all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

6/12 宿題をやった

やらなきゃと思いながら手を出しかねていたこと(宿題)を立て続けにシュートしたので記録を残す。

なるべく手短に。

 

1.Moonridersの新譜

 

まさか新譜が出ようとは。

あんまりありがたすぎて、4/20の発売日に入手したものの今日まで聴いていなかった。

いや、大丈夫だと思うんだけどね、でも、ほら万が一ということもあるし。

 

 

ようやく意を決して聴いたのが本日、6/12。

まったくの杞憂でした。誠にもうしわけない。最高です。

老いではなく成熟を。経験と蓄積に振り回されて焼き直しをしてしまうのではなく、経験と蓄積を使い回して新しいものを作り上げるということを。集大成として形をなしていこうとするのではなく、なお完成に向かわず広がっていこうとする様を。

そういう事を最初から最後まで突きつけてくる、ある意味おそろしいアルバムでした。

いや最高なんですが。

 

ファンでよかった。40年以上付き合い続けてて本当によかった。

prtimes.jp

よりにもよって、なぜPRTIMESの記事を使うか。

ここに出てるってことは、自力投げ込みじゃなくて@pressとかそういうプレス業者使ったんだろうな、それって面白いなと思ったことの備忘録として。

 

ともあれ、ついていきますどこまでもと思いを新たにしたのでした。

 

 

2.シンウルトラマン

 

これも5/13の公開からずっと寝かせっぱなしで、昨日ようやく観た。

ウルトラマンだと思わなければ最高に面白いというのが感想。SF映画として非常によくできてました。オチも暗いしね。

またウルトラマンという系に定義を与えるという試み(おそらく制作側の意図はこっちでしょう)としても出来がよい作品だったと思います。定義に対する証明も適切に与えられていたのではないかと。

 

----

もともとのウルトラマンは走りながら作られていたものであって(しかも、未踏領域の先頭走者なのであって)、一貫性とか作品としての主張なんてものがあるとは思っていないーこれがセブンになると大いに変わってくるのだけれど。

なので、ウルトラマンが好きという言説は眉に唾して聞かなければならないと思っている。みんな、それぞれの好みの点、せいぜいが線の話をしてくるからだ。ウルトラマンという「作品」を語るという人を見たことがない(金城哲夫というフィルターでウルトラマンを捕まえた気になるのも、やはりどうかと思うのだ)。散見される批判的な映画評はほぼこのパターンに終始している*1

 

作品としての一貫性がないとは、言い換えれば活用可能な隙間が多いことでもあるのだけど、当の円谷がシリーズ化してしまったせいで(しかも「帰ってきた」など早期にリブート手法を取ってしまったために)、当のウルトラマン自体の隙間は放置されっぱなしで今日に至っているとみている。もちろんその隙間、もっとはっきり言えば混沌の故にすべての派生作品は成立しているんだけど、この土台のうえにさらに建物を建てていくのはやはり厳しい。

今後もウルトラワールドを続けていくなら、なぜ何かと合体した人間が巨大化して戦わなければならないのか、この問いが成立する基盤を用意する必要があったということだ。

 

そのような背景をもとに、既作を包含可能であり、かつ新しい作品を建設可能な土台をつくるという難題に挑んだのが本作だとみている。

----

 

と勝手に思っています、シンウルトラマン

そこからスタートすれば、あのシナリオはおそらく必然。

話を詰め込みすぎという評をあちこちで見るけど、これ以上どうやって薄くすると言うのか、君たちはウルトラファイトが見たいだけなのではないか?なぜだか日本にウルトラマンがやってきて、アレコレあって別れがあって、そしてこのあと地球防衛軍が出来るという事に筋を通そうとすると、これ以上の答えはなかなか思いつかない。

特に日本でなければならない事について、間接的にだが説明がついたのはびっくりした*2

またウルトラマンの最終回にある希望と、ウルトラセブンの極めて暗い世界観の断絶が本作でうまく整合されたのは何よりだと思っているーセブン派なので。

ウルトラマンの最終回の先にはウルトラセブンは来ないと子供のころからずっと思っていて、もしそうなるならその途中に悲惨なエピソードがなければならないのだけど、それをどうやってウルトラの力なしで凌ぐのかという神学上の問題に悩まされていたのだ。

しかしシンウルトラマンの終わりはそうではない、そのようなエピソードがなくともセブンの世界はやってくるのだ。かくて世界には一貫性と整合性がもたらされたのだ。

非常にめでたい。

もしや、シン帰ってきたウルトラマンやりたさの基礎工事ではないのか。そのような事まで思ってしまった本作だった。そしてそれが可能になる整理だったと思う。

あとは寿命だけだな(Moonridersとつながる話でもある)。

 

 

そして最後に。

「わたしのすきな」SF映画になったのは、必然なのか、それとも僥倖なのか。人間が描けない監督であった事が人物の書き割り感を増し、結果的に「あの」SF映画っぽさが出たのではという気がしています。

僥倖が7で必然が3くらいの感じですかね。

 

*1:セクハラというのも散見しますが、エロシーンに対してセクハラと言うのってよくわからない。(ボキャブラリーの貧困という意味で)バカなのか、(それが有効な言説だと思うという意味で)本当にバカなのか、それとも単にナイーブなのか(まあ、これもバカということなのですが)。誰から誰に対するハラスメントなの?映画があなたにハラスメントをしているということなの?やっぱりよく判らない。エロシーンがいやだというのは全然OKなんだが、こういう馬鹿な物言いは誰かにしつけて欲しいものだと思う。上野千鶴子先生?いやいや、あの人は目的の為には手段はすべて許されるというところに回帰してるので、そのような言説をすべて肯定するでしょうとも。革命の理念が否定された年寄りほどみにくいモノはないと思いますな。

*2:今日のお昼に北極のランチの持ち帰りを食べていたときに家人といつものごとくアレコレ話をし、当家では使わないUber Eatsの話からチップ制に話題がころがり、そもそもヨーロッパだとチップだけでくらす人が普通にいるよねという事につながり、そのチップの扱いを個人が勝手にするのか、一旦お店に集約するのか二派あるよねという話になったときに、お店に対する信用ってどうやって形成するのかね、いやそれ以前に境界線というのが双方が押し合って始めて定まるという国に住んでいる人と、四方を海に囲まれていて境界線が天然自然のものだという国に住んでいる人だと信用とか他人の意図に対する仮定の置き方ってきっとずいぶんちがうよね、とかなんとか。そこまで話をしたところで、やはり日本は地理的にナイーブになりやすいのか、そりゃビリヤードの手球に使いたくなるわな、と突然つながったのでした。ザラブもメフィラスも、日本国のことを徹頭徹尾手球としてみていたではないですか。便利なんでしょうね、そこそこに発言権があるナイーブな国は。