Amzonで書籍を探索していたらフェミニズムの海に突入してしまって、そこでいろいろ考えることがあったので備忘録を残す。
「男と比べたときの不利益を解消しようという運動」は判る。うん、だれだって不利益はいやだ。
「男と比べたときの不公平を解消しようという運動」は、しかしそれに賛同することは難しい。不公平というのは二者間の差異のことだ。さて差異は解消されるべきなのか?
違うことはわかる。しかし、その差異はどこまで縮めればよいのか?そこにどれだけのコストを使うべきなのか?言い換えればその距離に対してどのような意味を付けるのかというプロセスが必ず必要になってくる。だれが、どうやって?そしてそれは紅眼と違うということをどうやって証するの?
であるので、本当に解決がしたいのなら、不利益にしぼって是正を図るのが一般的だ。民事の裁判を見よ!それが蓄積されるうちに、事後ではなく事前に不利益の発生を回避するように仕掛けも、社会も変わっていき、そのうちに各個人までが変容をせまられるようになる。
不公平=悪という図式は一見もっともなように見えて、実は根深く悪辣だと思っている。例えば紅眼からの誣告によって人が大量に死んだ1960年代の某国では差異は悪であり、故に教養もまた悪だった。不公平を解消しようという言葉を聞くたびに、紅衛兵に殺されて湖に放り込まれた老舎のことを思い出す。不公平は状態でしかない。故に不公平が悪なのは看過できない不利益があるときに限られるべきであって、何を、どれだけ損したかという視座で語るしかないのだ。
不公平は不利益を生む一つの要因であることは間違いない。けれどもすべての不公平が看過しがたい不利益を生むというのは当然に間違っている。あまりにもナイーブ*1だというしかない誤謬だ。計量可能な、そして補償を求めることが可能な、不利益という形式で語るべきなのだ。
なんだけど、Amazonに並んでいた書籍は不公平の解消がしたい人が多数派に見えてしまった。
もしかしたら本はそういう内容じゃないのかもしれないけど、少なくともレビューはそういうのが多数派で、フェミ本に関してはレビュー止めた方が得なんじゃないのかと思ってみたりした。
こんな人たちが喜んで読む本とは...。
お金と時間があれば、わざわざナイーブな人たちが好き好む本を読んでみるという倒錯した娯楽もあるのかもしれない、と思ってみたりすることは可能だが、しかしそれは。
そしてレビューからは、より重要なもう一つの懸念が浮上してくる。「これ(男中心主義の社会とか)さえ倒せば」と考えているんじゃないかということだ。
ある本のレビューにこんな一節があって、ちょっとびっくりした。
男中心の社会で脊髄反射的に男に忖度したりルッキズムに翻弄されたり、無知な若い女を演じてしまった過去の自分も炙り出された。
この人がどんな意図でこれを書いたのかよくわかんないんだけど、権力*2というものと自分との関係について自覚的になったということなのか、それとも「男中心の社会」というものがわたしをスポイルしていたということなのか。
前者の道の果てに、男女間だけではなく、さまざまな形の権力とどのように付き合っていくか(権力が無くせると思うのはとても、とてもナイーブな事だ)、それが見えてくるのだとすると美しい。しかし本当にそうなのか?
わたしをスポイルしていたもの、そしてスポイルされていたわたし、それらを理解したのだから、それを倒せば全きわたしになれる、という後者の立場だったりしないのか?
なんと失礼なことを、と自分でも思う。しかし。
例えば脱コル。
自由というのは愚行権の事だと信じて疑わないのであって*3、よって愚行権の中で説明可能なのであれば、それはお好きにおやんなさいという事柄であるのは間違いない。たとえそれが実際に愚かであろうと、なかろうと、それは他人がどうこう言うべき話ではない。
そういう立場からすると、脱コル、どうぞご自由におやんなさいとしかならない。ただしそれは個人の好みの問題でしかないのであって、それを他人に強要するのは他人の愚行権の侵害であって、つまりそれは悪でしかない。
少なくとも脱コルが「正しい」ことだという証明を見たことはないー党派性に基づく政治的な言説(これもまた権力)を「正しい」というナイーブな、または悪辣なものを除いては*4。であれば、あれは自由の範囲にしかない主張だ。神聖な愚行権を停止すべき謂われなどない。
という訳で、わたしの中で脱コルは「造反有理」という言葉となんとなく地続きになっている。あれはきっとフェミニズムの紅衛兵なのだ。
おっと脱線した。
という訳で、紅衛兵が多数いると判っている状況なので、先に挙げた一節を、権力との向き合い方をより健全にするという立場の表明だとすなおに信じられないのだ。
そうあって欲しいと思っているのだけどね。
ということで、本日の雑感の締めくくりに向かう。
そろそろフェミニズムは名前を変える時期がきてるんだろうな、と思う。
このままだと「男社会を倒して終わり」というだけの運動になりかねないという危惧があるからだ。
そんなしょぼい活動だったの?ちがうよね?*5
「全きわたし」も、「他人に踏みつけられることがないわたし」も、本当のところでは全く信じていないワタシであるが、それでも無限遠にそれをおいて、そこに至る過程として権力との関係を進化させていくという遠大な話だと思っているわけです、フェミニズムのことは。
であれば、重要であるけれども出だしの問題である(でしかない)「女性であることの不利益の解消」を離れて、もっと多くの人をインクルージョンできる名前にすりゃいいのにな、と。
それともフェミニズムという名前は居心地がいいんでしょうか?
うーん、あたらしい調査タスクをしょってしまったかも。
追記1
スコプツィという言葉を思い出してしまった。ここは発想の飛躍だけど、フェミ*6は一歩間違うとスコプツィみたいな事になりかねない気がするので。
こんなのどこで頭にいれたんだろう?澁澤か、そうかも。
そしてその延長として「滅びてしもう教」という宗教が出てくる(宗教?)という短編小説の事まで思い出してしまった。そしてその小説が入っている本が、いつのまにか本棚から消えていることに気がついてしまった。いったいどこに行ったんだ?
追記2
「性差別主義者としての自分」を断罪することでフェミニズムにすりよろうとしている男性の薄汚さというのはなんとかならんのだろうか。
いや、薄汚さというよりは野蛮のほうが適切か。
特定の問題を終端させるのではなく、問題の構造を無効化するという視座。その昔に岩谷宏*7がイライラしていたのは、たとえばこう言う視座が欠落している事にむけられていたのだろうか。
最近岩谷宏のことをよく思い出す。あのとき判らなかったことが、今なら判る気がするのだー彼の言ってたことをただ飲み込むというのではなくて、受け止めて、咀嚼して、是非の判別できると思うのだ。いまさら岩谷宏選集なんて出ないだろうし、さてどうやって読めばよいのだろうか。うーむ。
追記3
上野御大、いよいよボケてきてるかな。
それとももう時間がないから焼き畑をする気になったのか。
どちらにせよ、宣伝文で暴言はくのやめてくれないかな。フェミニズムのじゃまにしかならないよ。
まさか上野御大がフェミニズムの邪魔をすると思う日がくるなんて。
驚きよりも、一つの時代のおわりをみてるのだなという感慨の方が強いね。