all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

9/22 エンドウ豆の上に寝たお姫さま

ご存じの方も多いと思うが、エンドウ豆の上に寝たお姫さま というお話がある。

エンドウ豆の上に寝たお姫さま - Wikipedia

 

割と顰蹙を買っているらしく、上掲wikipediaにも

本作品は刊行直後にはよい評価を得ることができなかった 

 

また、ある雑誌に載った批評では「品がないばかりでなく、高貴な女性はすべてこのように過敏であるという誤った印象を子どもに与えてしまう」と評された。 

 

とあるし、ドイツの人が書いた記事によれば今なおFuckな人の代名詞である模様。

ja.myecom.net

このエピソードから、どんな小さい豆でも邪魔に感じる人は「Eine Prinzessin auf der Erbse sein」と言われます。すなわち、どれだけ良いものがあっても文句ばっかり言っている人に対する呼び方です。 

 

 

 

なるほど。邪魔かどうかは主観だよね。エンドウ豆姫はたちの悪い主観の持ち主ということなんだ。でも邪魔ではなくて、違いとか、違和感というものならどうなのだろう。違いが判ってしまう人はみんなFuckerと呼ばれなくてはならないのかな?判ってても黙ってろということなのか、それとも判るということ自体が悪なのか、はたまた主張の仕方を問われてるのか(相手の気持ちを慮れ、と)。
主張の仕方を問題にしているなら判る。でもそれって、その口の利き方は無いダロ、という話であってエンドウ豆姫が引きあいに出される筋合いじゃない。なあ、そうだろ、ドイツの人よ。やはり判るということ自体に関わる問題が横たわっているとしか思えないのだ。でも繰り返すけど、判る、判ってしまう、ということは不可避なのであって、判んない人が何を言おうと、判ってしまった こと 自体は変わらないのだ。

 

こんな話がある。
二階のある部屋のフローリングが最近たわむ気がする。経年変化による範囲を超えて、もう少し余計に沈み込むような、踏み込んだ足にかける体重に応じて床にねじれが生じるような。家族の中で一人だけ、そんな違和感を覚えている男がいた。残りの家族は、古い家なんだからそんなものだ、とか、もう十年も前から同じ感じだ、等と言って、男の細かさ(細かさと繊細さは違うと思うのだが)故の錯覚にしようとする。男としては非常に心外で、なぜこれが判らないのかと繰り返し主張をするのだけれど、気のせい、気にしすぎと反論されてしまう。そのうちに家族が一人減り、老後の始末を前倒しに行うべく家の大規模リフォームを行うことになり、その機を捉えた男は二階の床下の確認をリフォームの一環に潜り込ませることにする。
果たせるかな、男が主張していた違和感には原因が存在した。梁にシロアリがついており、一旦床を全部落として総取っ替えを行わなければならない事が確認されたのだ。補修のために床が無くなり階下が丸見えになっている部屋を見つめて、男が思い出したことはエンドウ豆姫のことだった。判るんだから仕方ないじゃないか。

 

もちろん男はワタシの事であって、結局全ての床をめくることになり、その時点のシロアリ被害は局所的だということが確認できたのだけど、自分の違和感を棚上げにして、フローリングの床下確認を先送りにしていたらどうなっていたのか。何があったのか、考えるだに恐ろしい。

 

 

今日の結論は、こうだ。
伝え方は考えなきゃならないにせよ、判ってしまうのは仕方がないし、判ってしまうという事を持って非難されるのはお門違いだ。判ったことを伝えるのが文句に聞こえるってのはどうにも納得がいかない。エンドウ豆姫も大きなお世話だと思っているだろうし、ワタシも勿論そう思っている。

 

そしてエンドウ豆姫は、その理解者を得るところで話が終わっている。ワタシの場合は...ワタシの細やかさを諦念をもって受け入れるように、各員の一層の奮起を期待するという所かしらね。