all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

18年目の「バケツでウラン」

www.nikkei.com

量子科学技術研究開発機構放射線医学総合研究所は13日、日本原子力研究開発機構・大洗研究開発センターで被曝した5人の作業員が全員退院したと発表した。5人は今後も通院し、検査結果などの説明を受ける。必要に応じて再治療する場合もあるという。
放医研は7日に5人を受け入れた。放射性物質を体の外に出す治療が終わり、健康状態に大きな変化がみられなかったことから、退院しても問題ないと判断したという。

 だそうです。
恙ないことを希望しつつ、しかし1999年の時から何も変わってないように思われるこの事件(事故とは言いたくないな。管理側の怠慢による人災だからね)は、相当にワタクシ共をくらい気持ちにさせる。
1999年の奴はここにキレイに纏まってますね。

東海村JCO臨界事故 - Wikipedia

 

みんなこの事件のことを「バケツでウラン」と何だか気軽に呼称したけど、実際はとても悲惨で悲しい話だった。細胞の再生ができなくなった人間が最後にはどうなるかということが、多くの人には想像できていなかったのかも知れない。助からないと思ってたボクも、最終局面の悲惨さはちゃんと想像できていなかった。そうだよね、安楽死させてもらえないならこうなるよね(記事中の心停止後に救命処置をして蘇生させたという下りは、いまの医療のルールは平時の倫理観向けのものでしかない事もついでにむき出しにしていたよ)。
google検索に「バケツで」までを入れると、補完候補として「バケツでウラン」が今現在2番目に表示される。昔の事を覚えている人が当時のキーワードで検索したということなんだろうけど、なぜだかGoogleトレンドでは出てこない。事件直後は補完候補1番だった気もするのと合わせて非常に解せない...という先は陰謀論になるので止めておいて、記録に残しておきたい事に向かいます。


1999年の時、Wikipediaにあるとおり

現地では事故現場から半径350m以内の住民約40世帯への避難要請、500m以内の住民への避難勧告、10km以内の住民10万世帯(約31万人)への屋内退避および換気装置停止の呼びかけ、現場周辺の県道、国道、常磐自動車道の閉鎖
 

が行われたのだけど、その閉鎖のまえに情報を得ていた某社従業員の家族はすでに現地を脱していたのだそうだ。だそうだ、というのはホップ数1で聞いた話だから。

家族だけでも逃がそうという「普通の人」の感覚も判んなくはないけど、そういう「普通の人」達に原子力を扱って欲しくはないな。それが1999年に思ったことで、そこから18年。自分の家族がその場にいても、もしくは自分の家族が作業をしたとしても絶対に安全、そういうオペレーションを組み立てようというマインドは依然として醸成されてないんだというのが今回思ったこと。ワタシ達はアレのように巨大で、厳密で、場合によっては人がシぬ物や事には向いてないのだろうな、と。戦略思考が足りないのも、セオリーを無視するのも、何か根本的に足りないところがあるんだろうな、と。それは明日のネタ、情報統制という本へのコメントに続く。




追記
屋内退避というとジャガイモ袋のことが思い出され、ついでに同時上映の主題曲、walking in the airまで脳内再生されたりして。おや、すでに30年余りが経っているのだねえ。早くお迎えが来ますように。