all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

11/21 自己否定1

すごい言葉だ、自己否定。

「私にゃんて、死んじゃえ」極大値においては、こういう発言と、それに続く行動を引き起こす圧倒的によろしくないモノ、通常はそういう受け止め方をされるよね、自己否定。

 

 

でも、そんなに悪なんだろうか、自己否定。

変形Ⅰ:

「(いまの)自分には出来ないことや足りないモノがあると認めること」、単語化して自己認識と言い換えるとどうだろう。相当にニュアンスが変わってこないだろうか。

さらにもう一ひねりしよう。

 

変換Ⅰ:

自己認識のもう一段上には「(いまの)自分に出来ることを評価し、明確にすること」、単語化すると自己査定というものが待っている。この自己査定、相当にうれしい力だ。というか、これが無ければやれないことが世の中には数多くある。

 

 

以下は最近よく口にするフレーズ。

「できる」、「できます」というな。その代わりにどのくらいの確度で「できそう」なのかを言え。

「できる」までは出来てないのだ。

なんだか鬼みたいだな。でも人間は裏切られ続けると心に鬼を宿すのかもしれない(どこかの皇弟とか、イワン雷帝とか、そういう感じ。ま、そこまで鬼のようなことはしないけど)。なぜこんな鬼のようなことをよく口にするかと言えば、もちろんそれを口にしなければならない事が多々あるからだ。

 

君たち、どうして気安く「できる」って思考停止をしちゃうの?「できなきゃいけない」と「できる」の間には無限の断絶があるのだぜ?そこに通行可能な橋を架けることこそが君たちの仕事であって、そのためには自分の手持ちのリソース(時間、能力、etc)を明らかにして、その範囲から到達可能なストーリーを作り出さなければならないのだよ?

 

はい、自己査定の登場です。君たちが「できる」という幻想に逃げ込むのは、自己査定が出来ないからなのですね。もしかしたら逃げているという自覚もないかも知れないけど - 能力の不足は、認識にそういう檻を作るのです。そしてその欠乏は、自己否定が無いことを示唆しています。

 

自己否定ができない人は、気安く(かどうかは知らねども)「できる」と言っちゃう人なのだ。

 

スゴいところまでたどり着いた。

さて、それでも不要なんだろうか、自己否定。

 

 

本エントリはロジハラの近縁種(というよりは真部分集合)、ナゼハラにもの申すために書かれました。

...って、まだナゼハラという言葉は出てないみたいね。ぜひ流行らせたい、ナゼハラ。定義はこう。

「なぜ、何故と問われ続けると、自分を否定された気持ちになる。自分の言ったことを素直に受け止めて欲しい。そういう気持ちにさせるハラスメント」です。

ワタシの仕事は何故を問うことなので(そして、その返事を見極めることなので)、こういう受け止め方をする人が意外に多いことを日々体感しています。そしてそういう人は自己査定の能力と負の相関があることも。

最近のXXハラ整風運動は、日本中のこういう人たちに「あれも実はハラスメントなのでは?」と気づき(アア気持ち悪い言葉だ)を与えるのではないか、と見ています。

ま、来るね、ナゼハラ。鉄板です。

 

そのナゼハラが流行ったときには、否定って何が悪いの?みんなが滅すべきと言ってる自己否定だって大事なんだよと論を張るために、今からビルディングブロックとそれを使った論の立て方の準備をしているのです。本日はその一環。対決の日は近い。

戒厳令が続いているので錯乱しております)

 

 

<補遺>

でも、トヨタなんかはどうやって「五回のなぜ」を定着させてるんだろう。自分を守りたいというバリヤーをどうやって解除させているのだろうねえ。

何故と問うことから否定的なニュアンスを消すのは当然として、それを受けた側が己をむなしゅうして客観的に返事をするという事の根幹、いえばマインドセットをどうやって成立させているんだろう。本当に知りたいのは「五回のなぜ」が成り立つ条件で(※)、もしそれが我々にとってあまりにも距離があるのなら、「五回のなぜ」で問題を解決していくというアプローチは諦めざるを得ない。トヨタはそこを教えてくれないものだろうか。

※例えば全員に無我を求めるとかね。まあこれは極端だけど、でも人間を大きく変えなきゃやれないのだとしたら、それはそれで無理がある。トヨタに入社して新人教育を受けなきゃ判らないとか、そういう人が8割を締める職場じゃ無いとやれないとか、そういうハードルが実はあるのじゃないかと疑っているのだ、最近。