all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

1/29 鬱になるということ

2/1から始まる金沢市のゴミ処理有料化について書くつもりだったのだけど(え、他のサスペンド中のネタは?)、今書いとかないといけない気持ちになったので、鬱について書く。

 

 

最近、仕事の関係でネットをブラウズしていたら、中々強烈な、でも本当にその通りというエントリを見つけた。

www.megamouth.info 

結果として、最後まであなたと会社は、彼らを退職させるに至ったワークフローや営業上の問題を知る機会がなくなるし、これを機会にそれらが改善される、ということもなくなってしまう。
あのプログラマは何かこの会社では実現できない理由で退職したのであり、我々のワークフローのせいではないと、あなたは思いたがっているし、実際思い込んでいるからだ。

しかし、退職とその代替人材の確保というコストは確実にあなたの会社の損益に影響を与えている筈である。

 

 Yes、ホントにその通り。そのような事が起きないように、「楽しい営業」さんは厳しく躾けることにしている。彼らは痛覚が鈍いから最初は何が起きているのかわからないのだけど、大丈夫、ずーっと指導を続けるとそのうちプログラマの気持ちがわかるか、それとも営業をやめるかするから。

そのようなヴァイオレントな態度をとるのはもちろん心が痛むのだけど(しかしその痛みは、第三者にまで恐ろしい人だと思われてしまうという自分のパブリックイメージの低下を主たる原因とするのだけど)、プログラマが消耗したら取返しがつかない以上、やることはやらねばならない。そしてもう一つ、誰も助けてくれなかった2003年の自分への埋め合わせも幾分あるような気がしている。詳細は書かないけど、その年に超大型のデスマーチが発生し、それを社内、社外の営業がよってたかって更に加速させて、その結果アタシは鬱で倒れることになったのだった。

 

鬱に至る道は、多くの人が想像するようなシンプルなものではない。そもそも機序も確定していない病だ。過労、各種のストレス、アルコール、日照量(!)などはよく知られているけど、例えばゴールに着くというのがヤヴァイというのを知っているだろうか。病からの回復過程で読んだ本に、奥さんが死んだあと、男手一つで息子さんを育て上げられて、その息子さんが学校を卒業した途端、鬱が発症したという人のエピソードが載っていた。ゴールにたどり着いていきなり全力疾走をやめるだけでも、人間は焼き付くことがあるのだ。だから

鬱の人に共通の特徴として、『プライドが高い』というのがあると感じています。
自己肯定に必要なハードルを下げることができない。

のような妄言を見ると、どうにも血が沸騰する。お前は医者か?何人患者を診たのだ?安全サイドから好き勝手言ってんじゃねえぞ、と。

 

原因はさておき、アタシに起きたことはこうだ。2003年末の休みに入ると同時に身体に不調が発生し、年明けから起きられなくなり、その後四ヶ月は寝たきり、抗うつ剤をとりあえず抜くかとなったのがそれから二年後だった(でもパキシルは合わなかったな。希死念慮が出て、オーバードーズして死ぬかと思った。今は注意事項に書かれてるようだね)。そのおかしくなり始めの正月の写真が、今も部屋の中に飾られているのは皮肉だ。そこにはいなくなってしまった息子の笑っている姿が写っているからだ。いや、またドリフトした。

 

鬱は、しんどい。考える力もなくなるし、感情もどんよりとしたまま固定されてしまう。悪いことばかり考え続けるとか、そういうのですらない。考えられないのに、感情もないのに、嫌な気持ちになったときの脳内物質の状況(焦燥感とか、離人感とか、何をやっても必ず駄目になるという確信とか)だけが再現されるというのは、やってみると判るけど、本当にしんどい。

幸い途中でチェンジした薬は良く効き、4月の終わりくらいまで夜も昼もなく眠り続けた、ように思う。そして眠気が幾分薄れたと思ったころ、思考も、感情も、適切に動作している頭が作り出している 状況 なのだということが突如諒解されたのだった。何らかの理由で頭が止まってしまって、人間としての活動(思考、感情など)が出来なくなる病、つまり頭が悪くなる病なのだという事が、誰がなんと言おうと間違いなのない事実なのだという確信が発生したのだ、本当に突然。そして、そこから回復が始まった。

少しずつ頭が動くようになり、鬱に対する知識を遅まきながら仕入れるのと、「鬱になった自分」の観察をするうちに夏になっていた。そのころには、抗うつ剤も、安定剤も、頭を休める(より正確には、動かそうとする意識的・無意識的な企みの一切をくじく)ためのもので、アレを飲んで頭がぼーっとするというのは当たり前、ぼーっとさせてる間に脳が復旧するのだ、という気持ちになっていた。絶対臥褥の森田療法(これもその時に知った)も、ポイントは頭が動いてしまうのを止めるところにあるのであって、薬の有無は些末な話なのだと体験的に思っている。

と書いて、間違いがあったらやだなと調べたら(でもwikipediaだけど)、なんと最近は森田療法でも薬を使うことがあるそうです。我が意を得たり。

森田療法 - Wikipedia

 

そのうちに会社に戻り、そして社内の様々な部署を転々とし、bogusなsagaをいくつも残すことになるのだけどそれは別の話だ。さて、アタシはなぜこんな話を書いてるのだっけ。

そうそう、それは先に挙げたmegamouthさんがBLOGを閉店されるという記事をアップされたからのだった(読者になって一週間も経っていないというのに)。

www.megamouth.info 

他のエントリを見ると鬱で大変ということが記されており、そうなんだよ、鬱は大変なんだよという連帯を表明するために、このエントリを書きました。そうなった理由は様々、治り方も、その後に残る不可逆な影響(アタシにも、ある)も、やはり様々。でも、みんな大変。

という事で、自分の時にはこうでしたというのを連帯の証として記してみました。

 

まだ鬱になったことがないという人に向けては、ならない方が絶対にいいです、とだけ申し上げておきます。なりそうで心配、という場合には予防薬としてこれを推薦しておきます(〈増補改訂 第2版〉のほう)。

いやな気分よ、さようなら/星和書店

なっちゃってから読んでも間に合いません、少なくとも回復を早めるのに役立ちません。なんとなれば鬱は頭が悪くなる病なので、その最中は本なんか読めないのです...。

 

 

明日こそ金沢市のゴミ処理有料化ネタを何とかアップしたいと思っていますが...。

  

 

 

(1/30 追記)

そのうち「最良のビジネス書もしくは自己啓発書として読む『いやな気分よ、さようなら』」という記事を書くべきという天啓を得る。確かに、そうだ。なんで今まで気がつかなかったんだろう。