という映画を途中からみる。帰宅したときに家人がAmazonPrimeでみていたのだ。
半ばからではあるのものの、画面は目を捉えてはなさず、結局最後までTVディスプレイのまえに座りづめとなる。そのあとで映画評を探してみると退屈などという声もあり、なるほど人間はやはり千差万別であるねえと思う。まあ、すべての人間と友達になる必要はないのであって、違う人の存在を許容することができればそれで良いのである。そういう反応もOKじゃないか。ボクは多様性のある世の中に暮らす、平和が好きな平凡な男だ。
しかし、この映画を退屈と思う奴は友達にはなれないな。
もしかしたら見損ねた冒頭30分に、その人が退屈と決めてしまったすべてが詰まっていたのかもしれないけど、でも、その後の一時間は間然とするとこが無かったぜ?
強いて言うならミッテランの時代よりも新しい車が平然と出ていて(というか、ほぼ車は撮影時の2012年のものをひねらずに出してるな)、その乱暴さに驚かされはしたが、しかしそれもフランス映画っぽいような気がする。ディテールが作り込まれないと映画として成立しないと君たちは思っているかもしれないけど、それって見る側の想像力のツボを制作者の君たちが判っていないだけじゃ無いの? とか何とか、そんな主張が聞こえてくるような気がしませんか?
アタシだけ?
8/9 追記:
そうだ、フランスはAlphavilleの国だった。「元気です、ありがとう、どうぞ」。
Alphavilleについてはどこかで別に書くことにして、アレが映画史の一コマになっている土壌だ。ミッテラン時代に2012年の車が出ているくらい何ほどの事があろうとフランス人は思っているに違いない。...ホントかな? 映画の種類にもよるけどね。
その後、件の大統領のモデルであるミッテランさんのことをWikipediaで調べ、いつものごとく横にドリフトしていき、ルワンダ大虐殺のページに長期滞在し、不思議なルートで元フランス大統領であるジスカールデスタンさんのページにたどり着く。
なんと、1926年2月2日のお生まれである第20代フランス大統領(1974-1981)のヴァレリー・マリー・ルネ・ジョルジュ=ジスカール・デスタンさんは、今なおご存命なのであった。92歳は、まだ不思議の域には達してないお年ではあるのだが、もうお亡くなりになったものだとばかり思っていたので、アレ、まだだったの? と。
それで今日はもういいかな、という気分なり、ようやくWikipedia沼の脱出となる。
その後、読み進めている某書をちょっとだけ眺めてから就寝。この本については次回のエントリで記す。
大統領の料理人は大変に素晴らしかったのだけど、最初の30分は見直さないままで行こうと決心する。
解決されない謎、というほど大げさなものでもないけど、そういうのもあって良いじゃないか。
追記2
日記を書いている最中にトレーラーを見た。
うーん、これはひどい。このトレーラーの延長線上の映画を期待して見た人は、多分暴れるのではないか?
退屈、と断じたひとを一概には責められない。
それともこの手の映画を小屋で見る人は、トレーラーがどのくらい嘘をつくかというのを楽しむ度量が求められるのか?
そりゃ映画が衰退するわけだ。