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記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

8/28 夏休みの読書感想文(1)

今年の夏休みに読んだ本の感想を忘れないうちに残しておく。

 

まずはこれ。

 

保阪正康 著 「吉田茂 戦後日本の設計者」 (朝日選書)

 

資料のまとめとして読むと面白いが、保阪正康吉田茂の内面を想像したり、また歴史的観点(!)とわざわざ銘打って吉田茂の行動の限界を語る事によって、保阪自身の限界が言外に語られてしまうという残念な本であった。

 

まずはその記述内容の問題を。

定見のない報道が事態を混乱させる状況を書いておきながら、それに関して主権が民衆に移ったことをしない吉田茂は云々と評するのをみると、相当に偏った眼鏡をかけておられるのが判る。

この人の「昭和陸軍の研究」は、それでもまだ面白かったのだけどなあ...と思って、本棚から取り出してパラパラめくると、おや不思議。昔は面白いと思った本なのに、今よむととても浅薄な印象を受ける。

 

その理由は「吉田茂 戦後日本の設計者」と対比してみると判るような気がする。

戦前は言論の自由がなく、戦後にはあったという通説は、しかし本当なのだろうか。たしかに言論の自由はなかっただろうなという気はするが、しかし言論がなかった訳ではなく、また国民が「正しい」意見を表明することが出来なかった訳ではない。むしろ国民の求めるところに応えようとして政府(や軍)が身動きが取れなくなっていく、選択肢を失っていく課程として昭和史の前半を読み解くことは可能な筈だ。「正しい」意見を持たされた国民が、政府・軍とともにデフレスパイラルを回した、運動の軌跡という捉え方だ。

ところが保坂の書くところでは、国民に責を置く視点が一切欠如している。陸軍という特殊思想を持つ(しかもそれを世代を超えて継承する機構を具備する)「悪の集団」が問題を引き起こしました、極端にいうとそういうまとめ方になってしまう。それは吉田茂についても同じで、民主主義を理解できない保守主義者(明治維新からの一貫性を追求する尊皇主義者)が行ったことには妥当なこともありましたが政治的な負の遺産はやはり問題です、吉田に対して保坂の言っていることはそういう事でしかない。どちらの本においても、常に国民は無辜のまま、誰かがやったことを、その誰かの内面のロジックからだけ語ろうとしているのだ。

 

それは馬鹿げている。当然内面のロジックはそれぞれにあるにせよ、ある行動は外部・他者との相互作用の結果として生じるものであって、すると政治領域において活動するプレイヤー(プレイヤー集団)を書くのであれば、そのプレイヤー最大の外部・他者である国民が書かれないという視座の有り様はまったく理解できない。

というか、理解できなくはないのだ。国民を無辜のまま、イノセントなままにしておきたいというのが保坂の最大の欲望...しかも本人も自覚せざる...だとすれば、まあ整合性はある。戦後民主主義による教育(って広いな、1946年から1970年までとしておこうか、とりあえず)を受けた人たちに散見される傾向でもあるし、それほど突飛な話でもないはずだ。

 

そして内容のみならず、その記述のスタイルにも大いに問題がある。

吉田茂 戦後日本の設計者」は全体の2/3を過ぎたあたりから読み進めるのがツラくなる本でもあった。行間から抑制的に語るという態度をいよいよ放棄して、保坂自身が直接的に語りだすからである。

主張したい事の是非はさておき(個人としてはゴミだと思ってるけど)、本書とは分けて、まとめて主張を添えるくらいの慎みがなかったものだろうか。米びつに砂をまかれた(しかも著者自ら!)感があり、まことに残念。

この人、調べてきてまとめるのはうまいのにねえ。

...もしや著者本人もすべてを理解していて、ある種のプロパガンダとしてわざわざこれを書いた、という事もないと思うのだけど、まさかねえ。

 

 

結論的には、夏休みにふさわしい一冊。どうでも良いことを考えることこそ夏休みの醍醐味であって、

 

  ああ、これはすごく役に立った!蒙が啓かれた!!

 

なんてのは夏休みの読書としては失格だと思うのだ。ちょうどよいダメ具合であったということである。

 

(しかし、保阪正康が「良心的な書き手」とか言ってる人たちって...)