 

XXXXXXと私の付き合いは割合に長い。最初に行ったのは1983年だったと思う(1984年ということは無い筈)。高校生時分からの付き合いということだね。34年前か。まあ、年を取るわけだ。

 
もともと池田町のときから味の定まらない店であって、シェフ次第の味のブレを経営者がビシッと仕切れないという「伝統」のところであった。それはオーナーが変わっても引き継がれていたようで、西泉に引っ越した後も、何度も味の変遷があり、その度に苦笑していたものだった。
だから伝統の味がなくなるところを某社が救った、美談だ、とかいうネット上の評判にはあきれ果てるばかりだったのだけれど(※)、その日は私も家人も荒れており、逆に今日なら大概のことは冷笑と共に我慢できるという気分が一致したために、では訪れてみようかということになったのだった。
※今の味が好きならいいんだけど、伝統の味と来ちゃ捨て置けない。君たち、あの味のブレというか変遷を理解した上で「伝統の味」とか言ってるの?、と。


20:30過ぎに入店するが、店内に他のお客さんはなし。すでに不吉な気配が漂う。

 

食べるのはいつもの定番、マサラキーマとチキンテッカ。私は生ビールをつけて。
マサラキーマの味は昨年訪れた時よりさらにブレていて、インドカレーというよりは、インドカレーと某社のカレーの間をつなぐミッシングリンクのような味になり果てていた。もしかしたら計算ずくの味付けなのかもしれぬ、と思い更にゲンナリ。ようするに思い出もへったくれもあったものではない。
チキンテッカはもっと大変で、とてもタンドリーで調理したとは思えないマットな食感の鳥肉に眩暈がした。熱々でもないし。別途加熱したのを最後にタンドリーで仕上げたか、それとももっと不思議な調理をしたか。何しろ生ビールとほぼ同時にでてくるチキンテッカというのは、いままでのXXXXXXではあり得なかったことで、それ一つをとっても同じ店が生きながらえたのだとは思われない。ちなみにこのチキンテッカ、「伝説のチキンテッカ」と銘打って6P、1200円也となっている。これで1200円なんだ。そうか。

 

サービスも、某カレー店と同じスタイルで、メニューを見て追加を逡巡する余裕を与えない。カレー、チキンテッカを伝えたらそのまま下がろうとする。あわててビールを注文すると、間髪入れずに「以上ですね」と言い残して下がってしまった。あらら、サモサどうしようか迷っていたのだが。太らずに済んだとは言え、客単価1000円までの店じゃないんだから、回転率よりも満足度(引いては客単価)向上を狙ったサービスを考えればイイノニねえ、と人ごとながら心配になる。

 

私と家人の印象は、某社が別ブランド展開をするためのネタ元として資本をぶっ込んだのだろうなということで一致。決して味を守りたかったりしたわけじゃ無いのは自明で、同じ看板でやるのが恥ずかしくなるくらい味が落ちてるのだから。そのうちXXXXXXチェーンというのができるでしょう。そして善男善女は某社の気高い行いをこれまたネットで祭り上げるでしょう。まあ、そういうものです。商業行為はそれぞれがリスクをテイクしつつ、やりたいようにやれば良いのであって、そのこと自体はどうでもよろしい。個人的な感傷は別としてね。
ただ、この味も、サービスも、自分の基準だと料金に見合った価値はないなあ(※)、というのが結論です。
※上限値に達するまでは、食事の料金は価値との見合い(相対評価)ですよね。そして上限値の向こう側っていうのは、どんなにおいしくてもその金額は払えない(払いたくない)という領域。私個人のカレーにおける上限値は、コースじゃ無い限りはドリンク入れて5千円くらいなので、XXXXXXに対する評価は、完全に価値見合いの相対評価です。

 

この店の全てを伝えるかもしれない、運ばれてきた瞬間からこうなっている、ステキなビールの写真を載せておきます。二杯頼んで、二杯ともに写真のとおり。オペレーション も 極めて難しい状態です。

 

 
11/27追記

11/22の某新聞朝刊に「学生の頃によく通った金沢市内の老舗インドカレー店...中略...おいしくて人気のあるカレーを残したい」、「将来は取得したカレー店を東京とパリ、ニューヨークでチェーン展開...中略...金沢のインドカレーを広めることができる」というインタビューが掲載されておりました(記事の写真は撮影済み)。なるほど、1974年生まれだから、高校時の1990年から1993年、それかその次の学校に在学中の1993年から1995年(か、1996年)に池田町の店に良く通ったということなんだね。
でもその時のマサラキーマは、今と相当に趣が違ってたよね。現在のマサラキーマの味の方向性(あくまで方向性であって、同じ味だとは言わない)は、西泉に移転して、シェフも何回か変わった後のもので、当時の味は180度とは言わないけどずいぶんと違った方向のものだった。スパイス、油の使い方、汁気の状態から、それこそタマネギのみじん切りのサイズまで。もちろん大いにブレはあったのだけど、それでも”XXXXXXの”マサラキーマだった。ああ、サフランライスにはレーズンが乗っててほしいよね。
ホールの胡椒が入らなくなったのは何時のことだったか忘れてしまったけど(20世紀中はあったと思うのだけど)、あのときの90年代中頃のマサラキーマを食べさせてくれるなら、一杯1500円でいいよ。80年代のマサラキーマなら思い出料金込みで2000円越えでもOKだ。それはチキンテッカも同じ。あの肉厚に切った、香ばしくて表面がパリッとしていて、でもジューシーなチキンテッカが6Pもサーブされるなら、1500円でも2000円でも許す。

 
さて、資本が変わったXXXXXXは、これから価値のあるインドカレーを供するようになっていくのだろうか?それは「伝統の味がなくなるところを某社が救った、美談だ」とネット上で評していた人々に任せることにしよう。一般的なインドカレーの価格帯にある数多の店の中から、特に選んでXXXXXXをひいきしていくお客さんの中核層は、あのときにXXXXXXを称揚していた人達こそがふさわしい。あのときFacebookを賑わしたイイネの嵐は忘れません。伝統ってのは

 

> 歴史を通じて後代に伝えられ,受継がれていくもの

 

なのであって、単に歴史が長いのを伝統とは言わないのですぜ?

 

XXXXXXに関しては、アタシャ、思い出と共に暮らしていくことにします。あと千回の晩飯じゃないですが、残り少なくなってきた食事の機会は、別の店で使っていきます。

 

 

10/26 ELLEみる

シネモンド金沢で、ポール・みんなダイスキ・バーホーベンの最新作、ELLEを家人と共に鑑賞。バーホーベンならではの牽引力と、フランス語(およびパリの風景)のマジックが相まって、間然とするところのない130分を過ごす。

様々な事が直接には了解不能なワタクシとしては、物事は意味の繋がりとして整理・記述をしないと困ってしまうのであって、ソレなかりせば、例えば主演のイザベル・ユペールはメンテの行き届いた驚異の63歳でしかない。そのような機能不良のワタクシにおけるELLEは、まずは、何人かの人間が解放され自由になる物語を骨格とする映画であった。
息子は母を襲う暴漢を殺しエディプスコンプレックスから解放され(そして大人になり)、母はウソをつくべき原因であった両親の死去によってウソから、新しい依存の対象となり始めていた暴漢を息子が殺したことによって依存のループから解放され、その母がウソをつくことをやめた結果、母子の友人は不実な夫から解放され、それぞれが「からの自由」を得る。それ以外のほとんどの人間は、何かが起きない限り自分の形をした檻に縛り付けられたまま暮らしていく(もしくは檻から出られないままに死んでいく)という事実の陰画である物語、それを主題とする映画であったと言っても構わない。


さて物語である。決してナマの生ではなくて、意図を持って語られるストーリー。多数の人間が一定時間拘束されないと成立しえない様式であるところの映画において物語は必要不可欠な要素なのだけれども、しかしその物語が映画にベールをかけ続けるのも事実であって、我々は映画を見ているのか、物語がヴィジュアライズされたものを見ているのか、つねに混同をしがちだ。それを避けようとする映画は、物語を映画の支配下におくべく、物語に様々なミスティフィケーションの口輪をはめようとする。(という言わずもがなの事をなぜ書くかといえば、長逝した息子に伝えたかったことだから。高校を出るまでの残り2年のうちに、こんな話もする筈だったのだ)

もちろんELLEにおいても物語による映画の乗っ取りを避ける為にさまざまな仕掛けが凝らされているのだけれども、そしてその甲斐あって最後まで目を開けていられたのだけれども、しかし。

 この映画は女性の自立を描いた映画になっている

 とイザベル・ユペールはインタビューで語っている。
ミスティフィケーションの口輪が行き過ぎて主演女優ですらも視座が錯乱したのか、それとも役柄(ミシェル・ルブラン)に同一化しすぎた結果、ミシェル・ルブランが居たとしたら感じるであろうことを口にしたのか。いずれにせよ、そんな映画ではなかった筈だ。いや、もしかしたら商業的な成功のために、バーホーベンがイザベル・ユペールにそのように答えよと指示をしたのかもしれない。


プロテスタントの国に生まれ、WWⅡを子供の時に体験し、数学と物理を学び、映画の時間を前にすすめるための機械仕掛けの神以外に何も信じなさそうな男が、女性の自立を主題にするものかね。いつもバーホーベンの映画がサワヤカなのは、人間に内面がないからではなくて、人間の内面が機械仕掛けであることを認めているからだ。心?心は高度に発達した機械が、その機械を運用するために宿すものなのだ、とまでバーホーベンが言ったかどうかは知らないが(多分言って無いと思うが)、バーホーベンの描く人間は、自由意志で動いているつもりでありながら、自らを構成する機械の都合に振り回されてばかりいる。
機械仕掛けの人間(つまり普通の人間)が、意図の交換に成功したり、もしくは失敗したりしながら、発生するイベントに翻弄されていく様をバーホーベンの固有時間に巻き込まれつつ観る、それが「みんなダイスキ」バーホーベンの構図だと思っている。善悪も、宗教も関係ない。世界に人間はただ有るのだ。sex and violence?それらは人間の基本属性だ。だからそれらも、ただ有るのだ。そういう感じ。

ELLEはカソリックに喧嘩を売っているという評もあり、確かに当初はそういう気もしたのだけれど、オレが正しくカソリックは間違っているのだ等とバーホーベンがわざわざ主張するかね。世界はただ有り、そこで様々なことがおきる。あるものはループから脱出し、あるものは何も気がつかないままそこに留まる。小説『Oh...』を換骨奪胎して描こうとしたものは、そのようなものであったのだ、というのが一応の結論。カソリックもいじられてはいるのだけど、それは本質ではなくて、人間の機械性につけ込む枷の一つという程度の扱いだろう(要するに性欲と同じということ)。
もちろん主義主張があれば映画になる訳では無く、それが130分の映像となって観る者の目をそらさせないのは流石。しかも1938年生まれのバーホーベンは来年傘寿なのだが、枯淡という雰囲気は一切無く、バーホーベンのままフランス映画になっているという新境地を見せている。

 

 「この映画を作ることで、私は今まで自分が作り上げたことのないものを作れるかもしれないと思った。それは未知の世界への跳躍でもあるが、芸術家である以上、新しいことに挑むのは重要なことだ。私が一個の実存になることができるからだ。芸術家なら、できる限り未知の世界に足を踏み入れ、そこで自分に起きたことを見つめなければならない。」

 

と本人も述べておられる。


惜しむらく、というよりは単なる夢想であるのだけど、ミシェル・ルブランが父の死を知った刑務所からの帰り道におこした車の事故で、そのまま死んでいたとしたらどうなっただろうか。物語としても、映画としても破産をすることに間違いないのだけれど、本当の生とは、来たるべきクライマックスが確率の暴力によって阻害されるような理不尽さとたえず向かいあうところに存在するのであって、それが映画にならないかと妄想したりする訳である。ELLEがそういう映画である必然性はもちろん無いのだけど、もしあそこで足を踏み外していたら、ナマの生にもう少し迫っていたかもね、と思わなくもない。ま、プロデューサーは止めるでしょうし、ボクも金主なら止めるでしょう。

 

ということで、他人は知らねど、ワタシには大変に面白い映画でした。次回作を期待します。

 

と思ったらすでに板が出てました。

 

11/9 雑記

www.nikkei.com

 

はい、来ました。ついに因習維持だけではやっていけないな(見栄を張りきれなくなったな)という感じですね。いろいろやらかして体力がないみずぽ銀行が、まずはもうだめぽと言い出しましたね。そもそも日本の銀行の高コスト体質(単純作業に無駄なお金を払う体質)は世界的には嘲笑のまとだったのです。

最近、こんなツッコミもありましたし。

 

www.excite.co.jp

真実を告げると炎上する(カサンドラですね)というのは世の常だけど、これはキンコン西野(って、テレビ一切みないので、どんな人かよく知らないんだけど)の言ってることが正しいですね。nikkeiが援護射撃をしてくれた格好です。

 

ちなみに上記記事に相当にハズカシイ事が載ってたので晒しときます。

 

慶應卒銀行員です」という人は反論を書き込んでいる。

銀行員がロボットに代替されるという点については、「どんなイメージで言っているのか、代替される職業と代替されない職業の選別を説明してください」とコメント。その上で、


「自分がクリエイティブだから代替されないと言いたい思いがあるんでしょうか。銀行員はATMではありません。皆さんが知らない銀行の仕事は芸能界含めあらゆる業種に深く関わりお金の融通を利かせている仕事です」

と、銀行業の意義を説いた。

 

 

とあるそうだけど、銀行の本質である信用創造がまったくできない事で世界的に有名な日本の銀行員が偉そうに説くかね。お金の融通は結果だよね?そのまえに信用創造があるんだよね?邦銀はそれができないから、国内企業の支援という形でしか世界と関われないんだよね。

そして、そもそも日本以外の国では銀行員のコア業務をするひとは極めて少なく、日本で高いお金を払って人間がやってることって、よその国ではすでに単純労働として切り離しているものが一杯あるのだけど、そういうこともきっと判ってない。

 

まとめれば、AIが問題なのでは無くて、AIを言い訳にすることでようやく世界レベルの仕事の仕方に変わってきたよというのが昨今の情勢であって、本来ならばもっと早くにやっておくべき事だった、のでありますよ。

まあ、ものを考えず(長期的な産業動向を考えず)、銀行員になっちゃった人が現実を認めたくなくてグダグダ言い散らかすのは心情的には判るけど、どうにもならないっすね。

 

 

実は今日、明日行う社内ワークショップがまさにそれで、長期的な視点、本質的な理解をもって計画を立てようというマインドを持って貰うために若手を集めてあれこれやるんだけど(それに忙殺されてて、ブログが書けてなかった)、上記の銀行員のようなXXXXな事を言い出したらどうしよう。

いや、うちのこにかぎってそんなことはないはず。

 

 

追記

AIが仕事のありようを変えていくのは間違いが無いでしょう。ラッダイト運動は、やはり敗北するのです。

でもね、これは単純作業という言葉の定義が変わっていくということに過ぎないのでは無いかとも思ってます。つまり何かに低廉に代替(だいがえ と発音する奴はXXXXだ)できる仕事を、これからは単純作業と呼ぶようになるのではないかと。

実はいままでも仕事の興亡(順番的には亡、興ですが)はあったのだけど、AIはそのスピードを極めて速くしているので、亡ばかりが目立っちゃうのだろうな、と思いますよ。そして、そのような過去に経験がない産業構造の変化(に留まらない社会の変化)こそ政治が頭を使うべきところなんだけど、そこは為政者、国民共々どう考えているのでしょう。いつものごとく、興味は尽きないですね。

 

 

10/29 政治の役割

最近にやりとしたニュースがコレ。

 

www.nikkei.com

6兆円とは大きく出たなあと思うが、もちろん「本件は極めて重要なイシューなのだよ」という主張の根拠を固めるためのものであって、ウソとは思わないけどガチの本当でもないだろう。ではその主張の矛先はどこに向かうのか。
リンク先の記事を見ると国交省がターゲットのように見えるが、その向こう側があるというのが当方の読み筋で、6兆円という派手な数字は法務省を刺すための武装なのだと思われる、おそらく。

例えばこんな感じ。

 

diamond.jp

こういうのもある。

www.fujitsu.com

法務省仕事しろ、というための威嚇ツールとしての6兆円という気分がしてこない?

ちなみにその法務省は、戸籍のマイナンバー化を頑張ってらっしゃるのだけど、その先の見通しがきこえてこない。なぜ何だろう、社会を良くすることに興味がないんだろうかという気になってくる。多分、そういうマインドはないんだろうな。
土地登記をマイナンバーと紐付けてシュアにするというのは法務省のマターの筈なんだが全然やる気無しという怨嗟の声を耳にする(目にする)ことがあるけど、本件はまさにそこを突いた攻撃の模様。


本来の中央官庁の仕事というのは企画と監督が主たるものであって、それぞれの分担範囲のなかでこの先の社会をどうしていくかを考え(企画し)、それをコントロールするための法律を作り、分担範囲の中のプレーヤー(私企業であったり、地方自治体であったり)を規制・監督していくのが王道だ。実際のオペレーションをするというのは中央官庁の仕事ではないのである、本当はね。
ところが日本の中央官庁にはオペレーション自体が組織の中核になっているところが2つある。一つは防衛省で、もう一つが法務省だ。(あ、もう一つあるけど今日は省略)

毎度のことだけどwikipediaで見てみよう。

法務省 - Wikipedia

他の中央官庁との差は歴然。大臣官房を除くと、基本的にはオペレーション部局だけ。

 

法務省:国会提出法案など

にある提出法案をざっと眺めても、法務サービスの利用者(国民)を向いた法案ってほとんど無くて、現在のオペレーションの精度を向上させるか(例えば刑法の改正とか)、さもなきゃ裁判官の処遇(給与)を変えるか等の内向きの話ばっかりだ。

 

最近の民法改正はインパクトあったけど、でも

法務省:法制審議会 - 民法(債権関係)部会

にある検討の記録を読むと、斯界の権威が集まってアレコレ述べているだけで、サービス利用者の利便性向上というのを気にしてるようには見えないなあ。
オペレーション部局ばっかりだとそういう気分になってしまうのか、と思う事しきり。法務省が世の中のあるべき姿を考えるというのもぞっとしないけど。


尻込みをしがちな官庁を蹴飛ばすのは正に政治の役割なのであって、土地登記の件をフレームアップするのは筋としては悪くない。マイナンバー入れたんだから、毒を食らわば皿までで、可能な限り(少々の流血も怖れず)使い倒して欲しい-次の世代に、変なしがらみを残さないためにも。
この手の話は地味になりがちで(だから官庁のバリアーを中々破れないんだけど)、それを6兆円という圧力でぶっ飛ばすという絵柄に見えるのであって、つまりどのようなオチになるのか大変楽しみにしております。

 

少なくとも某党や某党が大勝してたら、この手の票に結びつかない、けど次の世代のために重要な話が停滞していたわけで、助かったなあというのが正直なところ。

10/27 Jerusalem

家で仕事をしながらランダムプレイで音楽をかけてたら、たまたまEL&PのJerusalemが流れて来てしまったところから今回の連想の漂流は始まる。


Jerusalemと言えばEnglish National Anthemにも推薦された歌であって(詳細は後出)、ロンドンオリンピックのオープニングでも合唱していた曲だ。そのLondon2012のオープニングセレモニーでは、オリンピックに出場する二人のランナーを巡るドラマ(映画)、邦題「炎のランナー」のテーマ曲も流れていた(サイモンラトル指揮だったそうです。あ、England出身だ)。「炎のランナー」、原題を「Chariots of fire」と言う。

今回もwikipediaから引用。

炎のランナー - Wikipedia

" Chariots of Fire " というタイトルはウィリアム・ブレイクの『ミルトン』の序詩"And did those feet in ancient time"からとられている。詩では "chariot of fire" と単数形。ブレイクがモチーフとしたのは、旧約聖書『列王記』においてエリヤが炎の戦車(Chariot)に乗って地上を見下ろすシーンである。

以下は詞の抜粋である。

Bring me my bow of burning gold!
Bring me my arrows of desire!
Bring me my spear! O clouds unfold!
Bring me my chariot of fire!

わが燃えたぎる黄金の弓をもて
欲望の矢を、槍をもて
雲よ散れ
わが炎の戦車をもて

 

 

Jerusalemの歌詞デスネ。そういや映画のラストでも聖歌隊によって歌われているし。

 

エルサレム (聖歌) - Wikipedia

にも

18世紀イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの預言詩『ミルトン』(Milton)の序詩に、同国の作曲家サー・チャールズ・ヒューバート・パリーが1916年に曲をつけたオルガン伴奏による合唱曲。
更にはラグビークリケットでのイングランド代表が国歌として使用しているなど、イギリス国内では様々な場面において特別な扱いを受けている作品である。
 

 

とある。してみると、ロンドンオリンピックのオープニング/エンディングは、イギリスの誇る商業音楽家が大量に出てくるというショーであると同時に、イギリス(というかEngland)が誇る詩人、William Blake祭りだったのだという気がしてくる。

しかしWilliam Blakeである。元々BlakeはThe Doorsがバンド名をパクッたネタとして私の中では認知されており、メスカリン上等の幻視派の詩人は確かにJim Morrisonの大先輩だろうよとは思うのだけど、だからこそオリンピックや(準)国歌、そして炎のランナーにジャストフィットな、あまりにもストレートに見えるJerusalemの歌詞には違和感がある。逆にBlakeとThe Doorsの地続きが一般常識なのだとしたら、そんなのをオリンピックのオープニングでフィーチャーして良いのかとも思う。

 

よし現実逃避で真面目に調べるかということで、しばしネットをうろついたところ、London2012を含めて解説をしてくれるヒント情報満載のページに行き当たった。

 

www.redicecreations.com

ちょっと引用する。

A cast of 10,000 volunteers will help recreate country scenes, against a backdrop featuring farmyard animals and landmarks like Glastonbury Tor.
The opening scene of the £27m ceremony will be called "Green and Pleasant", artistic director Danny Boyle revealed. 

 

「オープニングシーンは"Green and Pleasant"という」と美術監督であるDanny Boyleが明かしたと。
ふむふむ"Green and Pleasant"ね。

そして、同URLのWEBページ内を Blake で検索すると、コメント欄に素晴らしいことが書かれている!

Like almost everything to do with the Olympics, the art, music and thematic choices for the opening ceremonies are made with wide-ranging symbology in mind.

The selection of "Green and Pleasant" is an interesting one in that it not only speaks to the beautiful physical landscapes England possesses, but also indicates the long history of religion and mysticism in the British Isles, and gives a pointed nod to what many believe is the Zionist message contained in these events.

The "Green and Pleasant" theme is a line taken from William Blake's 1808 poem, "And did those feet in ancient time", from a collection of writings known as the Prophetic Books.
It is best known today as the anthem "Jerusalem", the music having been added by Sir Hubert Parry in 1916.

 

やはりBlake祭りである(っぽい)事が指摘されている。そうですか、Prophetic Booksですか。

そしてこの有益なコメントは、続けて本当に恐るべきことを語る。無学なワタクシとしては畏れ入るばかりとなる。

The poem was inspired by the apocryphal story that a young Jesus, accompanied by his uncle Joseph of Arimathea, travelled to the area that is now England and visited Glastonbury during Jesus's lost years.
The legend is linked to an idea in the Book of Revelation (3:12 and 21:2) describing a Second Coming, wherein Jesus establishes a new Jerusalem.

The Christian Church in general, and the English Church in particular, used Jerusalem as a metaphor for Heaven, a place of universal love and peace.

In the most common interpretation of the poem, Blake implies that a visit of Jesus would briefly create heaven in England, in contrast to the "dark Satanic Mills" of the Industrial Revolution.

 

ああ、そうですか、GlastonburyにJesusが来てたんですか。普通の人にはそういうのって思いつけない。まさに幻視派。
そういう文脈でJerusalemを見直す(読み直す)と世界の様相は一変する。何故かと言えば、London2012のメイン会場はGlastonburyだから。Danny Boyleは何もかも判っててBlake祭りを開催したんだな。

 

大英帝国の人々の間でこれらのことがどの位理解されているか、というのはワタクシの如きには見当もつかない。たとえばJerusalemはGlastonburyゆかりの曲だという事とか。その背後にヤク中の詩人が潜んでいるとか。そしてGlastonburyには、かつてJesusが訪れたことがあるとか(幻視)。
ソレコレが判る人は判れば良いし、判んない人は「炎のランナー」(Chariots of fire)からJerusalemの繋がりでEngland!! England!!(WellsとかScotlandは放置な訳ですが)と盛り上がってろという二面性のある演出をDanny Boyleは仕掛けたのだなと、5年も経ってようやく得心しましたですよ。Blakeが幻視者だと知っている人には違和感が出てくるのだろうけど、そこについては"Green and Pleasant"と言う手がかりを残しているので上手く調べろと(今回は親切な人が恐るべきことを 教えてくれた訳ですが)。

 

...こちらの妄想も広がりきったのでまとめよう。

 

幻視者のみた世界観がLondon2012(のセレモニー)のベースにあるのだとしたら、イギリスの誇る商業音楽家が大量に出てくるというショーの構成も一本の筋が見えてくる。アレは「妄想体質のヤク中が詩を垂れ流す」という伝統芸能の系譜が世界を席巻した事を理解しろというメッセージではないかと。であればこそのJerusalemスタートのオープニングセレモニーだったのではないか、と。
Chariots of fireは?アレこそが普通の人を謀るためのアイテムなのであって、Blakeもまた健全なのだ(だからBlakeテイスト溢れるセレモニーのデザインも安心なのだ)、という虚偽の主張を補強するための材料ではないか。
つまりDanny Boyleの企んだデザインはこうだったのではないか。普通の人にはEnglandの聖歌(Jerusalem)、Englandとオリンピックの感動的な関わり(炎のランナー)、Englandが誇るポピュラー音楽というViva Englandに見え、Blakeを知っている人にはかつてJesusが訪れた場所(Glastonbury)にその事を言祝ぐ詩が響き(Jerusalem)、その事を記した詩人(ヤク中)がモチーフである事を暗示し(炎のランナー)、その事を記した詩人(ヤク中)の末裔が世界を席巻したことを伝える(Englandが誇るポピュラー音楽の数々)というBlake祭りに見える。そのような二重の構成をもったショーを目論んだのではないか。

もちろんそれはワタクシの妄想であるのだが。

 


追記
おっと、大事なことを忘れていた。
EL&Pはどっちの積もりでJerusalemを演ったのだろうという疑問が残る。つまり普通の人が知るところの聖歌やありがたい歌としてのJerusalemなのか、それともWilliam Blakeを知るものとしてのJerusalemなのか。
EL&Pの健全さから考えて前者のような気がするのだが、さてどうなのだろう。どこかにインタビューなど残っていないものだろうか。

 

10/23 日経ビジネスオンラインにあきれる

本日届いた日経ビジネスオンラインのヘッドラインメールに激しく呆れる。

こんな見出しが載っていたのだ。

 

◾️選挙は終わった。さあ、働こう。

 

元ネタは言わずと知れた、アレである。

 

「祝ひ終つた  さあ 働かう!」大政翼賛会謹製のコピーである。

今年は皇紀2600年であって、来年には米国と開戦するのかと思ってしまった。品のないことこの上ない見出しである。

(不幸にして元ネタをご存じない方は以下を参照されたし

紀元二千六百年記念行事 - Wikipedia

 

 

ヘッドラインに続く記事のサマリーを見れば、生産性向上関連の真面目なもののようである。アイロニーでも、嫌がらせでもなくて、あのネタを使って見出しを作るってのはどういう了見なのか?そして、それをたしなめる上席は居なかったのか?

只々あきれ果てるものナリ。

 

10/18

今一つスッキリしないので、今日も生存確認のエントリでお茶を濁す


今年の2月に某件で救急車に乗ってからというもの、街を走る救急車を見る度にDOAではありませんようにと思うようになった。DOAはdead on arrivalの略。ところがプロに聞くと、DOAとは言わずCPAというのだと。
CPAはCardioPulmonary Arrestの略で、心肺停止のこと。うむむ、そうきたか。

 

心肺停止 - Wikipedia

報道用語としての「心肺停止」と、「死亡」の境目

日本のマスメディア(メディア)では自然災害や事故に遭遇して死亡し、医師による死亡確認・宣告がまだ行われていない状態の人について「心肺停止」「心肺停止状態」と表現される[1][2][3]。

日本の医学界では、実際には死亡していても、心停止と呼吸停止のほかに脈拍停止と瞳孔散大(散瞳)を確認して医師が死亡を宣告しなければ法的に確定しないとされており、医師以外の者(救助要員や警察官・報道関係者など)は心停止・呼吸停止を判断することはできても、死亡を宣告することはできないことが理由である[1][2]。ただし例外として、救急隊が到着した時点で、既に死後硬直が始まっているか死斑が現れている、低体温であるなどいった状況から救急搬送する意味がもはやなくなっている場合、死亡判定がされることがある[3]。

事故・災害現場において、まだ救出できておらず、医師も近づけない状態にある遺体や、病院に運ばれている途中の遺体は、医師による死亡が未宣告であり「心肺停止」とされる。

日本国外のメディアでは、日本のメディアが「心肺停止」と報じていても、世界の報道では「死亡」「遺体」に該当する語が用いられることもある[1]。

 

 

と、あるとおり、日本では医師が診断しないと死んだことにならない。そりゃDOAとは言えないよなとおもう。思うんだけど、じゃあ医師が現れなければいつまでも不定な状態が続くのかというと、実はその通りで大規模災害の時なんかにそういうことがあらわになる。311のときも、御嶽山噴火のときもそうだった。
(ただし医者の問題だけではないよ、という貴重な情報を以下に発見した。たしかにこれは有りそうな話)

matome.naver.jp

 

さて、そのような状況に一石を投じる文書を仕事の途中で発見したので、ここに残しておきたい。

http://wwwhourei.mhlw.go.jp/hourei/doc/tsuchi/T170913G0020.pdf

 

背景を説明したサイトは、例えばここ。

medit.tech

 過疎と高齢化、地域医療の資源が枯渇しつつある地方において、医師が遠方にいるなどして死亡診断が遅れ、円滑な死亡診断書発行、埋仮想ができない恐れが増加している。そのため、それを回避するため住み慣れた地域から遠く離れた病院に入院したり、逆に医師のいる場所までの長距離輸送を余儀なくされるケースも出てきており、対応が望まれていた。

 

ナルホド。社会を維持するリソースの減少というのは、様々な影響を引き起こすのだなあと嘆じたことですよ。


いかん、次回こそ明るいネタを書こう。