Intermezzoから更に後退して雑記。
大変に追い込まれた状況で
わが軍の右翼は押されている。中央は崩れかけている。撤退は不可能だ。状況は最高、これより反撃する。
などと発することが出来る人はもちろん格好がよいのであるけれども(※)、そのような振る舞いを可能にするのもミッション(召命される方の奴な)なり大義なりの外部要因か、それとも信念なりの内部要因かがあればこそであって、そのようなものが一切洗い流されてしまった後でも可能なのだろうか。
※上記の文言でそのまま検索すれば、この格好いい人が誰なのかすぐみつかります。
例えば会社にアレな人がいるとする。自分では仕事をやっているつもりの、しかし実際には口ばっかりで全く成果の出ない、そのくせ暇さえあれば他人の行いをあげつらい如何にその人物が劣っているか不要であるかを声高に話し、であるのだが大通りのことを指摘する能力もないので引き合いに出せるのは誠に些細なことばかりで、自分の仕事が出来ないことに関しても、まずは状況のせいにして、次は相手のせいにして、その次はそんな難しいことを頼むほうのせいにするという、まあ見事なばかりのアレが自分に被害を与える程度の距離で会社に在籍しているとしてみよう。
去年の2/2までの自分なら、まず間違いなく、何とかすることしか考えられなかった。もちろん「何とか」というのは「潰して追い出す」とかそういう短絡的な事ではなくて、そのアレが引き起こす可能性(リスク)を洗い出して、それに応じた計画を立てるということだ。そしてみなさんご承知の通りリスクへの対応は、「回避」、「転嫁」、「軽減」、「受容」の四つに大別される。例えばここにまとめてある通り。
ただしPMI欽定訳語とちょっと違ってるね。軽減→低減、転嫁→移転、受容→保有。なんだろう、ガチ情報系とPM系で譲れない差違があるのかしら。
「アレな人」がもたらすリスク(可能性)を計り、現状取り得る選択肢の中で対策を立て、かつ予防措置が可能であればそれを講じ、ビジネスへのインパクトを抑える。そのためにも「アレな人」がどのような振る舞いをする人間なのかをプロファイリングし、その理解に努め、周辺への影響の度合い(浸透度)もアセスメントし、計画・施策の確度をあげるべくインプットしていく。そのような事が組織の維持・運営には必要なことだと信じていた。いやその必要性は、いまも信じてはいる。問題は、組織の維持・運営が自分の内発的な目的ではなくなってしまっているところにある。前はビジネスの成功というのは、そこに参加した人の集まりで分かちあうものだ、と素朴にも信じていたのだ。いや、未だに信じてはいるのだ。しかし。
septiembreokbj.hatenablog.comに書いたとおり、会社というのは契約による結びつきでしかない。それは心の底から信じている。しかしそれと同時に、仕事は、仕事と格闘するチーム(という組織)によって成し遂げられるという事も同様に信じている。だからチームの練度を上げること、チームの能力を向上させることというのは、成功のために必須だと考えて行動してきた。成功?目的を達成することだ。チームは目的達成のための道具であって、チームのために目的がある訳ではない。逆説的だが、だからこそ成功はチームで分配されなければならない。成功保証で契約をしているわけではないのだから。着手に半金、成功で半金、そこまでは言わないが、コンペティティブな仕事の場合など常に成功が待っているわけではないのだから、目的の達成は別途評価すべきだし、それが次の仕事に対するモチベーションにもなる。信賞必罰と書くときついが、功績ある者は必ず賞すべきだし、個人はチームの支援を受けて動けているのだから、成功への賞はチーム全体にも与えられるべきだ。これは未だにそう思っている。
個人として(プロフェッショナルとして)確立し、エキサイティングなチームプレーで成功を獲得し、そしてその報酬を手にする。続けられればこれほど楽しい事はない。その楽しさは、例えばヴィンランドサーガなどに詳しい。
さて視点を変える。いままでは楽しく働くための視点だ。
そして今度は、楽しく働いてもらう側の視点に立ってみる。チームを編成し、チームに働いてもらう側の立場だ。
このチームが目的に合わせたプロジェクト的なものではなく、ライン的な、定常的な組織の場合、幾分気になることがある。目的のためのチームが設定されるのではなく、チームのために目的が設定されるという倒錯が始まってしまう可能性だ(日本は倒錯に満ちあふれた国なのではないかと思うよ)。そうするとチームは結束するけれども、その外部(対会社)との間においてアノミーが発生する(YES! 部門間の派閥抗争というのはアノミーだと思っているのですよ)。
社会を会社、規範をミッション、ビジョン、経営方針と読み替えてみよう。アノミーである。チームという中間集団が固有の意思(モーメントでもいいけど)を持つことにより、「会社の規範」がないがしろにされるときに危機が訪れる。とはいえチーム無しで仕事を行うことはあり得ない。まだ、いまのところ。
ともあれ、ライン的なチームを持つ場合には「会社の規範」とチーム固有の意思に乖離が生じないような手当が必ず必要になる。各チームには政治将校を置く?もしかしたら本当にそれが答えなのかもしれない(マトリックス型組織の複数の指示系統というのは、ソヴィエトからヒントを得たのではと思ったりしなくもない。根拠のない妄想だが)。
更に退嬰的な、チームなどいらぬ、組織を機能性を軸に階層化してそれで仕事をこなしていくのだ、要員はダイレクトに組織と結合するのだ、という古くさい組織論に戻るのもありだが、いまさらそんなのでどうにかなるのはコピー機や携帯電話の販売会社程度のものだ(はっはっはっ、イチバンとかね。サイアクだ)。尚このような組織論でどうにかなると思われないためにも、非反復的な粒度の小さい仕事はスルーするなどのルールが別途必要だ。変な仕事は組織を腐らせる。まあ利益率がらみの制約を入れれば、どこかで気がつくという話もある。
というわけで、出来ればプロジェクト型の実行チームを、それが無理な場合には「会社の規範」と乖離しない仕掛けを作り込みつつライン型のチームを編成できるようにすると言うのが普通の結論なのだが、それで組織に関する問題が目出度く完了する訳ではない。組織は目的のためのツールであれば、ツールを行使する側からの使い勝手を無視する訳にはいかないからだ。
さて更に視点を変える。究極的な目的を達成するために、必要とあらばリソースすべてを動員することも許されるというポジション(以下、P)が振られてしまった場合を想像してみよう。
会社というのは自身の存続・発展を希求し、そのために活動を行う存在である。目的もミッションもビジョンももちろんある。しかしさらに根本的な目的は自身の存続・発展にある。やる事終わったら会社は解散してもいい、などと創業者が宣うことも無いではないが、それが通るなら会社ではなくて大規模個人商店に過ぎない(法人格を取るなと言いたい)。
何が言いたいかというと、「それをやったらこの会社は存続・発展するのか?」という超越的な物差し(以下、M)が用意されていて、それによって計画(経営計画、事業計画)からビジネス現業までのすべてが評価される場が会社なのだということだ。そして今仮定した視点とは、儲かったか否かだけではなく、楽しく働く・楽しく働いてもらう、ということすらMに還元評価しなくてはならない、その代わりに必要なら社内のリソースを総動員する指示も出せる、そのような立場の人のものだ(あー、総動員指示を出せるのはCEOで、単なる代表取締役社長だとちょっとアレですが。いや、会社法的には出せるのだけど、CEOが付かない代取が総動員令を出すのはガバナンス的にどうなのということです)。
そのような立場からすると、(その会社に則した)適切な計画が、(その会社のリソース内で)適切に実施されている、ということが保証されることが一番大切なことで、それ以外はまあ、趣味の範囲で、ということになる。
そうすると組織論に期待することも大いに変わってくる。
大きくはこの二つ。もちろん適切な計画策定のためのスタッフ部門は存在する前提として、情報の展開の配布と収集が適切に行える仕組みになっていれば、組織に対する期待としてはまずはOKなのだ。
ビジネス環境が変わるスピードが早くそれに対応した組織が必要だ(から計画なんかやってられない)、とか、事業の根本は赤黒なのだからそれが明確になる小集団の集合として捉えるべきだ(信者多いね)、とか、そういう突っ込みが死ぬほど来そうだが、それは
- どのくらいのスピードで計画のループを回すのか(DODAについてはすでに述べた)という問題に過ぎないのでは?
- 小集団だと赤黒がはっきりさせやすい、という論に異を唱えるつもりはない。なんと言ってもエヴィデンスがある話だから。しかし、それを万物の基本において物事を考えるべきだという説には大いに疑義がある。むしろ中間集団ごとに発生する意思の統一にどう対処するのか。
僕は地中海の水平線に打たれた巨大な疑問符だ!
ということではないのか。 保証したい性質と、それを実現する仕組みの話を混同するのが大嫌いだ。あ、また脱線した。
そのように経営層とビジネス現業の間の、情報の配布と収集を、その会社のビジネスドメインが求めるスピード(と精度)で行えるような仕掛けの担保こそ、Pが自らの組織に求めるものの大枠である。それ以上でも、それ以下でもない。
社員の成長?モチベーション?それらの実現もすべて計画のうえ実現されるべきものであって、必要ならば計画に組み込むのだ。「人が育つ組織」という言い方の暗愚さが許しがたく嫌いだ。人を育てられる人はいる。間違いない。しかし組織は人を育てられない。計画・プログラムがあり、組織(に属する個人)が実行するだけだ。計画を作らずに、組織という名のブラックボックスに丸投げをするのはただの思考停止である。
また、計画を作るということに対して、現場の想像力や自発性を縛るのかなどと難癖をつける奴は(いや、いるのよ、ホントに。口に出すかどうかは別にして)、まず持っていると主張している所の想像力なり自発性なりを、計画に従ったビジネス現業の実施に振り向けてほしいと切に願う。箸の上げ下ろしまで列挙した計画ではないのだから(ああ、一部の大企業だと作るかもね。でもそれは別の問題)。それでも力が余るなら計画への提言を、それしきでも足りないなら計画への参画をしてほしい。要はそんな力があるのなら、是非発揮してほしい、その対象を指示するからということなのだ。
...やばいな、仮定の話をしているというマスクにヒビが入りつつある。
ということで、いま気にしているのは、経営とビジネスの現場を繋ぐ、いくつかの論理変換のレイヤ をどうやって組織に設置するか、どうすると自然にやれるかということ。
よくある組織論比較。
なお、これはお笑いの例としてあげた。事業部制(プロジェクト型)...って何言ってんの?PMI(Post Merger Integrationじゃない方)のお経に毒されたアタシじゃなくても、普通にみんな嗤いそうな感じ。
もはや古典のマトリックス組織。
www.pmi.orgなどなど。
経営とビジネスの現場の変換誤差を無くすための考察は枚挙にいとまが無いが、しかしどれもしっくりこない。ライン・スタッフ制度をビジネスユニット・経営企画室として実現するというのもよくあるが(うちでもやってみたが)、これもすっきりしない。マトリックス組織も、うーん。
と、ほぼ自分の告白になってきたのだが(しかしもちろん、Pではないよ)、どのように会社組織が見えているのか(いたのか)というのは上に記したとおり。
最初にくどくどと説明したアレな人のことを気にするのをやめたのも、アレな人が見えなくなってしまったからだ。リスクが読み切れて、数字上のインパクトもわかったので「保有」を選択したという話もなくはないが、目の分解能が変わり、微細なことに反応しなくなってしまったのが本質だと思う。Mのことを気にするようになると、見えるモノが変わってくる。本当に。殊に子供を亡くして個人としての目標がすべてなくなったアタシにおいては、その変化がとても著しかったようだ。
いままでも仕事がすべてつらかった訳で無くて(苦しかったことはいっぱいあるが)、仕事を通じた自己実現や、その様を子供に見せている(つもり)ということに意義を感じていたし、なにより問題(特にテクニカルな問題)が解決するときの爽快感を心の底から楽しんでいたと思う。それを去年の2/3に失ってしまった。その気持ちは二度と戻ってこない。そして「それをやったらこの会社は存続・発展するのか?」という物差しに仕える仕事を始めた。個人の目的、目標がない男にはちょうどよい仕事だと思う。
さて、ようやく冒頭の自問について考えられる。
結論から言えば、そのような格好のよい言や、態度をとる日はアタシには二度とやってこない。アタシの仕事は、必要な人や仕掛けを明らかにして、それを準備して、適切な時と所に置くことだ。Mに仕えるとはそのようなことだ。
ほとんどの戦いの勝敗は、最初の一発が撃たれる前にすでに決まっている。
まさか本当にそんな事を思う日が来るとは思わなかったが、しかしこれが無常という事かと思う。
Mはミッションでも大義でも個人的な信念でもない。ただの(しかし超越的な)基準なのであって、アタシのようなものが仕えるのにちょうど手頃なものなのだ。少なくとも、何もやることがないよりは全然よい。これは韜晦ではない。繰り返す、これは韜晦ではない。
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いまの仕事がいやになったら、このエントリを読み直して考えるようにしよう。もう帰る道は無いのだし、そのときに新たな変転も訪れていないのなら、ココにいてソレをするしかないのだ、ということを容赦なく思い出すためにこれを書いたのだ。
機能不全な自分の面倒をみるというのは面倒なものであるなあ。