先週のことだ。
目黒のオフィスに顔を出したら、みんなの態度が何だか変。どうしたことだろうとおもっていたら、向こうでの席のご近所のSさんがオフィス近傍のストリートビューを見せてくれた。
『これ、septiembreokbjさんですよね?』
『ヲヲ、これはアタシだね。ほら今日と同じ格好をしているでしょ?』
ディスプレイの中には、ワッフルハットをかぶり、今日と同じく紺のポロシャツとカーキのチノパンを身にまとった、顔にモザイクをかけられた男の歩く姿がうつっていた。つまりワタシは知らないうちにストリートビューのデビューを果たしていたのだった。
『ですよね。知り合いがストリートビューに出てるのって始めてだねってみんなで盛り上がってたんですよ』
なるほど、ワタシの知ってる範囲でもストリートビューに写ったことがある人はいない。そうか、確かにレアイベントだ。でもね。
6月から9月いっぱい、つまり学校で言うところの半袖シーズンは、原則として紺のポロシャツとカーキのチノパンしか着ないことにしている。と言うとスティーブ某のまねのように思われそうだが、そうじゃない。巷間いわれている『服を決めてしまえば選択のコストが下がり、より有意義なことに思考力を集中できる(決断力を無駄遣いしない)』を否定するわけではないけれど(それどころか、その効果は大いに認めるところだが)、それが第一義ではないのだ、自分の中では。
『レブロンの創業者はいつも紺の無地スーツとプレスのきいた白いシャツ、そして臙脂のネクタイをしていた。彼はそうやって自分の印象を常に一定にコントロールしようとしていたのだ』、そんなことを大昔にどこかで読んで大いに感銘を受けた。十代と書いてバカとルビを振るべきだと思う。今なら偽りなくそう言える。君にはそれより前にやることがあるだろう?
ともあれ、そういうものだと思い込んでしまったからには、スーツは紺の無地しか着ないし、シャツも絶対に白であらねばならず、ネクタイはシチュエーションによって使い分けがあるにせよ、基本は臙脂になる。かくあるべきではないか。適切な服装をもってして、印象を常に一定にコントロールするのだ。
十代のときの刷り込みとは本当に恐ろしい。
更に時は流れておよそ十年前、そういった思想はついに半袖のシーズンに侵入するに至った。勤めている会社にはドレスコードはないし、幸か不幸か付き合っている範囲のお客さんもこちらの服装を基本的には気にしない。その環境における印象をコントロールするために紺のポロシャツとカーキのチノパンが選ばれ、半袖のシーズンは月曜から日曜までの週に七日、同じ装いをすることになったのだ。洗濯をして、洗い上がったものを干していると、やはりどうかしていると思うのだけど、しかしそういうモノなのだ。そうせねばならないのだ、ワタシの中では。
さてさて。
ストリートビューというのはある種の盗撮であって、だから顔やナンバープレートなど、そこに誰がいたのかを示す手がかりにはモザイクが掛けられる。適切な処置だ。しかしながら『同じ服しか着ない』人間の場合、どうやらモザイクは(少なくとも現行のモザイクポリシーは)意味がないのだった。成る程、意図にかかわらず振る舞いが結果を規定するのだね。いやむしろ『印象を常に一定にコントロールしたい』という欲望からすれば、モザイクを突き抜けて個人の識別に至った事は成功と捉えるべきなのだろう。まさかストリートビューに写っただけで、自分のいびつさ、偏りと向き合うことになろうとは。いかにものことではあった。
このエントリにはもちろんオチはなく、ましてや何の意味も、教訓もない。自分の偏りが思わぬ形で摘示されるというレアイベントの発生を、いつか行われるかもしれない内省のための手がかりとして保存するものである。
追記
そしておそらく楳図かずお先生にも同様のことがおきるのである。さて先生はどんな欲の故にその振る舞いをされているのだろうか。ここを調べるのは宿題だ。