all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

9/1 三度、オクトーバーフェスト

しかも三回とも一人だよ。なかなか立派じゃないか。最終日までにもう一度来たいが、その時も一人か?ますます立派じゃないか。

 

 

さて本日は、普通の営業日。段々マトモに仕事が出来るようになって来て助かるのだけど、その代わりに周りの遅さが辛くなってくる。君達、1/2倍速なの?という人の数が増え始めている。これはまずい。速度域の調整がまだ出来ない。話す相手のスピードに合わせて、ですよね。それでアイドルするなら別のこと考えてれば良いんだから。

そうか、マルチタスク機能も元どおりに成らないと、すごく退屈するか、イライラするか、スピードの合う人とだけ話をするか、さもなきゃ旅に出るか、ですな。はやくマルチタスク機能も復調しますように。

そして仕事を片付けてからオクトーバーフェストへ。段々雨が降りそうな具合になって来てるけど、一人ビールなので気にしない。それはそれで趣があって良いではないか。生きている人たちはみんな楽しそう。それを見ているワタシもなんとなく楽しい。

いや、楽しいのはボクだけではないかも知れない。

 

今朝、会社に行こうと思って遺影に行って来ますと声を掛けた時に、自分の中に彼がいるような気がした。行ってらっしゃいというあの声が、胸の内側から聞こえたからだ。

ボクはすごくしょぼいvehicleかも知れないけど(というか、そうだ)、まだこの辺りに魂がいるなら、ボクを乗り物に使って欲しいと思う。ホントに。

 

 

あ、宗教じゃないから。

ではもう一杯。

 

 

追記

夕闇迫るオクトーバーフェスト会場(金沢中央公園ね)を、モルモン教の尖兵二人組が自転車で通り過ぎて行った。おお、ブリガムヤングの信徒よ、人が多いところは自転車から降りるのだぜ?そもそも君達はアルコール禁止では無いか(でも、一夫多妻はオケなの?)、ここは来週月曜まで君達のくるとこじゃないぜ?

 

8/31 アキバ届かず

本日は東京へ日帰り出張なり。

6時前に起床。そこからゴミ捨てなどして、オフィス経由で荷物を拾ってから7:48発のかがやきに。目黒のオフィス着は10:55。今日の東京は極めて涼しい。サイコウだ。

 

オフィスに到着するやいなや会議。非常に有意義な内容で、わざわざでてきた甲斐があると言うものだ。二時前に昼食、メグ二郎。小ブタ、にすればいいところを次がいつか分かんないからという言い訳を自分にして小ダブル。本日の食事は多分これで終わり。ま、二郎には常に後悔がつきまとうのだ。

 

次の会議が参加者の都合で開始時間がおそくなり、しかも始まった会議の展開が冗長なために18時にはオフィスを出るという期待は敗れ去り、あとは割合にどうでもよくなる。オーディオ活動が活発化する時期に入っているようで、気を抜くと高いものをクリックしてしまいそうな自分に恐怖しており、その衝動をどんなに高くてもたかが知れてるオペアンプ大人買いで散じてしまおうと企んでたのだ。アキバにでて千石に寄りたかったのだが。没法子。

 

22:30、金沢駅着。そこから目黒で預かったものをオフィスに届けてから帰宅。もしかしたら明日の朝、目が覚めないとも限らんからね。そんなに手間じゃないなら済ませておくに限るのだ。

家に帰るとネコの来訪の痕跡が。そして昼食時の予感通り、夕食をとる事なく床へ。

最近の日常

ここ何回かのポストで書いたとおり、寿命が来るのをじっと待つ生活と相成ったのだが、別に禁欲的に過ごさねばならぬという訳では無い。というか、飲み食いも、他のアレコレも、やりたきゃやれば良いのだ。生者の群れには近づけないというだけで、意識して禁止事項を作ろうとは思わない。
無理なものは無理としてあきらめて、そうでなければ時がくるまでの暇つぶしの手段としてやっていけばよいのだよ、君。つまりボク。

 

最近、引き籠もり三種の神器を選ぶとしたら何だろうというのを良く考える。それが有ったら家から出なくても良いもの3つは何だろうというお題だ。ネットとAmazonはメタ神器という気がするのでNG、もっとtangibleなものに限定する。前は

panasonic.jp

が必要だなと思ってたんだけど、外に一切出ないなら髪の毛の事なんか考える方がどうかしている。どちらかというと、これは床屋と話が出来なくなった病んだ人間のためのものだ。あ、あとお金をsaveしたい人ね。実はボクも持ってるんだけど、その理由は推して知るべし。

 

脱線した。もっとピュアに、もっと内向きに、引き籠もりに必要なものを考えてみよう。そこにその人の心の形(と書いて闇と読む)が現れてくるはずだ。ではボクの形はどのようなものか。

 

まず間違い無いのが自転車+ローラー台(2つじゃん、というならスピンバイクでも可。エアロバイクじゃないね)だ。何もせずにずっと家に居たら、筋肉が衰えて激鬱になってしまう。安定したメンタルは、まず筋肉がもたらすのだ。引き籠もりとは生活圏の定義、他人との距離の設定の問題であって、behaviorの定義ではないのだぜ。ボクは自他共に認める引き籠もりマインドの男だが、ずっと寝転がっているなんて理解できない。腰にも悪いよ?今だって土日に一歩も外に出ないなんてのはザラだけど、自転車+ローラー台がそれを支えてくれている。ましてやフルタイムの引き籠もりにおいておや。

 

じゃあ2つめだ。時間を無制限につぎ込めるなら、次はギターだ。今すごくヘタなんだけど、それは累積効果が発揮できていないからであって、逃げのきかない状況ならぜひギターに惑溺したい。あんなことも、こんなことも出来るようになったぜ、という雄叫びを、誰もいない部屋であげるのだ。そこまで行くには相当時間が掛かるだろう、それもいい。


で、最後の3つめは、凡庸だけど音楽を聴くための機材、一般にいうところのオーディオセットだ。音楽の無い生活は考えられない。会社に居ても、人と話をするとき以外はヘッドフォンを掛けっぱなしだ。それが引きこもって家にいるんだから、音楽を流さないなんてありえない。スピーカーの位置をわずかに変えて一喜一憂する、なんと引き籠もり向けの遊びだろう。

 

自転車+ローラー台、ギター、オーディオセット。これが引き籠もり三種の神器だとすると、ボクは相当に凡庸な奴に見えるような気がする。まあ凡庸だということに異論はないのだけど、これら三種の神器が凡庸だと思われるのは癪なので、ちょっと補足をしておこう。

まずはローラー台だ。最近のローラー台は、いよいよ世界と繋がるようになってきた。ZWIFTだ。

zwift.com

他人と繋がりたいとは思わないが、家に居ながらにしてコースを走れるというのは大変に素晴らしい。世界中の引き籠もりはZWIFT対応のローラー台を買うべきだ。ボクも今のが壊れたら次はそうする。ともあれ、最近のローラー台は侮れないのだ。

 

もう1つの補足はオーディオについて。もともとオーディオは沼と呼ばれる趣味であったのだけど(ズブズブ深みにはまるから)、最近はそのうえ樹海のようでもある。深いだけではなく、良く判らない広さが備わってしまった。誰がオーディオのためにLinuxディストリビューションを気にしたり、sshでログインしてsudoでコマンドをぶっ込んだりする事を想像しただろう。最近やられた奴だと、Volumioの名前解決にmDNSを使おうとするとやっぱりWindows10でもダメなままで、Bonjour Print Servicesをインストールしないとどうにもならない、しかもAndroidChromeは打つ手無し(多分Googleはどうにかする気がない)というのがあった。IT屋さんでも判んないようなネタが、音楽をちょっと聴くために必要になっている2017年のオーディオなのだ。そもそもここまでに出てきた単語は、多くの人には?だと思う。
それもこれもデジタル音源データが加わってきたからだ。こいつが自由をもたらすと同時に全てを面倒にした。音源データにはネット経由のストリーミング系もあれば、ハイレゾ音源のデータ販売もあり、さらにメディアから解き放たれたCDリッピングロスレスデータもある。それをどう管理するかで掛け算でバリエーションが増えて、PC派もいればNAS派もいて、さらにはスマホDLNAサーバを立てて行く先々のDLNAレンダラーにデータを流すという特殊な一派もいる。いずれにせよ、デジタル音源データを扱う為にオーディオの世界にコンピューターが侵入してきて、そして自由を求める人々はそれとの合体を受け入れた。自由?
たとえばCD数千枚を持っていると、自分の聴きたいCDを探して再生するだけでも一苦労だ。でもすべてがリッピングされて、データとして活用可能なら?その場を動くことなく、聴きたい物を、聴きたいように再生できる、それこそCD1000枚連続再生だって。つまりそういう自由、物理メディアからの自由。
このように最近のオーディオは、ようやく音楽を自分の都合に合わせて聴くための環境になってきた。その代償としてコンピューター系の高位魔法が必要なんだけど、複雑さこそがより豊かな自由をもたらすのですよ?居間で、寝室で、台所で、ガレージで、そして風呂で、持っている音源を聴きたいように聴ける自由。そのようなある種の人間にとっての夢を、2017年のオーディオ環境は実現できるようになっているのです。あ、しかも従来と変わらず高品位な出力装置を懐具合に応じて買うという楽しみもあるし。いまこそ音楽好きな引き籠もりマインドな人は、オーディオにコミットすべき。

 

...今回も盛大に話がずれた。
今日書きたかったことはそんな事じゃ無い。
別に禁欲生活を送っている訳ではないから、適当に散財もしながら暮らしてるよ、ということ。

 

www.minoura.jp

の先頭のローラー(回転部)が壊れたので、買って交換したり。

 

今一つ気に入らない音がするDACオペアンプ

www.tij.co.jp

に変えてみたり。

そのようにして適当にやっています。
おっと、ギターも練習しなきゃ。

お盆日記

最近の諸々の根源である、お盆とそれに続く休日の記録を残しておく。段々記憶も怪しくなってきており、何故ここにいるのかが判らなくなりかねないのである。つるかめつるかめ。

 

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8/14
本日、家人は仕事なり。よって次弟家族の来訪に備えての準備を一人で行い、汗みずくとなる。
午後一に次弟家族来訪。霊前に手を合わせた後、しばし歓談。甥、姪が順調に大きくなっていることに大いに安らぐ。彼らは友人宅訪問等で一旦出かけるということで、引き続き家の整理。その途中の休憩時にうとうとしていたところ、玄関から息子の「ただいま」という声を聞く。お盆の始まりなり。
夕刻、次弟家族が戻ったときに庭に見慣れぬネコがいるのを見つける。三毛模様だがほっそりとして頭も小さいシャムの姿なり。庭で悠々とつめを研ぎ、悠々と去って行く。次弟家族は、次弟の友人と食事をするということで再度出立。家人の帰りを待ちながら飲酒。期待するも、その後息子の声は聞こえず。
夜、家人も帰宅し、次弟家族の男子部も戻り、そろってしばし歓談(女子部はホテル)。階下の部屋を次弟家族の男子部に渡し、2/2の夜以来初めての自室での就寝。2/3の朝に家人の悲鳴で起こされたことを思い出しながら入眠。

8/15
朝はゆったりと。本日から家人も夏休みなれば。
午後、妹家族来訪。すこし遅れて長弟夫妻と母も来訪。しばし歓談。彼らはこれから墓参とのこと。本日もネコ来訪。庭の塀の上に2時間近く居座る。息子が呼んだのでは無いかと家人が言い始める。
夕刻、長弟夫妻、次弟家族、妹家族、母および我々二人が揃う。加えて221氏も。18:30から息子と縁の深い店で会食なり。14人で材木ルートのフラットバスに乗って店に向かう。
会食後、近江町市場でホテル組と分かれて徒歩で帰宅。途中、白鳥路を通り蛍を探すも見つからず。次弟のところの甥二人がラップでディスりあい、そこに妹のところの甥がさらに絡むのを聴き、感銘を受ける。と同時に胸が詰まる。
帰宅後は余と家人を除き近所の温泉に。それから、次弟、妹、221氏、我々でワインを色々あけて延長戦。221氏を送り出したあとは合宿。女子部は二階、男子部は一階で。

8/16
本日は長弟夫妻、次弟家族が帰る日であり、妹家族は母の家に移る日である。まずは合宿組の朝食の用意を行い、供する。甥、姪はよい食べっぷりである。その後はそれぞれ出立の準備。余と家人は、長弟夫妻をホテルに迎えに行く。我々兄弟および家人が卒業した小学校の建物が新築されることになり、このお盆の期間中、取り壊し前の旧校舎が一般公開されている。これを揃って見に行くのだ。
小学校の校舎は記憶通りのところもあり、その後の改築で変わっているところもあり。40余年前を思い出して懐かしむより、40余年前には夢にも思わなかったその後の人生の諸々についておもいを巡らす。波瀾万丈、驚くべき事の連続であった。
昼前に小学校前で散会。またお会いしましょう。余と家人は長弟夫妻を県立美術館まで送り、そこから昼食を求めるが金沢を一周する思わぬ長い旅となる。行きたい店がみなお盆で休んでいたのであった。善哉善哉。
帰宅後、庭にまたもネコの姿が。餌をやるべきか、そうせざるべきか、しばし煩悶。やるのだとしたら買わなければ。そのうちに妹から、母の家に移るのは明日として、本日も泊めて欲しい旨の入電。了承し準備を行う。
15時過ぎ、息子の中学校時代の友達が焼香に来てくださる。ありがたいことである。少し話をしたのち、家人が車でお送りする。別れ際に、本日はありがとうございました、どうぞ実りの多い人生をお送りください、と御礼を申し上げる。
夕刻、妹家族再訪。彼らはそこから昨日と同じ温泉へ。その後に夕食。近所で買い求めたドジョウの蒲焼きが好評であった。重畳なり。

8/17
北陸鉄道浅野川線に乗りたいという甥に、妹家族と母が付き添って出かけるとの事。家人が駅まで送る。その後は掃除と片付け。お盆なれば、本日も来客の予定あり。
午後三時半に弔問客。一時間ほど話し込む。色々なり。
ネコ、今日も姿を現す。餌を買わねばと決心する。
夕食はあまりものの片付け。生きている人が去った後はひっそりとしたものなり。
夜、布団の中でこれからどのように過ごすべきかについて、主に理論面から考える。HowはWhy/Whatの現れなり。Howのみの暮らしは余人は知らず、余には無理なものなり。

8/18
夏休みは昨日までとて、本日は出社。夜、BBQの予定について確認すべく某店へ。彼我共にやる気十分なり。
本日は庭の確認ができず、ネコの来否は不明。

8/19
午前、本日離沢する妹家族を送るために金沢駅へ。お土産物を求める観光客に当てられて座り込むことに。生きている人間の放射するエネルギーは恐ろしいモノなり。殊に方向性もなく、全方位に散乱している場合は更なり。
帰宅後は片付け。
本日、お盆の終了を宣言。結局息子の声を聞くことが出来たのは8/14の一度切りであるが、出ていく声を聞いていないのだからまだ家にいるのだと思う事にする。家人は一度も聞く事が出来なかった由。
本日はネコの来訪有り。


8/20
引き続き片付け。すでに来客の片付けではなく、我々の生活の片付けである。物への執着というよりは、整理に向かいあうまでの助走距離に関して口論。もちろん余が短く、家人が長い。すでに最重要事項は終わってしまっているのだから、どんな後悔であっても多寡が知れていると思い切ってくれれば良いのだが。余には判らぬ事なり。余はむしろ見通し無く道を歩くことを怖れるものなり。
その後自分の裁量の範囲でのゴミ出し、というよりゴミの認定処理を続ける。もしかしたら使うかも知れないという可能性の剪定が、ゴミの認定処理の中核である。苦しいのはその通り。しかし8月いっぱいには誰かが剪定をしなければならないのは間違いが無い。それは感情ではなくてFACTである。
そのうちにゴミの認定処理の毒が回ったか、墓(既に我が家は墓所なれば)の整理をめぐって口論をする墓守のごときが生者の集まりに顔を出すのは烏滸がましい事であるという想念が頭に固着して離れなくなる。結局BBQに行く事を得ず。申し訳無いと思うが、如何ともしがたし。生者の集まりに立ち入れるのは生者のみである。19時過ぎ電話が鳴るも、これに出る事も得ず。ただただ忝し。
なお本日ネコの来訪無し。以来8/29に至るまで、そのネコの姿を見たることなし。

 

かくのごとく、お盆とそれに続く休日を過ごせり。

8/28 捲土重来

前回のエントリにも書いたがここのところ調子が悪くて仕方がない。それは此岸に場所はなく、しかし彼岸に向かおうにも追腹禁止の沙汰が出ているからだ。さて、殉死を禁じられたとき、我々はいかに如何にすべきであるのか。


隆慶一郎の小説「死ぬことと見つけたり」は未完ではあるが、しかし結末に関するアイディアが本の末尾に付されている。それによれば、殉死を禁じられた主人公のうち、齋藤杢之助は補陀落渡海(ただし自力で泳ぐのだが)という形で、中野求馬は藩を救うための企て事の責任をとる形で、それぞれ念願を遂げる。隆慶一郎については魅力的な作家であるとは思いつつ、しかし仏文育ちの故なるか(小林秀雄の弟弟子だよ)、個人というものが先ず有らねばならぬのだという執着が鼻につきすぎてゲンナリするときもあって、自分との関係は彗星型になっている。とは言ってもそんなに長周期でもなく、3年に一回くらいは接近期がくる作家であって、本棚から消えることはない。その隆慶一郎の諸作のなかでも最も魅力的だとおもっている「死ぬことと見つけたり」の結末に、以前は感じなかった違和感を覚えるようになった。自分自身が殉死を禁じられ、ではどうするか、ということに向かい合わなければならなくなった今夏、そもそも禁止されるという事が、死のうと思っている人間に対して何の拘束になるのか判らなくなったからだ。

 

禁を破ると残された人間が困る、だから禁を犯していないと言い張るための名目を立てる。しかしそれはシビトの論理であるのか。後先考えずにシぐるうのではなかったのか。


これまでシビトのような生き方を望んできたボク自身の結論は、寿命の到来を殉死の許しとして、それが得られるまで、歩き、はなし、メシをくい、クソをたれるシシャとして時をすり潰すという事であった(※)。そもそも禁止とは、それを申し渡される対象が生きている時にのみ有効なものであって、とすれば時をすり潰して伏して待つというのは後先を考えてしまった者に対する罰として成立するのだから、禁止に従い、それを待ち続けるのは筋道の通った処し方であると言えないか。それと同時に、禁止が禁止として成立するということは、ボクがくるいきれていないということであって、その不純さを認めないのも浅ましさの上塗りではないか。
そのような整理のもと、彼岸と此岸の間で寿命を待つ暮らしを受容するに至ったのがこのお盆であった。我が家は墓所となり、我は墓守となり、ただひたすら許しを待つ。そういう結論である(21世紀の墓所なのでAmazon Primeは見られはするのだけど)。
※すり潰すといえばあの台詞なので、正確を期すために検索しようと「いやだわ」まで入力したところ、補完候補にそのまま出てくる...。あまりの事に引用をやめ、代わりにこの注記を行うモノ也。

平均寿命というものが、平均的ではない出来事に遭遇したボクにも、平均の逃れがたさをもって襲いかかるのだろうから、あと30年は彼岸、此岸いずれの岸にも属さず暮らしていく事になる。30年。それも受容すると決めての墓守の暮らしであるが。

 


さて、有り様と目的に整理がついた。此岸に籍がないシシャの墓守として、30年墓を守っていくための環境の構築に着手することにしよう。ボクは目的がないと布団から出られないタイプなのだ。
シシャであっても金はいる。腹も減れば、家も壊れる。だから金を稼ごう。俸禄をくれる会社を儲けさせることにしよう。
生者の群れを忌避していると最後には滅し尽そうと思う事になる。すくなくとも生者の群れに耐えるすべを学ぼう。そうしないと墓守すら務められなくなる。まずは軽いところからでも折り合っていこう。生者の群れに戻る必要はないのだ、ただ折り合えばよいのだ。大丈夫、やれるさ。

 

という事で、本日8/28は金曜の続きを行うことにする。17:30に退社して、そこからオクトーバーフェストに向かうのだ。課題は「生者の群れに耐える」。さてどうなるか。

 

 

19:20追記。

距離を保って眺めれば、生者もそれぞれに特徴を持っている。夫々がそれぞれのアテに向かってすれ違いながら歩いている。そこに混ざろうとはもはや思わないが、それぞれがゴールにたどり着ければ良いと思う。会社員の集団も、家族連れも、女の子同士のあつまりも、男の子同士のあつまりも、もしかしてこの人はキレイと言われそうなのに(実は美醜がよくわからん)一人でいる人も、カップルも。

まるでfive yearsの様だがその通り。(ボクの)世界には期限があり、(一人一人は生き物として滅するにしても)不滅である君達が通りを歩いているのを眺めるのが、たまらなくたのしい。

さあ、目的のための闘争を始めよう。君達は永遠を生きろ。ボクは定められた期限のうちに、最大の効果を目的にもたらそう。そして彼岸に渡ろう。

 

 

と一時間半酔っ払っているうちに日は既に暮れ、飲んだビールは、ヴィタスが都合1リットル。度数が7.8%なのでそろそろ回る。生者の群れとも折り合いが付くかも、という期待が溶ける前に帰ることにする。秋風がふいてきた。

明日また明日。

明るいうちからビール

朝から諸々雑事。その後の予定も恙無く終わり(恙あってもいいのだが)、ちょっと早いが中央公園でビール。本日はオクトーバーフェストの初日なり。去年は君も一緒に来た。今年は私のみ。

 

さすがに金曜の16時過ぎは座席もまばら、行列も無し。それに去年も思ったのだが、全般に客筋が良くて、イライラすることがない。その辺りが肉フェスと違うとこ。ビールが安くないと言うのには良い側面もあるのだ。

あ、一つ訂正。青いスタッフTシャツを着て場内を回っているワカモノ諸氏はちとウザいな。それも空いてるが故の余裕と思えば腹も立たない。あ、でも音楽はファックだな。なんだこりゃ?ジャーマンメタルの方がまだしもよろしい。

 

一杯飲んだら、素直に帰宅。杯を重ねると、会いたくないあたりと遭遇するかも、などと言う訳では無くて、人あたりを恐れるが故。生きている人間のエネルギーがツライのだ。金沢城の周りをゆっくり歩いて家に帰ろう。君とよく一緒に歩いた道だ。家のそばにお城があるなんてちょっとないぜ、大きくなってどこに住んでもきっと思い出すし、誰にでも自慢できるぜ、と君によく言ったものだったが。間抜けな話である。

 

あ、ビールの話を書いてなかった。その貴重な一杯の名は、warsteiner(ヴァルシュタイナー)のプレミアムヴェラム。ピルスナーですな。味は、どうだろう、もっと切れてもいいのにと言う感じ。日があるうちのただ一杯、しかも夏の野外であればヴァイスを飲むべきであったか、と最後になって思いつく。いつも遅すぎるのだ。頭が悪いと言うのは悲しいものである、というのが今日の結論。

いつもの結論であるのだが。

8/22 極めて不調。

しかし8/20、8/21の極限までの不調に比べればいささかマシ。その分の埋め合わせか、不運が続く。Volumio2でFostexのHP-A4を鳴らすとと音切れがヒドイのだ。

仕方がないのでお蔵入りしていた古いDACを繋げるが...どう聞いても音の鮮度が下がる。とはいえ、安定して動いていた旧いVolumio1.55に戻したくはない。いまさら引き返す道などどこにも無いのだ。流転の果ての阿修羅王の気持ちである。
もちろん一日これをやっている訳にもいかない。俸禄をちょうだいしている以上は仕事をせねばならないのだ。DACの模様替え、というよりは配置換え(ウチにはUSBをソースとするDACが大小取り混ぜて7つある。何故あるかは、問うてはならない)を週末に行うことにして職場に赴く。それが何時だったかは、問うてはならない。


本日はアウトプットをする日とて諸々作文。脳の働きはそれほど悪からず。週末からこっち、酒気が抜けているためである。
ハイレベル会議が終わった遅い午後に、その会議に対するコメントのメモをまとめつつBlind Faithを聞く。


いままで一度も良いと思ったことが無かったのだが(では何故聞く?問うてはならない)、今日突如としてその良さに開眼する。「了解」が訪れたのである。グレイトフルデッドの長く奇妙な旅(https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B072Y97ZMG)を見始めている影響でもなかろうし、取り立てて理由になるものも思いつかない。ただただ突然、世界が回転したのであった。
そうなると気になってくるのが例のジャケット写真である。長らくあの飛行機をB-52だと思い込んでいて(なぜ?違うにもほどがある)、確認のために今日ようやくジャケットを詳細に眺めたところ、見たこともない飛行機であったことに気がつく。と同時に、あのロリ写真が苦手だったことにも。何たることか。直視しないにも程があると大いに恥じいる。
そこから仕事の休憩を兼ねて、いままでの不明のツケを清算すべくネットで詳細を調べ始める。しかし日本語のサイトにはほぼ記載がない。「アレは実はスペースシップで」などと根拠なく書き飛ばしているものがわずかにあるのみである。仕方がないので英語で探し始めると、すぐにen.wikipedia.orgの記事に結論が見つかる。

Blind Faith (Blind Faith album) - Wikipedia

 

当該箇所を引用する。

Album cover controversy
The release of the album provoked controversy because the cover featured a topless pubescent girl, holding what appears to be the hood ornament of a Chevrolet Bel Air, which some perceived as phallic.[4][5] The US record company issued it with an alternative cover showing a photograph of the band on the front as well as the original cover.

 

 

なんと、アレは飛行機では無くてシェブロレー(と書け、と片岡義男がどこかの雑誌に書いていた。それを読んだのは17、8だったと思うから、君とあんまり違わないころだ)の装飾だったのだ。
ornament of a Chevrolet Bel Air で画像検索をすると、確かにあの飛行機が画面に並ぶ。驚くべき事なり。

では、その車の装飾をもった女の子、Mariora Goschenはその後どうなったか。
名前をもとに順次追いかけた結果、たどりついたのがここ。

https://uk.linkedin.com/in/mariora-goschen-94712b10a

 Alternative Medicineとは、なるほどという感じでもあり、そうなのかという感じでもある。生きていれば、様々な変化が訪れるのだ。

※アルバムジャケットについては、

http://www.tonybarrell.com/cover-stories/

thetrickis.wordpress.comなどにも情報がある。

 

 

 

このあたりで休憩を終え、仕事を再開し、突発的豪雨をやり過ごしたのち帰宅。The ビッグオーAmazon Primeでみて、24時に就寝。
布団の中で、昼間の検索でなぜだか不吉な感じを受けていた理由に行き当たる。Chevrolet Bel AirのBel Airに引っかかっていたのだ。ある曲の歌詞にこういう一節があるのだ。

Bel-Air's okay if you dig the grave
But I want to live again

 

 「花嫁の正体見たり」というアルバムの二曲目、「行かせられない」という曲である。

Chevroletのモデル名である Bel Air が地名由来なのかは知らないが(布団の中でChevrolet Bel Air自体についても英語情報を検索してもみたが判らず)、Bel Airと聞くと墓が連想されるようになってしまっているのだ。ベルがなるとよだれを垂らす犬と何ら変わらない。驚くべきことでもあり、当然のことでもあり。そして入眠。


以上が、君のいない状況における標準的な生活。この調子で記憶と現実の境目をとかしながら、もはや変わることのない暮らしを、寿命が到来するまで続けるのだ。