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記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

10/15 グッバイ・ゴダール

日中は打ち合わせのため福井行。夕方金沢のオフィスに戻り、翌日からの出張の準備。それから某所で軽く喉を湿らせたのち、シネモンドで20:40から上映のグッバイゴダール鑑賞。

 

 

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ゴダールの真似は、普通であればゴダールごっことして酷評される事になるが、ゴダールを題材にした映画であれば演出ということで済んでしまうのだ(※)。ということで本作を乱暴にまとめれば、ゴダールをなぞるためにゴダールを再現する、またはゴダールを再現するためにゴダールをなぞるというアプローチでもって、ゴダールをスクリーンに定着させようとしていた映画であったと思う。
※「第四惑星の悪夢」は...アレは本歌取りということにしておきましょうかね。

 

ストーリーはゴダールの二番目の妻であった(※)アンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝的小説を基にしたものなのだけれど、そして監督は「ゴダールはテーマでもないし、伝記映画でもない。まぎれもないラブストーリーを描きたかった」と語っているのだけど、しかし一観客としては、「ゴダールが商業映画を捨てるに至ったのはなにゆえだったのか」という謎を巡る運動にしか見えないのだ。
※ところで、妻という言葉を綴ることは、まだ許されているのだったかしら?妻という漢字自体が差別を孕んでいるのだ、として辞書から削除されたのではなかったかしら?

 

それでも、最後のシークエンスで「簡単なことよね。政治か、映画か、どちらかを選んで」と映画のスタッフから問われたゴダールが「多数決に従うよ」と答えるところがなければ、まだしも質の悪いラブストーリーとして成り立ったのかもしれない。愛の破綻はラブストーリーの範疇にあるからね。
でも最後に描かれてしまう、多数決=政治を取ると答えなければならない頭の良さ(そうせねばならないと整理をつけてしまう頭の良さ)はラブストーリーを崩壊させる。執着を選ぶことができない人間を片側において、どうしてラブストーリーが成り立つものか。執着とは愛の別名なり。

 

本作の監督は嘘をついている。これは「ゴダールの解体」を巡る映画でしかない。

 

もちろんその「ゴダール」は本物のゴダールではなく、神話としてのゴダールなのかもしれない。しかし、その真実の度合いは問題ではない。ゴダールとして了解されているものが解体していくとしたら、それは情動によるものでもなければ、ましてアクシデンタルな出来事の集成でもなく、どこまでも「頭の良さ」という重さを個人が支えきれなくなるという重力縮退の過程でなければならないとの我々の思い込みを、この映画が余すところなく引き受けている事こそが重要だ。映画を撮る才能に満ちあふれていて、才気煥発、しかし冷笑家で口うるさく、嫉妬深く、物事を極端に捉え、現実を見ず、あと何だろう?、まあそのような個人であるジャン・リュック・ゴダールさんが、思考が発生させる重みを支えきれずに解体していくという過程が、我々をして「そんな気がするねえ、そうして商業映画を捨てたんだねえ」という感慨を抱かせるのである。


もちろんステイシー・マーティン演ずるところのアンヌ・ヴィアゼムスキーは一貫してチャーミングであり、

画面はスタイルのみならずゴダールへのオマージュにあふれており(例えば途中に出てくる南仏の海は、もしや気違いピエロでフェルディナンとマリアンヌが隠れ住む別荘のあたりではないのか?)、

子供の頃に知りたくて仕方なかった五月革命の再現はワタシの心をわくわくさせ、

でも結局のところ、この映画をドライブしていたのは、湧き上がる妄想に苛まれて至るところにヴィエトナムを見いださざるを得なくなってしまった男の言行であって、彼が自分を解体していく過程こそが、この映画を律する時間である。よって彼が解体を完了したときに映画は終わる。その観点からしても、「ゴダールの解体」が主題の映画であったと言わざるを得ない。

ちなみに、実際にゴダールアンヌ・ヴィアゼムスキーが法的に離婚を完了したのは東風の撮影から更に一年の後のことだ。東風の撮影とともにすべてが終わったというのは映画的な潤色でしかなく(自伝的小説になんと書かれていたのか調べなければならないが)、そのような創作が必要であったということも、主題を指し示す傍証とみるべきだろう。

 

 

という長い前説を経て、本作に関する感想を述べる。

最後の、東風撮影のシークエンスによって救われる映画。よかった、着地できて、つじつまがあって、という感じ。ラブストーリー? 知らねえな。それよりは解体であり、ループからの脱出だ。

ただし、そこに至るまでの所は相当につらい。席を立とうかな、と思ったりした瞬間もあった。

それを押しとどめたのは画面の力であって、映画の力は確実に高い。ただし主題が主題なので、きっと一般受けしないのだろうなあ、と思いましたことです。

 

しかし、どうやら本作はスマッシュヒットしているらしい...。

みんなトレイラーにだまされてるのか?

 

 

 

 

映画終了後、某所でちょっとだけ飲んで、それから帰宅。こういうところが、大きめの地方都市の中心部近傍に住んでいることのありがたさだ。映画をみて、酒をのんで、日付が変わっても、さらっと家に帰れるのだ。

 

帰宅後は歯を磨いて1:30に就寝。出張の荷造りは起きてからとする。

 

 

追記1

あ、グッバイ・ゴダールでもう一つ書き残しておかねばならない事が。

史実なのか、それとも創作なのかはさておき、夫婦に関する「ゴダール」の見解の表明に、ああそういえば昔の人だったよなあ、との感慨を抱いたのでした。60年代とは「ヴィエトナム」は気になっても、「女性」というものは未だ政治化されていなかった時代なのだ、というのがよく伝わってきました。

(これ以上は自粛)

 

 

追記2

上で、

もちろんステイシー・マーティン演ずるところのアンヌ・ヴィアゼムスキーは一貫してチャーミングであり、

と書いたけど、これはステイシー・マーティンという女優がよかったということではない。いや、女優としてよかった、と言えばいいか?

女性の顔を思い出して見分けることが壊滅的にだめで、しかも年々ひどくなってきているワタシにおいて、チャーミングとは

  映画を見続けるのに必要な動作(表情を含む)を画面上に残している

との認識を生起したということであって、実際に顔がどうだったかなどは見るそばから消えていく。何らかの障害なのかと思うことすらある、爽快な消えっぷりなのだ。

 

ステイシー・マーティンニンフォマニアックに出ていたのだという。Vol1,Vol2ともに同じくシネモンドで観たはずなのだけれども、まったく、これっぽっちも顔が思い出せない。この調子なので、普通は名前も覚えない(!)。ニンフォマニアックの時に名前を覚えなかったのは、それほど「チャーミング」ではなかったからだ。

 そして/しかし、今回ステイシー・マーティンの名前を覚えてしまった。「チャーミング」だったからだ。きっと何年かののち、別の作品でステイシー・マーティンに感心することになるのだと思う。なぜって一度「チャーミング」になってしまった人は、別の作品でも容易にチャーミングになり得るからだ。

 

というわけで、いずれ何らかの映画でステイシー・マーティンをみて、感心して、その名前つながりでグッバイ・ゴダールを思いだす事になるのだろう。そして/しかし、やはり顔は浮かんでこないのだ。