septiembreokbj’s blog

記録と備忘録、および手掛かり。

言論統制

言論の自由がとか、政府の統制がとか言われる際に、引きあいに出されがちなのが「戦時中の言論統制」のことだ。すごく精密な官僚機構が戦争遂行のために、言論人や出版社、報道機関、そして個人を押しつぶした時代として専ら語られ、自分自身もそんなものなのだ、と思い込んでいた。言論統制の前線に立ち、言論人から小ヒムラーと呼ばれた情報局情報官・鈴木庫三少佐を通じて戦時体制下の言論統制について述べたこの本を買ったのも、その辺りの知識の補強のため、くらいの積もりだった。

 

言論統制|新書|中央公論新社

 

鈴木庫三といえば、清沢洌に「日本思想界の独裁者」と断じられた事など(これについては後ほど)、言論統制の代名詞であり専横を極めた軍人くらいの認識しかなかったので、本書はかなりインパクトがあった。もちろん「オレって何も知らなかったのね」系のインパクトです。
国防国家構築のための教育改革、そのために行われた思想戦、それが言論統制ということだったという所にまず驚きがある。戦争遂行のための人々を束ねるツールの1つだと長年思い込んでいたのだけど、もっと長いスパンのことを考えていたのだね、少なくとも言論統制の代名詞として知られる鈴木庫三は。
軍(※)というのは戦争という行為における矛and/or盾を責任範囲とする実施組織であって、どこに矛を向けるかという意志を持つものでは無いし、ましてや社会を改革する意志というのは軍に存在してはならないものなのだけど、満州事変などと同様、ここでも組織の根幹をはみ出す個人(あ、もちろん複数形もアリね)の意志の発露を見ることができる。そしてさらに面白いのが、その鈴木庫三は軍自体とも断絶があり、海軍に、陸大卒のエリートに、反感を持っていて、二重の意味で軍の則に抵触している(226と地続きなんだね。本人も226に共感していたようだし)。では鈴木自身の立ち位置はどうなのかというと、本書によれば自らを教育者と任じていたのでした。うむむ、成る程。

(※軍政/軍令の関係は判ってるつもりで、しかしそれでもそれらの上位存在として軍という理念というか、目的と枠組みがあるはずです。もちろん、そのフレームを守れなかったところが旧軍の致命的な欠陥ですよね)

 

その鈴木庫三が軍の代表として、言論統制の悪を一身に背負って戦後貶され続けたのは大いに皮肉なことだ。と言って、鈴木庫三の 思想 が現代に通じるものがあったとか、そこには見るべきものがあった、などという気も全く無い(人間性は別よ。あー、でも仲良くは出来そうもないな。相性ってあるからね)。鈴木庫三の思想を突き詰めれば、平等で、清潔で、人情味があって、誰にでも判る素朴な趣味を礼賛する、ファシズムということになる。なぜそんな思想を持つようになったのかという彼固有の事情は理解するけれども、それで国(当時の思想には「社会」というあいまいな括りはなかったのだね)が良くなる事は到底ありえない。みんなが頭を使わなくなってしまう社会に発展は無いよね。ただその思想の是非はおいて、彼は熱心な教育者として(!!)、国を良くするための活動に邁進していたのだという構図は、言論統制という言葉についてワタシが思っていたイメージと、つまり後年の批判とあまりにもかけ離れている。


そしてもう1つ。上記のような思想を時局の力も借りて、高圧的に周りに広めようとすると(何しろ本人は良いことだと思ってるからね)、当然だが軋轢も起きる。とはいえ相手は軍だから長いものに捲かれなきゃやってられないし、中には本当に良いことだと思う人も出てくるだろう。そうして多くの言論人・出版人が戦争協力者となったこと自体はとても自然なことだ。面従腹背(2017年6月現在、突如流行ってるね)も生き抜くためには必要だ。でも、過去の改ざんはだめだろう。これについて本書では多くのページがさかれている。時局に迎合した言論人、出版社、つまり当時の日本で普通であったその筋の戦争協力者が、戦後になって自らの過去を糊塗するための依り代として鈴木庫三は用いられたのだという。
弾圧者の悪名が高ければ高いほど、それと対決した言論人、出版人は偉いことになる。本書ではそれらの「逸話」が事実と異なることを資料を元に明らかにしている。世の中が変わると同時に自分が行った事を消そうとする浅ましさは、人間の限界を伝えていてとてもタノシイ。もちろんその浅ましさは今現在まで続いている。本当に信じていたのであっても、面従腹背であっても、そもそも腹など持たず単に状況に流されていたのであっても(こっちは悪の凡庸さについての報告へと続くルートだね)、やったことの軽重はかわらない。それを判らない浅ましさというのは今日に特有のことなのではなくて、70年あまり昔であって同様に存在していたのだね。人間だものね。


等という具合に、本書は思想的にはアレだけど人間としては割合に上等な人と、能力や思想的には高級なんだが人間としては下等な人のコントラストで進んでいく(上等、下等はワタシの主観)。読み物としての牽引力はとても強くて、2017/2/2に最初のページを開いてから、途中よんどころない事情で中断したことを除き、最後まで一気に読み通したのだけれども、しかし自分なりの一応のまとめが出てくるまでには4ヶ月以上の時間がかかってしまった。その流れをざっくり記しておきます。


鈴木庫三の事を「日本思想界の独裁者」と断じた清沢洌は、しかしその著書である暗黒日記を読むと判る通り、出来不出来とは別として相当に鼻持ちならない古くさい自意識のオトコでもあり、なるほどあの辺の言論人のつまらなさが実証的に納得がいったなあいうスッキリ感が当初は支配的であったのだけど、そんな感傷的な纏め方ではダメだ、全然総括(!)できてないじゃないかという気持ちに段々となってきた。まあ、それはそうだね。
(ちなみに調べ直したら暗黒日記は橋川文三編じゃない圧縮版が出回ってる。 山本義彦編の全一巻本@岩波は清沢のダメなところ、鼻持ちならないところを抜いた版でない事を期待する)


ではどう読むべきか。1つには人知を越えた事象に巻き込まれた人々の運命として読むという道がある。

軍内部のパワーバランスを使った調略によって1942年4月輜重学校付けに転属、8月にはハイラルの輜重部隊連隊長に転任。鈴木はあれほど熱を入れた思想戦の現場から突如排除されてしまう。鈴木庫三の考えるところは国防国家の構築を目指すのであれば無下にできないものだけど、いざ太平洋戦争が始まってしまえば 教育 による準備よりも、単純な統制、統制のための統制の方が優先度が高く、地ならしが済んでしまった言論人やメディアとの関係の方が重要になってしまった、と見るべきだろうか(ただし彼の場合は、戦争の進展と関係無く、いずれ用済みになったであろうとも思われるが)。では言論人・出版人はどうなったか。石原莞爾が戦後マッカーサーの側近に対して「予は東条個人に恩怨なし、但し彼が戦争中言論抑圧を極度にしたるを悪む。これが日本を亡ぼした。後に来る者はこれに鑑むべきだ」と述べたように、戦中(太平洋戦争戦中)を通じて苛烈な言論抑圧が行われたが、その多くに鈴木は関わっていない。言論人・出版人は鈴木庫三を排除したことによって楽になったわけでは無く、むしろより厳しい言論統制に曝される事になった。さまざまな思惑も、相克も、すべて颶風のごとき戦争の前に等しく押し流されてしまう物語。悪くはないけど、やはり感傷的なだけだよね。


それなら話のコアを変えてみよう。鈴木の活動を疎みつつ頼ったという姿が淡く描かれている軍を主において読むのはどうだろう。なぜ疎む相手を頼ったのかといえば、代わりが居なかった(余人を持って代えがたかった)からだろうし、では何故居なかったのかといえば、軍が軍である以上、思想を持つ事が良い事ではないから。戦術、戦略ではなく思想を語る軍人というのは、自らが主人になろうとしてしまう。軍人は政治によって使われる剣であるべきなのに。でも思想が無いから、伝えるべきことも考えられない。そうすると異端であると知りつつも、思想をもった軍人を使わざるを得ないことになる。矛盾と、そこから発生する反発。書中では鈴木側からの嫌悪感のみが強調されてるけど(日記をベースにしているのだから当然なんだけど)、軍のほうだって異端者を快く思う筈がない。そういう軋轢があるなかでのクライマックスが1942年4月の転出(左遷)で、それ以後はごく一般的な、思想無き、戦争遂行のためのツールとして言論統制が行われた物語として読めないだろうか。本書では明確には語られてないけど、1940年には鈴木が所属する陸軍省情報部を包摂する情報局(俗称:内閣情報局)と大政翼賛会が発足し、プロパガンダと検閲は分業化され、かつ盛大に行われるようになっていく(1941年には花森安治大政翼賛会宣伝部に参画しているね)。それらが本格稼働するときにはもはや鈴木の居場所はなかったのかもしれない、とか。等々想像が広がった以上は、その周辺のことをもう少し調べなければならないね。そのときには軍ではなくて国のことも理解しないといけない。しまったこの道は宿題が増える道だ。でも、まあ、この本単体で完結した読み方をするのが無理だろうという気もするので、ここを起点にもう少し調べ物をするというのが、取りあえずのまとめ。


相当に発散したことを書き散らしているけど(しかも時間もダラダラかけて)、自分のサイズでアレコレ考えていくことの練習なので取り繕っても仕方が無い。そのうちにもっとすんなり考えたり、記したりができるようになることを期待しつつやっていくしかないよね。そうしていろんなことを16歳に対してわかり易く説明できるような人間になるのだ。


あ、前回の最後に宣言した宿題を達成してない。それは次のエントリで解決する予定。今日はもう寝る。