all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

2017/07/13

言ってることは判んなくはない。判んなくは無いのだが、えび千両ちらしが悲しくなったのも、結局こういうことの結果なのだ。

 

東京と金沢を行き来する生活を二十年以上続けている間のどこかでえび千両ちらしがうまいということを知った。知ったからには家族に食べさせてたい。その頃は日によって有ったり無かったりするえび千両ちらしが、たまさか家族の人数分あったときは喜び勇んで買って帰ったものだ。最初に子供に食べさせたときのビックリした顔。それを見たさに何回か買って帰った。
それをしなくなったのは、出したときに嬉しい顔をしなくなったから。まあ、子供にも判ったんだね。変わっちゃったのが。そもそもご飯が違うもの。
 
食べ物屋さんは基本的にはスケールしない商売で、レシピがあろうが基本は一代、もしスケールするならそれはindustryだってのがウチ(当家と書いてウチと読む)の考え方です(老舗は、一代の連続と捉える教義)。新発田三新軒が食べ物屋さんからindustryに転身するところにちょうど出っくわしたのが我が身の不幸であって、新発田三新軒からすれば大きなお世話だ、商売繁盛文句有るかということだと思う。そりゃそうだ。でも思い出がいろいろある一個人としては、もう一度昔のが食べたいな、と切に思う。東京出荷用と現地用では味が違ったりしないかね。どこかに行くと、昔のままのアレを売ってたりしないかね。それを子供ともう一度一緒に食べたいと心底思う。
 
もちろんそんな事は不可能であって、エントロピーは増大する一方であって、宇宙が終わるときまで待ってもあり得ないのだけどね。いや、昔のえび千両ちらしを食べることはもしかしたら...。
ま、妄執ですな。世界は全てが繋がっているので、何をみても子供のことに繋がる。そうしてどんどんねじれていくのです。

 

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