all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

9/26 永続敗戦論

amazonがしつこく勧めてくるので、今更ながらに白井聡の永続敗戦論を読んでみた。

 

たとえはTPPについて筆者は

そしてここでも、問題は「アメリカが悪い」ことではない。なぜなら、われわれはモンサントがどのような企業であるのか、十分に知ることができるからだ。軽自動車の廃止にせよ、遺伝子組み換え種子の大々的導入にせよ、米国の国益追求がそれを押し通そうと命じるのは、当然である。問題は、それを進んで受け入れ、あまつさえ積極的に手引きしようとする知的にも道義的にも低劣な人々がいること、そして彼らが指導的地位を占めていることにほかならない。

(本書、P135より引用。強調、下線はワタシ)

などと綴ったりする。こんなふうに、なにゆえにその判断がなされたのかという整理無しにいきなり「知的にも道義的にも低劣な人々がいる」と書いてしまう類いの粗雑さが本書の至るところに横溢している。

 

そのように丹念に積み上げた恣意的な情報や読み筋を土台として構築されるイメージの建造物が「永続敗戦」だ。そしてイメージでしかない「永続敗戦」が事実であるかのように、それを元に現実を説明し始めるところに至って、読み手のフラストレーションは閾値を超えることになる(だから一ヶ月ぶりにBLOGを書いた)。

 

百歩ゆずってイメージではなく、仮説なのだとしよう。しかし証明も済んでない仮説をセオリーとして使うってのはどうなのだろう。

「XXXXの観点からすると、ZZZZはYYYYと説明することができ、それは他のLLLLの事象とも極めて親和性が高い」とか、専門職としてトレーニングを受けていれば、そういう文章を書くのが礼儀だ(職業倫理は大切だよ)。では、なぜそうしなかったのか。できなかったか、それともする気がなかったのか。

読み手の結論としては、筆者の中では「永続敗戦」が事実だというところから始まっているのだろうと思われる。本書のエピローグと後書きに、拭いがたいその痕跡をみる。

まとめれば、本書は職業を学者とする人が書いた、詩人の仕事である。ショックレーの優生学ならまだしも、本業に近い領域で詩人の仕事をするというのは極めてたちが悪い。眉につばつけて読まねばならぬ本を薦めてくれるなよ、amazon...。

 

 

 

追記

  • ネトウヨというものがいるのなら、きっとそれは大いなるモノとの合一を求める渇望の表れだろう。
  • パヨク(それともリベかな?)というものがいるのなら、きっとそれは他人と違う個人でありたいという渇望の表れだろう。

この一ヶ月の夏バテ回復期間にネットのゴミを大量にあさってて、ネトウヨ、パヨ・リベについては上記のような心象を持つにいたりました。論証はおいおいだけど、どちらも承認欲求の表出の一形態というところ。パヨ・リベも? おそらく、YES。他人と違う個人でありたいと願いつつ、同じクラスタの人たちからの 連帯 を強く求めるというのが一つの根拠。

とかなんとか、政治活動(は大げさだけど)の行為の前に、それに参画する個人の心性や背景というものがあるはずなんだけど、最近そういうのって忘れられがち。永続敗戦論にむかっときた一つに、歴史的事実を取り上げつつ、人における同時代性を無視した記載を繰り広げている気持ち悪さがあった。ちょうどフロムを読み直したばかりだったので、余計に目に付いたのかも知れないけど。

あ、これは加藤陽子の「戦争まで」を読んだときの気持ちと一緒だ。そうか、そういう目線か。そりゃいらつくわ。

 

そしていつものごとく、明後日な方向に着地して本稿は終わる。

 

どうしてamazonが永続敗戦論を勧めてきたか、だ。

リハビリ中のネット探訪は、ブラウザをプライベートモードにしてやってたつもりだったんだけど、どこかでノーマルモードで見てた時があったのかねえ。それがamazonに嗅ぎつけられて、永続敗戦論のご推薦と相成ったのかねえ。だんだんそんな気がしてきた。

 

そういう事のほうがよっぽど怖いし、切実な課題だよ、と言い切ってしまうのはどうかと思いつつ、しかしそれが気になって仕方がないというリアルを無視するわけにもいかない。

そういうのが2018年なのだなあ、と記して本日は終わり。

じゃ、会社行くか。