書いてなかった期間にあったアレコレの備忘録。
二年前に息子と永別したのを筆頭に、過去を振り返ってみれば自分の2月にはお別れが多い。そういう事を思いながら権之助坂を下っていると、ふと当たり前の蕎麦が食べたくなった。偉そうな蕎麦ではなく、街場の、普通だけどしっかりとした真面目な蕎麦だ。そうなると行くところはこの辺りでは一店しかなくて、それは大鳥神社のちょっと手前、目黒通り沿いの朝日屋さんだ。
いつもは権之助坂を右手側から下るのだけど(その方が会社に近い)、朝日屋さんに行くなら普段は通らない左手側だ。幸い11時も過ぎている。急ぎの用もないので、会社に入る前に蕎麦をたぐっていく事にして、目黒川を過ぎた所の横断歩道を使って朝日屋さんの側に渡り歩くこと数分。
シャッターが閉まっている。
そしてそのシャッターの隣に写真の通りのあいさつ状が。
なんてことだ。
金沢に居を置きながら権之助坂を下る生活を四半世紀続けてきた。それは権之助坂から大鳥神社までの間に色んな食いもの屋が現れては消えするのを見続けてきたということだ。なじみになった店から、実はという話を聞かされたのも一再ではない。その出入りがある通りにおいても、残っていく店は残っていく。値段に応じた味とサービスのバランス、スタッフの体制、時分時の入りの具合、そして街の変遷との寄り添い具合*1、そんなアレコレから残る店は何となく判ってくる。事実、その見立てはここ何年も外れていない。
だからワタシがこの坂を下る最後の日まで、少なくとも朝日屋さんは変わらずに残っているだろうと思っていた。
突然の二字をつけなければならなかった原因は勿論告げられていないが、本当に突然としか言い様のないことがあったのだろう。しかし、あの『普通の』盛り蕎麦も、よそにはちょっと無い具合のげそかき揚げ丼(メニューではイカ天丼)も、二度と食べることができないのだ。べたつかず、さらっとした、でも親切なサービスを供していたお店のおねえさんたちや、もはや無形文化財的な芸になってしまった自転車での出前をやっていたおじさんと会うこともないのだ。
やはり2月は鬼門である。
それとも、おわかれはいつも突然やってきて、すぐに済んでしまう、というべきか。
追記
権之助坂と言えば日出学園なのだが、ここが日大系列になるということを知ったのも2月の目黒行きにおいてだった。これも何となくお別れ感が漂う。
ただし学校法人日出学園という名称が残っていること、そして
から見ると吸収されたということではなさそうであるが。
その日出、個人的な記憶の中では後藤真希がタグ付けされている。後藤真希が日出に入ると知った在沢のドルオタの友人が、何とか写真を撮れぬかと言ってきて、後藤真希とは誰なのかと聞き返して顰蹙をかったことがあったのだ。
みんな昔のことであるね。