年に一度のDavid Bowieからの贈り物、2015年からスタートした年代別ボックスセットのリリースが今年も行われた。
第四弾である今回は、暗黒期である1983-1988の棚卸し、アルバム的にはLet's DanceからNever Let Me Downまで、一作ごとに「コレジャナイ」感が高まっていくという実に切ない時期の全マテリアルのボックス化だ。これの宣伝を目にするだけで、アルバムが出るたびにがっくりきていた当時の気持ちが甦ってきた。ベルリン三部作をもう一度とは言わないけど、さすがにこれは無いのでは、と何度思ったことか。
とはいえ、ファンである以上はボックスセットフルコンプは免れないところであって、暗黒期だからといってえり好みは言ってられない。
予約しました。
届きました。
聴きたおしました。
Bowie自身による封印から30年(※)、こちらのウラミもずいぶん風化しており、ようやくこの時期のBowieを自分なりに整理することができたよ! というのが本日のエントリ。ただし、いつものごとく書いていると何万字も費やしてしまいそうなので(ファンの愛とはそのようなものです)、サバサバと、乱暴に、思考の記録を残す事にする。
※ティン・マシーン - Wikipediaにあるとおり、1988年にTin Machineを結成することによって"Daviw Bowie"を封印しようとする。そこから数えて早30年なのである。
(結論)
- Bowieは「ただの天才」である。
素晴らしい曲を書き、最高のパフォーマンスを行うことができるだけではなく、"David Bowie"というメタキャラクター(※)を運用して、それらをアートフォームに変容させることすらやってのける。
ワタシを含めて、ファンはみんなそう思っている(ホントかな?)、彼は、最高だ。
※メタルールを自ら生成し、それによって駆動されるアーティストと言い換えてもよい。 - でも「ただの天才」なので、ordinary peopleが求めるものが基本的には文化的消費財でしかない事、自分が大衆の消費財に徹しきれない事を認められない。
少なくとも、この時期はまだ認めることができない(できていない)。
なお、消費財に徹したくない、ではない事に注意しよう。 - この暗黒期は、望外の大成功から、その認識の矛盾がBowieに突きつけられるまでの5年間とみる。正にRaise and fall of な Five Years!
その自己矛盾に耐えきれず、封印が行われる事になる。 - Let's Danceの成功に端を発する混乱と、自己認識の旅は、1993年のBlack Tie Whie Noise発表までの10年を一つのつながりとして見るべき。
そして1993年にカムバックしたとき、Bowieは上記の問題構造を理解していたと思われる。何となれば、以後の作品において、Never Let Me Downのような混乱は見受けられないからだ(Never Let Me Downにおける混乱については後述)。隠遁の五年間のうちに、David Bowieは”David Bowie”との再統合を果たしたのだと見る。故に以後の彼は、ordinary peopleに向けての”David Bowie"の押し売りをしていない。
(ブレイクダウン)
- 「売れる事と、"David Bowie"への理解と受容を深める事の両立」が、Bowieの基本的な活動姿勢である。
「棺を蓋いて事定まる」 David JonesがDavid Bowieになってからの全活動を、この曖昧な時期を除いて俯瞰すると、「売れる事と、”David Bowie”への理解と受容を深める事の両立」を一貫して追い求める姿勢が浮かび上がってくる。彼は売れると同時に愛されたがっていたのだ。しかも"David Bowie"の理解と受容を求める態度は、時間軸方向に単調増加している。とすれば、よほどの根拠が無い限り、この暗黒期においても同じ方針が堅持されていたと考えるのが健全だ。
- Let's Danceは、キャリア上の特異点でしかない。
と書くと多くのファンを敵に回しそうだけど、やはりあれは特殊な出来事と思うべきで、一回きりの(一括きりしか使えない)コンセプトと方法論で獲得したNo.1(アメリカでは最高4位だけど)だ。
プロデューサーのナイル・ロジャースはNo.1はNo.1だと言うとだろうけど(アメリカでは最高4位だけど)、”David Bowie”が受け入れられたのではなくて、あくまでも作品が取ったNo.1(アメリカでは最高4位だけど)だということが重要なのだ。 - Tonightは、Let's Danceの成功によって増加したファン(="David Bowie"を受容した人々)の数を過大評価する中で作られた。
このときBowieは、"David Bowie"がようやくacceptされたと思ったのではないか?
Oh No! Bowieがそんな思い上がりからの間違いをするなんて!
でも、Tonight全編を包んでいるぬるさは、ついに愛を得たと思った男の幸福感によるものなのではないか?佳曲、Loving The Alienは、実は"David Bowie"を愛することについての歌だったりしないか。
その幸せぼけは、1986年のAbsolute Beginnersまで続く。 - Never Let Me Downは、愛されたはずの自分のアルバム、Tonightのセールスが想定を下回った事に対する悲鳴だ。
この暗黒期に本当の意味でダメなのはNever Let Me Downしかない。Bowieはいつも通り「売れる事と、"David Bowie"への理解と受容を深める事」を希求しつつも、そのバランスは「売れる事」に傾いていたと見る。「"David Bowie"は、それでも万人にacceptされるはずだ」という希望的観測の裏付けは、数でなければならないから。
しかも、不幸なことにNever Let Me Downの各楽曲は比較的ストレートなものであり、やれる事と言えば "調整" しかなかった。その結果、味方である筈のファン(と批評家)が、安易、陳腐、凡庸と罵るアルバムができあがる。そこに見られるのは、愛されたはずなのに数字に出てこない、そんな筈はない、という混乱だ。「"David Bowie"という原液の希釈率さえ適切に調整すれば、もう一度なんとかなる筈」という悲鳴は、しかしファンの大反発を招き、そして消費者からもスルーされる。
...はい、ここは完全にファンの妄想です。でも、そうじゃないと歴史上の他の出来事(パーツ)が上手く図柄に収まらない。この時、Bowieが万人から愛される事について執着し、その不可能性から混乱していた、という構造を想定しないとつじつまが合わないのです。 - Glass Spiders Liveは、すさまじくダサいが、それはNever Let Me Downのプロモツアーという性格上致し方ないとBowieは割り切っていたのではないか。
と同時に、そのツアーによる心労の蓄積が、結局はBowieに"David Bowie"の封印を選択させたのではないか。金のために意に染まない(ダサい)事を繰り返しているという自覚は、ある種の人々の心をむしばむ。Bowieも例外ではない、というより、Bowieにはより厳しかったと考える。ライブアルバムに収録されている観客の歓声のレベルは、明らかに低い。これは事実だろうか、それともシニックだろうか。
そして、そこまでやっておきながら、Never Let Me Downの売り上げは失敗の烙印を押される。商業的な失敗とは絶対値であらわされるものではない。過去実績との比較による相対評価なのだ。Never Let Me Downは正しく失敗作だった。 - 以上の結果としてBowieは"David Bowie"の封印を行うが、その時点では問題の構造を把握していなかったと見る。
この封印は、単なる冷却期間であったのか、それとも”David Bowie"に対するBowieの自信の喪失であったのか。ワタシの見解は後者。でなければバンドのメンバーになろうとするものか。単なる冷却期間なら、休業で事足りるのだ。
つまり、この時点のBowieは、自分を襲った問題の構造を理解していなかったと考える。 - 1993年にBlack Tie White Noiseでカムバックしたときには、問題はすべて理解され、Bowieは”David Bowie"との再統合を果たしていた。
どう聴いても、”David Bowie”の刻印がそこにはあった。このときアルバムを聴いたファンは、みんな"Bowie is back!"と思っていた。もちろんワタシも。
チャート1位を獲得するが、チャートへの滞在期間は短い(11週)。つまり、待ち望んでいたファンが一気に押し寄せたということだ。以後のアルバムも、Bowieが出し、ファンが買う、という動きをしているのは後掲の「全アルバムのチャート動向」に詳しい。
そしてDavid Bowieもそれを良しとしたのだと思う。以後も問題作はあるが(Earthling...)、基本的にはアートフォームの方向性に関する問題であって、"David Bowie"に関する危機は訪れていない。
(Figure)
- 全アルバムのチャート動向。暗黒期が異常なのであって、あとは基本的にファンが買っているのがわかる。
- 他のアーティストに比べると、間口が狭いことを示すFigure。金額をアルバムのリリース枚数で割って得られる数字が、そのアーティストの間口だ。Bowieは基本的にファンのものであることがわかる(逆に言えば、一般性を獲得できないということである)。
最も売れたアーティスト一覧 - Wikipedia
(蛇足)
売り上げで偉さが決まる訳ではないのだけど、もしそうだとするとThe DoorsとB'zは同じくらい偉いということになる。そうか、これは驚きである。
(Fragment)
- この暗黒期における最大の収穫はAbsolute Beginnersだったなあ。
あんな脳天気な曲、世界に愛されているとでも思わなければ作れないし、歌えない。舞い上がっていたBowieにのみ作りうる名曲、それを聴くことができたのはLet's Danceとそれに続く混乱期のおかげだというのは皮肉だが、それでもファンは曲とパフォーマンスを言祝ぐべきだと思う。
なお当時は、「こういうのも余技で軽々とやっちゃうなんて、やっぱ天才」と思っていたのだった。馬鹿だなあ、オレ。 - あれほど憎んだ(!)Tonightにせよ、すでに諦めしかなかったNever Let Me Downにせよ、今冷静に聴き直せば、アルバムに収められている楽曲自体はいつものBowieクオリティだ。
ボックスのタイトルであるLoving The Alienなんて最高じゃないか。 - Never Let Me Down 2018 Remixは、同じアルバム素材からの成果物だと思えないくらい良い。
このRemix盤をBowieのexcuseと見る。Bowie全集に何を入れるべきか、Bowieは意図に基づく指示をだしていった筈で(でなければBowieではない!)、新たに追加されたRemix版などはメッセージとして読み解くべきものなのだ。多分、こんな感じ。
「おかしくなってきゃ、この位(のクオリティ)にはなるんです、あのときはどうかしてたんです、わかってください」
実際のところ、このRemix盤が入っていなかったら、目からうろこは落ちなかったかもしれない。これが、考えるきっかけを与えてくれたのだ。 - 「わかってもらえるさ」
もしかしたらNever Let Me Downを作ったときには、Bowieの頭の中にも(http://j-lyric.net/artist/a001cbe/l011219 .html)みたいな気持ちがあったのかも知れない。
清志郎はブルースマンだから、いい曲を作って、歌っていれば、わかってもらえる日がくるのかもしれない(そして実際にその日はやって来た)。
でもBowieは”David Bowie"なので、そういうふうにわかってもらえる日は来ない。その事が判ったというのが、1993年の復活劇の背景なのだ。
と、ファンとしては妄想するものである。
これだけ素っ気なく書いても約5000文字。丁寧に書いたら、やっぱり数万文字だな。
繰り返すけど、ファンの愛とはそのようなものなのです。