septiembreokbj’s blog

記録と備忘録、および手掛かり。

なにが肉挽き機にくべられたのか、またはどのようにワタシの世界は始まったのか

このBLOGは前にも書いたけど、君に伝えたかった事や一緒に話したかった事を書き綴るために開いたものだ。今年の2月の冒頭に家族会議を開き、いかなる宗教にも帰依することはない、魂の有無については有り、輪廻転生については判らない、という我々の基本設定を再確認している。魂があるなら、読めるか読めないかは別にして、やはり書くべきだと思っているということだね。
 
 
 
前回の続きで、結論を急がずにどうしてそう考えるのかを伝えたい。そのためにはボクの肉挽き機(※)に何を投入したか、それが何をもたらしたから書いていこう。
※挽き肉機とアンディーパートリッジの言葉の訳で使われていたけど、これは肉挽き機の誤記だよね。ちなみに巨大な肉挽き機といえばまずはWWIだ(※)。そういう話もホントはしとかなきゃいけなかったんだ。後悔不先立。
※そういうのが判らないと、例えば最近ビッグコミックで始まった「赤狩り」の話も立体感が出てこないよね。Johnny got his gunとか。
 
 
ボクの肉挽き機に突っ込まれた何かが、自分自身に与えた影響を最初に自覚したのは多分1974年だったと思う(勿論肉挽き機メタファーを理解した訳では無くて、インプットが自分を変えるという体験ということだね)。1974年というと、前年にはオイルショックノストラダムスの大予言日本沈没もあって、その更に一年前にはあさま山荘事件もあって、これでこの世も終わりだぜという雰囲気が世間に横溢している時期だったのを覚えている。もしかしたらボクがそういう風に感じただけだったのかも知れないけど、多感な9才にはそう見えたのだった。...多感というのは便利な言葉だね。筋道や基準がなくて、デタラメなパースペクティブで世界が見えていた気持ちが悪い時期というのが多分正解なんだろう。
 
たとえば当時スパイ手帳っていうのがあった(ググルと出てくるね)。1973年だと思うけど、それが欲しくて学校のそばの文房具屋さんからどうやってかっぱらおうか、店の前をグルグルしたりしたことがあった。アレはお店の人も困っただろうと思うけど、とにかく損得の尺度が定まらない(だって盗むのなんて相当に損な行為なんだよ?)、事象(という言葉ももちろん知らなかったけど)と事象の関連も、事象の大小も判らない、人間になる途中の馬鹿丸出しの年代だった。その頃は、次に何が起きるのか予見不能というか、世界は恐怖に満ちているような感覚がずっとつきまとっていた。小児精神病は大人の精神病とは違う、というのを後年知るのだけど、自分の事を振り返っても確かにそういう気がする。精神を病んでいたということではなくて、外部からの入力を躱して自分の内側に閉じこもりたい小心な子供にとって、筋道もない、予測もできない(そして論理も見当たらない)、ようするに次の瞬間に何が起きるか判らない外部世界は、家族を含めて恐怖以外の何物でもなかったのだね。好き嫌いと恐怖は別な事に注意して欲しいんだけど、何しろ世界中が得体の知れない怖さに満ち満ちていたと思う。ホント、世界は根拠のないスライスの連続のような感じだったんだ。怖いでしょ?


そういう小学校中学年だから、終末感との相性の良さは半端なくて、自分がおびえるのと同じように(ホントは違うんだけど)世の人もおびえるというのは、一体感のようなもの(※)を覚えなくもなかった。でもその終末感も1974年に入ると飽きられはじめ、世の中はまた前を向こうとしていて、自分としてはなんとなく置いてきぼりをくらったような感じがあった。なんてったって、ノストラダムスの大予言の映画の同時上映は念力珍作戦だからね。暗いのに疲れたんだね。
※言っとくけど9才だから、そんな明確じゃないからね。あくまでも、只の引き籠もり志向の馬鹿小学生が感じた気分ということ。
 
そういう訳で、自分としてはまだまだ続いて欲しかった暗いお祭りにピークを過ぎる気配が出てきたころに、家の本棚に発見したのがこれだった。
 

頭の悪い奴は損をする―ユダヤ流・金戦の哲学 (ベストセラーシリーズ〈ワニの本〉) | 藤田 田 |本 | 通販 | Amazon

 

ちなみにこの本は「Den Fujitaの商法」というシリーズの一部として、加筆版(※)がいまだに入手可能だ。こっちの方は「より成功した」筆者のバイアスが掛かっていて、今一つ新鮮味に欠けるが、それでもコレは読むべき時(!)に、読まれるべきものだと思う。時期が来て目が塞がっちゃうと、何が書いてるのかが判らなくなるところがある本だからね。
※いや、加筆・訂正版だね。トルコとあった箇所がソープランドに変わっていたのは確認したから、少なくとも一箇所は訂正しているな。

 
ある人などは、これはお金儲けの本であって、ワタシはお金儲けとか嫌いだから、という理由でページをめくるのが苦痛だったのだそうだ。「お金」が人間社会に取って欠くべからざるものであるのは間違い無いので(善だとは言ってない、仕掛けとして必要だと言ってるだけ。そういう所も誤読する人が多いので君も気をつけるべきだ)、お金を儲けを目論む人の思考を知るだけでも十分に面白いと思うのだが、自分と関係ないと言ってシャッターを下ろしちゃうところがそれもまた人間で面白い。ま、それを面白いと思うのはボクの業だけど、それについてはまた今度として、くだんの人も、読むべき時に読めてればな、と思わないでもない。
 
ともあれ「藤田 田(デンと発音してください)」だ。マクドナルドを日本に引っ張ってきた人だね。ちなみにこの本には書かれてないけど、マクドナルド、という読みを発明した人でもある。原語の発音は 勿論 マクドナルドではないのだけど、それじゃ日本では流行らないということで「日本語的に馴染みやすい3・3の韻になるよう」にアメリカ本社の反対を押し切って、そう決めたのだそうだ。このエピソードは1974年に9才の小学生がやられたのと同じ構造だ。

 
ではその年、ボクは何にやられたのか。もちろんお金持ちになりたいと思ったわけではない(孫正義は思ったらしいが、残念ながらボクはそのときはまだお金に困っていなかったのだった。父親が破産して失踪した、小学校も卒業直前の頃に読んだのなら、この本自体がモチベーションの中心になったのかもしれないけど、それはまた別の人生だ)。この本にはHowだけじゃなくて、WhatもWhyもあった。そしてそのHowは小学生にも判る明快さで書かれており、Whatは世界をどういう単位で切り分ければ良いかを述べており、Whyには一貫性があり、しかもその一貫性を支えるより大きな体系があることがうっすらと判る様な感じがあったのだ。そこにやられた。
ハズカシサを承知で書けば(何と言ってもこれは君への手紙なので、少々のハズカシサは構わないのだ)、この本には世界を恐怖からすくい上げるための理由と考え方と方法が書かれていたのだ。勿論そこまで明確に9才が思ったわけはないんだけど、この本を読んで大変に気が楽になったのを覚えている。世界は判るし変えられるかも知れないんだ、と生まれて初めて思った。
それまでは世界は自分を嵌め込む場所だと思っていた。ピンクフロイドのレンガだね。でもこの本では、教科書の真逆のスタイルで、もっともっと考えろとこっちに呼びかけてるようだった。覚えて出来る様になれ、じゃないんだ。頭を使え、考えろ、判れ、判ったなら行動を変えろ、なんだ。
...全然お金儲けの本に見えないでしょ?うん、ボクにはお金儲けのHowto本には見えなかった。そうじゃなくて世界、社会及び人間に関する原理並びに諸法則の説明がメインで、それは結果的にお金儲けにも良い影響を与えられるぜ、という啓蒙書に見えたんだ。
これ以上の詳しい内容はここには書かない。霊前に供えておくので是非読んで欲しい。
 
というわけで、この本はボクの基礎を作っているものだ。原理から考える。人の考えないことを考える。勇気を持つ。なにより、頭を使う。それから忘れがちだけど、小学生にも判る様に伝える。
何しろこれらの恩恵で今日まで生きながらえてきたのだ。そんなに素晴らしい本なのにどうしてその程度なの、と聞かれそうだけど、それは高校に進むときに盛大に道を踏み外したからだけど、それもまた別のときに。ともあれ、こんな風にボクの世界は始まったのだった。
そしてその後は、ぐれたり(高校進学時の逸脱に始まるソレ)、コンピューターと出会って新しい産業の勃興期にうまく潜り込んだり、それはそれは放埒な生活を送ったり(君にはいつか言わなければならないと思いつつ言えなかった事があるのだけど、実は離婚歴があるのだ)、仕事に惑溺したりしたり、そして途中からは君と一緒に暮らすようになり、子供に後を託すこと...と言っても仕事を継げとかそんなんじゃなくて、自分と繋がっている誰かが自分が死んだ後にも残って生きていくという幸せを初めて理解したり、そういう人生を送りながらも肉挽き機も動き続けた。何時止まるかと思ったけど、ボクの肉挽き機はまだ動いている。
 
いつものことだけど、ずいぶん脱線した。なぜ大きな組織が向かないのか、ということが発端だったよね。そこに戻る努力をしよう。その違和感のきっかけは肉挽き機に突っ込んだ岩井克人の本だったんだ。次はそこからスタートしよう。
 
 
17回目の誕生日に。