all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

11/11 青タンス、来たれり

今回のエントリは、夏の終わりに買った 

jbl.harman-japan.co.jp

に関する(いつにも増してだらだらとした)メモランダム。

 

話は大昔に遡る。小学生から中学生になるころの話だ。橋場町の三叉路から一本入った通りにあった喫茶店のJBL4343(だったかな?)で、自分が持参した冨田勲の宇宙幻想-COSMOSというアルバムを聴かせてもらった事がある。そして、世界が大きく転回したのを覚えている。

はあ、ホントはこんな音が入っていたのですね。割れずに冒頭の低音が出るのですね。モーグで重ねたバッハは、こんな諸行無常の響きがするべきなのですね。僕もJBLのスピーカーを使ってみたいなあ、と子供心にも思いましたことよ。

 

とはいえ、その後の人生には山有り、谷有り、更に谷有りで、子供のころの衝撃を忘れて、

「高いオーディオで聴かなきゃ判らんない楽曲ってのは音楽の敗北だ。オレはミニコンポ以上のオーディオセットを断じて認めん」とまで言い切ってみたりするようになっていた(ホントに公言したことあったっけ? まあ、そういう気分だったのは間違いない)。

これは、Hi-Fiオーディオで例えばパンクを聴くのはかっこ悪いぜ、等に類することではなくて(※)、プログラマー的な資質が発現し、プログラマー的に考え、(過剰に)プログラマー的に振る舞った結果なのだろう、おそらく。

※そもそもパンク嫌いだし。ピストルズはある種のユーモア音楽としてよく出来てると思うけど、「反逆の」とか言い出す周辺には困っちゃう。それこそ、Destroyだぜ。

 

なんとなれば、ワタクシどもプログラマーイデア論が大好きで(※)、どこかにあるイデアの射影としての世界に住んでいるのだと、割合に真剣に信じている。ここを出発点として、音楽の再生も所詮イデアの射影じゃないの、という気分になっていた。プログラマー的な主張を煮詰めれば「再生音がローファイだとしても、イデアは変わんないのだから、ガタガタ言っては格好悪いのだぜ? と主張せねばならないのだ」と思っていたのだね。ああ、若かったなあ。バカであったなあ。

※異論は認める。ただし世界が射影だと思わない奴がいたら、そいつは只の「IT技術者」なのだと思うことにしているけど。

 

ちなみに譜面というイデアがはっきりとあるクラシック系の場合、面白いことに二派に分かれるようで、判ればいいというローファイ派(ミニコンポ派)と、ソース(演奏)を忠実に聴いてこそ音楽だというHi-Fi派の両方がいるそうだ。芸大出のお友達に聞いた話。

 

さて、Hi-Fi(指向)に還ってくるのは、2010年にiBasso Audio D12 HjというポータブルDACを買ったのがきっかけだ。iPodの容量が足りなくなって、仕事中に聴く音楽(※)をPCに蓄えるようになり、さすがにPCのヘッドフォン出力ではなあと手頃なUSBDACを買ったのが運の尽きだった。あまりにもiPodと再生音質が違い過ぎたのだ。

※弊社は仕事中のヘッドフォンがOKで、聴きたいモノを聴きたいように聴きながら仕事をすることが許されている。というか、誰かに許されなければならないとは、誰も思っていないというのが正しいかも。

 

同じイデア(ソース)から鳴る音なのに、どうしてこんなに違うのだろう?

 

当たり前だよね、違うにきまってるじゃない。ハードウェアリソースの制限も、設計方針も違うんだから再生音も違うよね。理屈ではその通り。でも、それが判らないくらいの根深い「教条主義」にとらわれていたんだね。目のうろこは落ちてみないと判らない。自己解体を継続的に繰り返しているつもりだったけど、まだこんな「開かずの間」があったなんて。

世界が写像に過ぎない事と、より良い音で鳴らすことによってイデア(ソース)に迫る事の徒労性(※)は、似ているようで全然違う。後者は徒労であるにせよ、その過程でワタシには官能がもたらされる。それこそが生きるということではないか(大げさな...)、エウレカ

※オーディオの徒労性は依然として認めていることに注意。

 

 

判ってしまえば一瀉千里。そうして機器類のアップグレード地獄が始まった。満足して、アラが見えて、不満になって、アップグレードを計画して...。まあ、確かに生きるということそのものだね、このループ。

septiembreokbj.hatenablog.comに記した

5.スピーカーのエンクロージャーに穴をあけてミッドレンジユニットを追加

も、そのループの一環だ。

 

そして今年の夏、ついに悟りが訪れた。

Q.シヌまでこんなの続けるの?いくら暇つぶしだからって、もうちょっと気の利いた時間とお金の使い方があるんじゃないの?特に、お金。

A.
そうですね、ワタシのしたかったことは「より良い音で鳴らすことによってイデア(ソース)に迫る」のであって、そこまでの道のりを楽しむことではないですよね。

 

そして、マキシマムのセットを買ってしまえば、「より良い」の追求は終わるのだということが突如了解されたのであった。

 

ではマキシマムのセットとは何か?家を建て直すのでなければ、現状の当家が制約となる。当家における範囲でのマキシマムと解すればよいのだ。そしてマキシマムに対する制約はもう一つある。ワタシの年齢である。

マキシマムが通時的に不変な性質だとすると(この5年におけるマキシマム、など時間的な区切りがないものとすると)、70歳を過ぎて一人でセッティング変更ができるようなサイズ、重さでなければならない。

確かにオーディオは青天井だけど、自分の、という限定子が付けば着地点があるのだね。ある意味先行きが見えたという事でもあるけど、妄執にとらわれずに済むとポジティブに見ることもできる。事実、今回のワタシはその立場をとって、「自分にとってのマキシマム」を選ぶことにしたのだった。

 

相変わらず、長いね。でも、あと少し。

 

そこまで来たとき、シヌまでに一度はブルーバッフルのJBLを部屋に置いてみたいと、子供心に思ったのが甦ってきた。特徴的なブルーバッフルのデザイン(※)、2ch(今は5chか)のピュアオーディオ板では「青タンス」と呼ばれ、団塊しか買わないと馬鹿にされているのは知っていたが、あちこちのレビューを眺めてみると、最近では見た目JBL、音はモダーンというモデルもあるらしい。

※なんとこのブルーバッフル、当時JBLの代理店だった山水の企画によるグラフィックデザインらしい。アメリカが、カリフォルニアが、と当時の雑誌で喧伝されていたが、何のことはない、日本発だったのだ。

 

ということで、秋葉のヨドバシに出かけ、ブルーバッフルの外観を持つ4307、4312SE、4429と、本機4319を聞き比べてみた。それが7月のことだ。結果は以下の如し。

  • 4307 : デザイン的にはJBLだけど、音はおもちゃ。見た目だけで満足な人向け。
  • 4312SE : デザイン的にはJBLだけど、音も同様に古くさい。特定のジャンルとの相性は良いのかも知れないが、音楽をオールラウンドに聴く人には難しい。ギターのカッティングなどもスピード感が無い。
  • 4429 : デザイン的にはこれが一番JBLで(ミッドレンジがホーンだし)、音も悪くない。4319とちょっと迷ったが、色付けがうるさいのと、スピードで4319に軍配があがった。あと、これの重量は、長生きしたときに問題を引き起こす。何しろ一人でやらなきゃならんのだ。
  • 4319 : デザイン的にはおおよそJBL(ミッドレンジがマグネシウムなのが見た目に幾分の違和感をもたらす)、音はモダーン。スピード、抜けが全域に渡って良好。ボーカルが幾分上品過ぎるきらいはあるが、ねっとりとしたボーカルで脳内をかき回されるのは好きでは無いので、これで良いことにする。重さも一個18Kg、寝たきりになってなきゃ何とかなる筈だ。

 

そうして4319と決め、それでも一ヶ月以上逡巡したのちに注文、ようやく家に届いたのが8月の終わりだ。

買って良かった。心底そう思う。

昔から知っている積もりのソースに次々と新しい発見が出てくる。作曲者やパフォーマーの意図だと思っていたことがひっくり返されるのも再三だ。Zeppelinの2010年代リマスターの意義も、ようやく判った。これからは4319をリファレンスにして音楽に向かい合っていくのだ。

そして、子供のころに思った欲からも、最近のオーディオ地獄という執着からも、これで解放され、「老後」に専念できる準備がまた一つ整ったのも目出度い。欲や執着の整理をしていかないとね。透明になっていくんだ、オレ。

 

 

 

 

 

と言いつつ、アンプとかDACは、もうワントライあるんじゃないかなあと思っている事も、そっと残しておこう。度し難し。

11/8,9 金沢、渋谷、軽井沢、金沢

二日酔いというよりは、まだアルコールが残っているまま目をさまし(蟹のノロイについては 11/7 蟹 - all things must pass に詳述)、7:48発のかがやきで東京へ。渋谷で打ち合わせ兼ランチ。それが終わってから軽井沢へ移動。合宿形式で行う、若手にアレコレ討論してもらう社内イベントのため。

 

行きの新幹線もそうだけど、標高940mの軽井沢駅が暖かすぎる。11月なのに何ということだろう。この世の終わりのことについては別途書くので、今日は事実のみ記す。

 

軽井沢での社内イベント、内容などは社外秘なので詳述しないが(できないが)、正解を求めたり、自分の考えている事を無批判に肯定したりする態度というのはどうしたものだろうねえ、と思った事は残しておく。真面目だし、熱心だし、それはもちろん素晴らしいのだけど、そのままだと対面する問題の性質によっては、局所最適に陥ったり、存在しない解の探索のうちに時間を消費し尽くしたりするよね。一般解なんか手に入らないと割り切る態度(※)、自分の考えですら何らかの前提なりフレームワークに制限されていると見切る態度、そういうものの重要性を語り続けているのだけど、中々羽化しない。

※求められる条件に対して妥当な答えで満足する、という適切な妥協を認める態度と言っても良いでしょう。

 そういうのって、個人の能力の限界だから判らない人には何を言っても判らないよね、そういう事なのかもしれない。でも、その人の理解の回路に入り込めるメッセージが出せないという、こちらの伝える能力の問題なのだという可能性も大いにある。だからこっちらも研鑽をつみつつ、気長に待とう。怒ったり、暴れたり、絶望したりしても、仕方が無いじゃないか。

 とはいえ、ちょっとめまいのする事があった。彼らは普通か否かというのを、自分と同じかどうかで判断するのだね。「普通」ということの定義を述べて、そこからの距離で測るということが出来ないのにはびっくりした。us and themを会社でもやりかねないな(いや、一部にはその傾向があって、しかも年齢とともに強化されてきているのだ。いやな事だけど事実として直視しなければならないな)。そこは注意していなければならないな。人間はすぐにus and themをやりたがるのだけど、それは滅びへの道だ。弊社では許さんよ。

 

それでも恙なく社内イベントを終えて、18:30ごろに金沢着。そこからオフィスにちょっと寄って後始末。それも20時には終わって、食事をせねばと思って片町方向に出るものの、何となく人に会う気になれず(※)、一人でぼちぼちやるために、竪町通り商店街にあるお好み焼きの店「しずる」に行く。ここは四人がけのテーブルが鉄板になっていて、そこで自分の好み、ペースでやれるのだ。息子がいたときに二人で何度か来た。

お好み焼きくらい手際よくやれないと、人生困るぜ」

そう言いながら焼き方を伝えたのを思い出す。周りはカップルばかりだ。そういうシチュエーションで彼が困らないようにと思ってのレクチャーだったが、困る、困らないの手前の事だったなあ。

※多分、イベントを円満裡に完了させるために、脳内物質を振り絞ってファシリテートした為。車の運転以外、基本的にはやれない事はない(器用貧乏ともいう)のだけど、モノによっては脳内物質の燃費が異常に悪いという弱みがあって...。

 

なにしろ「しずる」は良い店で、おっさん一人で入っても親切極まりない対応だ。こういう感じの個人経営のお好み焼きの店はあちこちにあったものだけど、今では町中だとここだけになってしまった。長く続いてほしいものだ。

 

 

満足して店を出ると雨が降っていたので、しいのき迎賓館の前でバスを待って帰宅。なにもする気になれないので、風呂にさっと浸かって寝る。ちなみにこうやって入ったか、入らないかくらいで風呂を使うのを、当家では「引き出し昆布」と呼んでいる。

出ている出汁の、使いでは知らない。

11/7 蟹

今住んでいるところは金沢の町中で、そこにはflat busという、金沢市運営の循環コミュニティバスが通っている。朝9時から夕方6時まで、町中の相当に細い道を縫って、15分間隔の小型バスが老人と、観光客と、朝が遅い会社員を運んでいる。本日は10時過ぎの便に乗って武蔵が辻まで。
そのバスに乗ったとたん、今日が11/7であることを再認識させられる。

金沢の年寄りは、初物の高っかい蟹を買って自家消費する。ご祝儀価格をものともせず初物にこだわるのは、初鰹と一緒だと思ってもらうと理解が早い(ただし、初鰹と違って、蟹は最初からうまい。うまくなってから解禁するという知恵があるのだ)。蟹は最近では手持ちひもがついた水色の発泡スチロール製保冷箱に入れられる訳だが、その水色の保冷箱を持った年寄りが町中をうろうろしていたら、つまりそれが蟹の解禁日のサインだ。その蟹箱を持った年寄りがバスに乗っていたのだ。
10時過ぎに蟹箱を持っているということは開店一番で初物の蟹を買って、そこからflatbusに乗ったということで、あのサイズの蟹箱なら、香箱ということはない、ずわい蟹だ。そのずわい蟹を持った年寄りは、材木町で降りて、路地に消えていった。


出社後は明日、明後日に軽井沢で開催する、若手にアレコレ討論してもらう社内イベントの準備。東京と北陸にオフィスが分散しているので、その中間地点である軽井沢に集合して合宿形式で実施するのだ。去年も、おととしもやった。その準備の整ったのが20:30過ぎ、さて、では蟹である。


以前は初物価格が一段落してから忘年会で価格が上がるまでの間、つまり11月の半ばから終わりまでに食べるのが賢いやり方だと思っていたのだけど、最近ちょっと考えが変わった。例えば値段がこなれる11月の終わりまで待ったとして、そのとき海が時化ていたら蟹は揚がらないのだ。確実にたべるなら、目の前にある蟹を掴むに如くはない。初物を求める金沢の年寄りは、それはそれで筋が通っていたのだと言える。食べ忘れや、食べ損ないがないように、食べられるチャンスを一回一回確実にクリアしていく、それが季節限定ものとの付き合い方だ、ということだね。

などなど自分にいいわけをしつつ、高値の初物蟹を食しに片町に向かう。ただし本日の懐具合はそれほど潤沢ではないので、すわいではなく香箱。あんな小さくて面倒なもの、自分でむいて食べようという気にならないというのもある。香箱は板前さんがきれいに始末してくれるところで食べるに限るのだ。ということで、某所へ。
高いんだけどと言い訳しいしい出してくれたその香箱、ミソも子もしっかり熟しているし、脚もみっちりしていて、甘い。禁漁期間があるからこそ、水っぽい蟹を食べずに済むのだ。Viva、人類の理性。サンキュー、蟹。そしてワタシ自身は香箱のうまさに箍が外れて飲む、飲む、飲む。あろう事か、もう一軒まわるという暴挙までして家に帰りついた時には1時目前である。


本日は、少しだけ昔の気分が戻ったようなことであった。

11/6 2018金沢市市長選ウオッチ(その2?)

金沢市の市長選が始まってしまったので、簡単に備忘録を。

 

(第一回?はこちら)

septiembreokbj.hatenablog.com

 

1.結局自民党は出ませんでした。

 

ここは予想と異なるところ。

今、いま山野氏と争うのは得策ではなく、それよりも次は市長の上を狙わせようと変な観測気球を上げている。

ちょっと古いが、8/11付けの北國新聞朝刊二面に「山野氏は知事を目指せ」というスゴいタイトルで馳浩氏へのインタビューが掲載されていた。内容はタイトル通り。金沢市から出て行ってくれるだけでOK、県知事になったときにはあの選挙スタイルでは勝てないだろうし、そのときには恩を高く売りつけるか、それとも反目にまわるか、自民の選択肢が増えるだろう、という思惑が透けてみえるような楽しい記事だった(以上はワタシ個人の感想です)。

逆に言えば、自民は今金沢市で勝てないという深い認識があるのだね。都市部では組織よりも浮動票、その浮動票をすくい取れるキャラがいないということなんだろう。前回の対抗馬が下沢氏になる時点で推して知るべしということだ。金沢市がいよいよ都市化してきて目出度いと言祝ぐべきか、自民のだらしなさ(変われなさ)にあきれるべきか、迷うところだ。

 

というのは、散々書いているがいわゆる「市民派」というのを、個人的には蛇蝎のごとく忌み嫌っているからだ。もうちょっとまともな受け皿政党になってくれないものかね。

 

 

2.選挙戦

山野氏、南氏、それぞれ、レベルの低い主張を繰り広げている。

 

まずは山野氏、「世界の交流拠点都市」の実現を目指すのとのこと。他には石川中央都市圏での広域行政推進、スポーツ文化の確立など。

それが、いまの金沢市の優先課題なのでしょうか?日本の将来というコンテクストから金沢だけが無縁でいられる訳がないのですが。そして国が貧乏になっていくときに、広域行政で我々の税金がまき散らされるのは勘弁してほしいのですが。実質のない規模拡大を指向するというのは、なんというか完全に時代遅れだなあと。

※あと、現職であるので、その仕事の成果の総括記事をちらほら目にするのだけど、その行動の唐突さ、調整のなさというのは、以前にもふれた元武雄市の樋渡氏と同型に見える。そういう意味で、次の県知事選に出なよという馳浩氏のインタビューは、意外や(失礼)歴史に学んだ正しい一手なのかもしれない。

 

南氏、家庭ゴミ有料化と宿泊税導入の中止、子供の医療費・第二子の保育料・学校給食費を無償にする「三つの無料化」が公約とのこと。こちらはいかにも共産党らしく、既存へのNoと、根拠が明らかにされていないばらまき。無償化が悪いんじゃ無くて、それが実現可能なのか、そこに優先して金を突っ込むべきなのかというところを全く説明してないのが、いつもの共産党クオリティ。

 

ということで、正直げっそり。

何が金沢市の問題なのか、どこに向かうべきなのか、それはなぜなのか、そのことについて広く合意形成を行うためにどんな仕掛けが必要なのか、そういう話は一度たりとも聞こえてこず、ピンポイントであれが良い、これが必要と述べるだけ。かたや樋渡型の候補、かたや旧来からの共産党型候補、しかしメタ行動においては同型なのであった。

つまり、どちらを選んでも、今後の見通しが立たない(行動に合理性を期待できない)ということでは一緒なのだ。

 

それでも選挙には行くんだけどね。

 

追記

septiembreokbj.hatenablog.com

において、

制度の当否とは関係なく、市長および市役所の「丁寧な説明を拒む態度」というイメージはメディアの後押し(※1)などもあって浸透していると思われ(※2)、かつ地域コミュニティにゴミ処理の末端を代行させようという方針については実質的な承認を経ていない(※3)状態にあっては、今なお火種はくすぶっており、一旦ことあれば(事を起こせば)大炎上が可能な状況であり、仕掛け次第で十分に乱戦がありうると見ている。

とか書いといて、全然乱戦になってないじゃないか、と友人に突っ込まれたので補足を。

 

確かに盛り上がらない選挙になってるけど、それは共産党がしかるべき施策を行ってないのが原因。丁寧に説明する、合意を形成するという基本をすっ飛ばして、「家庭ゴミ処理の有償化をやめる」という妥当かどうかも判らない結論のみを声高に叫んでいるのが悪いのだ。

つまり、オレを信ぜよ、オレは正しいのだという態度において、今回の市長選はどちらも同型なのであった。ヲヲ、田舎の暗黒、地方の蒙昧。

 

結局どこまで行っても、どっちを向いても、「よらしむべし、しらしむべからず」なのだねえ。

 

ま、それでも選挙には行くんだけどね。

11/6 想像以上にすごかったNetflix

以前、IT系のバカモノども(※)の持ち上げっぷりに激怒してこういうエントリを書いたことがあります。

※馬鹿とは馬と鹿の区別がつかないということだから、玉と石の違いがわからないものどもをバカモノと呼ぶのは、まったくもって正当なことなのです。

 

septiembreokbj.hatenablog.com

そこでこうも記しました。

それって金儲けのために宗教やったり、集団をオーガナイズしたりする人たちの典型な行いじゃないの。 

 

ワタクシとバカモノども、どちらが正鵠を射ていたのかはっきりしてきたので記録に残しておきます。

www.gizmodo.jp

はい、すばらしい会社ですね。予想が見事に当たるのはウレシイモノです。たとえ、それがどんなに悲しい予想でも。

 

5/16のワタクシのエントリは、こういう予測で締めくくりました。

こういう文書が「最高の」と言われちゃう状況が何を語っているかというと、IT系産業は最後の輝きを見せてんだなあということ。

 

ITが絡むビジネスの、優劣を決定づける極めて大事な資源の一つが「出来のよい人々」なのであって、それがみんな等しく手に入れられるなら、すべてのIT系ビジネスは、例えば初期の資本の量で決定されてしまうだろう(もちろんそんな単純じゃないけどね)。でも現実はそんな事になってない。その「出来のよい人々」、トップ10%(か、20%か)の人々の総数によって、成功できるIT系ビジネスの総量が規定されている。

 だから実際には、希少種である「出来のよい人々」を、一儲けが終わるまでつなぎ止めておくために、自分達の会社がいかに価値のあるところであるのかを、様々な方法で喧伝することになる。その流れで読まれるべきなのがこの文書であり、そしてこの文書は間接的に「成長の限界」を示している訳です。

Limit to growth! 懐かしいね。

 

そういうわけで、成長を続けようとする資本主義は、いずれtech peopleを不要とする仕掛けを強く希求することになります。なんとなれば、彼らこそが成長のくびきであるということを、普通の企業であるNetflixですらが逆説的に示しているからなのです。

 

 

まあそういうわけで、おそらく、これも当たるでしょう。まことに残念ながら。

 

そして、そういう世の中になる事を織り込みつつ、tech peopleは生き延びていくことを考えなければならないのです(ワタシ自身はtech peopleではなく、自負をもってプログラマーと名乗りますが同じことです)。

なんとなれば、おそらく我々の大多数は、職業の選択の結果としてそれを行っているのではなく、そう生まれついたが故にそれを行っているからです。であるので世の中が変わったとしても、我々自身の有り様はある意味変わりません(変えられません)。その事と、我々の有り様に適合する新たな働き方の探求が逃れがたい事を認めたうえで、これから訪れるであろう資本主義の次の段階をサバイブしていく事になるのでしょう。

 

11/5 こころの中のヘイトに向き合う

現在昼休み。近江町の観光客向けベンチでコロッケをつまみつつ休憩中。
武蔵が辻の交差点を、フラフラと自転車に乗りながら、横断歩道も無いところを逆進する年寄りをみて、さっさとしなないかなと、こころの底から、思う。車、止めまくりという状況を本人はどう見てるのか?軽車両だから逆進したら道交法的にアウトだということをどう考えているのか?

ああ、老人ヘイトじゃないよ。
それが証拠に、その後同じところを集団で歩いて渡ろうとした若人の集団にも思ったから。
こっちは轢かれそうになって、慌てて引っ込んでたけど。


とはいえ、老人の場合はよりイラッとするのも事実。あんなのの年金を我々が分担してるとおもうとねえ。


おちはない。
単なる、ヘイト。他人が絡む事柄に関するルールを気にできないという能力の低さについてのヘイト。理由は問わず、ただ能力が不足しているという事に対するヘイト。

このヘイト(の気持ち)はきっとなくならない。そしていつか老化した自分も、おそらくそこに呑まれて行くのだというのがツラい。つまり、生きていることがツラい。老残をさらすまえに、是非とも安楽死したいものだと再確認するのだ。
自分もああなっちゃうのかと想像すると、やりきれない気持ちになる。折角今日まで自分をも律してきたのに、歳を取って制御が利かなくなるかもと言うのが、心底怖い。


おちはないので、午後の仕事をはじめようかね。

11/5 「学校現場の負担軽減」と「全国学力テストの成績」(11/3付けの北國新聞朝刊から)

11/3付けの北國新聞朝刊に面白い記事があったので、そのメモを。

 

国学力テストの市町村別平均正答率で、加賀地区において県平均を5%以上上回ったのは川北町のみで、その原因を同町の教育委員会に問うてみたという記事だ。要約してみよう。

  • 小中学校に対して、国や県から、連日のように調査依頼書が届く。内容は学校設備の状況、修学旅行など様々。同町の小中学校は4つに対する年間の依頼数は400件にのぼる。

  • これを「中学校の教員時代に多忙を強いられた中で、大きな負担になっていたのが各種書類をまとめることだった」とする同町の教育委員会課参事が、可能な限り教育員会で回答代行する業務改革を発案した。

  • その結果、同町の小学校校長は「前任校と比べ、驚くほど調査要請が少ない。負担軽減で生まれた時間を教材研究や授業準備に充てることができ、大変助かる」と延べる。
    ※以下、実際の教育現場での取り組みの紹介が続くのだが、そこは割愛。

 

大変に面白い。その面白さをまとめると以下の通りだ。

  1. 学校の先生の残業が多い理由、実は部活動よりも文科省からやってくる各種の調査要請が原因だ、ということを現役の人からよく聞いていた。しかし教員の労働条件改善がようやく取り沙汰されるようになった最近でも、そこがメディアで取り上げられることは、ほぼ無かった。何なのだろうね、これ、と思っていたのだけれど、本記事ではそれがさらっと取り上げられている。
    ※調査要請は家に持って帰るという話も聞くから見えにくいのかね。

  2. その先生の首を絞めている調査要請、文科省のみならず県なども追い打ちを掛けていたのかとびっくりする。調査要請に対する想像力のなさ(この塵が積もったときの山の高さは如何ばかりかと考えてみる力のなさ)は、国も県も同様なのだな。いかにも役人である。

  3. この記事は、調査要請で疲弊する現場を教育委員会が助けようとする事がレアであるのを間接的に語ってしまっている。Newsとは、常ならざる事だ。教育委員会が現場を支援するのが当たり前ならNewsにはならない。記事になること自体が、本件がまれな事である証拠である。

  4. そして、その教育委員会だが、現場との間で人材が行き来している事は一般常識として誰もが知っている。すると、普通の頭を持っている人なら気がつくはずだ。「あれ、どうして本件がレア事象なの。教育委員会が現場の困ったことを知っているなら、普通助けるものじゃないの?」
    ワタシもそう思う。なぜ、これがレア事象なのだろう?

 

約10年前、県の教育系から某私立高校の事務長に天下った人と話したときに、とんでもない事を言われたのを思いだす。

「先生には残業手当が付かない。これは法律で決まっています。だから先生は何時間働いてもいいんです」

昨今の流れから「先生は何時間働いてもいいんです」とは最早言えない。だから本件のような改善も出てきたのだろう。

 

とはいえ、先生の残業代が支払われないというのは、雇用側に業務改善の(負の)インセンティブを負わせていないということだ。3、4に対する答えは

「先生の残業を減らしても、管理指標上の差違は現れない。だから現場のことは判っていても、今現在の自分の仕事を増やしたくない、(無駄な事をしたとして)評価を下げたくない等の理由から何もしない」なのではないかと見る。学校から出向して腰掛けでやっている人などだと特にそうだろう。

まったくげんなりする話だが。

 

とすると、先生に残業代をきちんと払い、雇用側が痛みを感じれば、状況は動き始めるということなのだろうか。以前から実はそう思っていて、本件記事はその傍証となる話だなあと思って読んだのだった。

もちろん、残業代を払う以上は勤務評定も、業務能力の査定が行われるようになる。そして先生にもランクがきちんとついて行く、筈だ。ただの労働者だもの、ちゃんとランキングしなきゃ(※)。

※今の人には信じられないだろうけど、ワタシが中学校に入った頃、教員の能力評価に反発した教員たちはストライキを結構やっていたのだ(当時の争点は主任制の導入だったかな)。自分たちは成績をつける仕事なのに、自分たちがつけられるのはゴメンだぜ、というのは中学生にも感じ入るものがあった。

 

 

しかし依然として謎は残る。

どうして川北町ではそれが可能だったのだろう?

あくまでも個人によるのか?それとも町自体に、それを可能ならしめる何かがあるのか?

 

それを調べるのは今後の課題として、とりあえず今日はここまで。

会社行かなきゃ。

 

 

 

 

追記

以下は今後の考察用の備忘録。川北町のFigureが気になったので調べてみたところを残しておく。

企業誘致で潤っているという話を耳にするが、財政力指数はそんなに高くない。県が出している資料をみると、将来負担利の異常な低さが目に付く(※)。さて、川北町に特徴があるとしたら、それはどこに現れるのか、それは今後のお勉強ということで。

 

※議員、役人の給与の額の低さが目に付くが、突出しているという訳でもない。むしろ財政が悪化している七尾市などが未だに給与が高いままな所に驚いたりしている。

 

 

area-info.jpn.org

石川県/県内市町における財政状況

http://www.pref.ishikawa.lg.jp/sichousien/documents/shityou_kenzenka2018.pdf

石川県/市町財政状況資料集(平成28年度)