all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

4/12 コロナ対応休業に対する補償要求に見る日本国の圧倒的な劣化、もしくは『民意と言われるもの』との対峙を避け続けてきた事への諦観

と、すごく大げさなタイトルだけど、残しておきたい記録は割とシンプル(である筈だが、しかし)。

 

 

政府や地方自治体に対して休業補償を求める声が喧しいが、なぜ補償なのだろう?

 

補償というのは『損害・費用などを補いつぐなうこと』であり、政府や地方自治体が今回の災禍を引き起こしたのではない以上*1、償いをする訳にはいかないのは自明であって、その無理な行為の要求が日本中で澎湃しているがごとき各種報道は何を言わんとしているのだろうかと非常に不安になる。

 

困っている人、事業者は大声で支援を求めれば宜しい。ワタシも困れば声も上げるし、その声量の拡大に努めるために目的ベースの連帯を見ず知らずの他人とも結ぶだろう。

しかし事業主であったり、給与所得者であったり、自営業であったりする国民*2が、債務の履行(そう、補償というのは債務の履行だ)を国や地方自治体に求める根拠はどこにあるのだろう。

 

 

考え方はいくつかあり得るけど、どれもこれもすっきりしない。

  1. そもそも救済を求める人々の国語力の著しい低下。
    補償要求が債務の履行だと思っていない、という可能性はなくもない。
    しかし各種ニュースメディアの人々が同じく補償と言っており、彼らがこの言葉が債務の履行を意味することを知らないとは考えにくい。であるので本人が何と言っていようと国語的な誤りは訂正するだろう。『それは支援要請ですよね?』と。よって単なる国語力の低下に基づくものだとは考えにくい。

  2. そもそも救済を求める人々は休業要請への対応をもって権利義務関係が確定したと思っている。
    そして、その権利義務関係の範囲で補償を要求することができると考えているという可能性もなくはない。
    でも要請とはお願いのことであって命令ではない。緊急事態宣言のときに散々もめた話であって、現在の日本国憲法の元では私権の制限には著しい困難が伴い*3、だから政府からでるものは基本的に『お願い』であって、それによって政府側に債務が発生する訳ではない。

と思っていたら、様々な仮説(と言っても上に書いたような与太なので、hypothesisではなくてassumptionだ)を収斂させるような情報となる記事を見つけた。今までは対応する事象が茫漠としていて、論の変数に束縛される値が不明だったのだが、この記事では何が対象となるのかがハッキリしている。政府高官(って誰だろうね)の発言に対するコメント記事ではなくて、すでに決まった事をどう読み解くかという記事なのだ。

 

toyokeizai.net

休業事業者には「感染拡大防止協力金」の名目で補償を行う。

 

 

記事を読むと、記事の筆者が権利義務関係がない事柄に『補償』を当てはめることを何らためらっていないのが判る。補償と聞いた時に、それはどのような根拠に基づくのか、それは権利義務として甲乙が認識しているのか、ということを考えるのがすべてのスタート地点なのだけど、そのような視座から状況を整理して伝えようとしていないのだ。あらビックリ。

 

国と国民の関には、1)自由権と、2)生存権という基本的な約束があり、前者においては国民の側にも自助努力が求められるし*4)、後者に対しては国民は履行を求める権利を有する。のだよね?

支援と補償の区別がつかないということは、自由権生存権の境目が判っていないということで、それは憲法改正とかそんな事以前の、相当にバカげた状態なのだけど、無辜の*5国民だけではなく、特権的な地位にある各種ニュースメディアまでがそのような事にお構いなしの情報*6を垂れ流しているのは理解に苦しむ。特権的な地位には、それに伴う義務がつきものだ。権利義務に基づく要請と、お願いという事の間に横たわる距離についての説明をするのは、特権的な地位にある各種ニュースメディアの義務なんじゃないの?

 

 

などと書いていると『無辜の民』を巡る綱引きの反対側である政府や都道府県レベルの地方自治*7がまるで無罪であるかのように見えてしまうのだけど勿論そんな事はなくて、原理原則から物事を考えるという習慣を国民から奪うことに熱心であったのはそもそも彼らの方が先だ。その伝統は今日、このような状況に至っても止むことはなくて、厚生労働省が発信する国民向けの情報の貧しさ、乏しさがそれを裏付けてあまりある*8

 

しかし権力とはそもそもそういうものであって、だからこそニュースメディアやジャーナリストはそれと向かい合い続ける為に、検証可能かつ論証可能な、そしてその読者を啓蒙*9するような情報の発信をするものだと、ワタクシは脳天気にもそう思っていたのです。まことにナイーブな事です。しかし社会の維持・発展ということに対してジャーナリズムを選択した彼らが責務を持つのだとしたら(感ずるのだとしたら)、それ以外の方途はちょっと思いつかない。

もちろん読者の理解力はベルカーブどおりの分布だろうし、その分布のどこに水準点を置くのかは議論があってしかるべきだけど、今次の報道に見られる説明のレベリングは社会の維持・発展に資する事を意図しているとは到底思えない。要点をかみ砕いて整理して伝えることによって、みんながそれぞれの意見を持てるようにするというのは君たちの責務だったのではないの?

 

70年代に凋落が始まり、ポストモダンの80年代にとどめが刺された『権威主義に基づく啓蒙思想』に代わってこの30年の日本を覆っていたのは『ベルカーブの半分から下の人間を首肯させるポピュリズム』だったというのがワタシの大きな認識なのだけど、それもいよいよ終着点というか極限値にたどり着きつつある模様。ジャーナリズムまでが迎合どころかそれを加速させているのだから。言葉の意味一つ整理して伝えられないのにジャーナリズムと名乗って恥じないのは、いわゆる一つの退廃であり、最終局面の現れとしか言いようがない。

(ああ、ちょっと端折りすぎた。啓蒙思想が殺されたのは、本邦における基本的人権の特異的な強さあっての話なので、この30年の流れは1947年にすでに準備されていたと見ています。権威主義だけを殺し、啓蒙思想を生き残らせるという選択肢をそのとき作り出せなかった理由も同じです。なので、最終局面というのは30年の最後ということではなくて、戦後日本の最終局面ということです)

 

メディアやジャーナリズムがある種の党派性に基づく工作を企んでいるという陰謀論をネットで見かけるけど*10、残念ながらその可能性は低そうだ。知的及び道徳的退廃に比べれば党派性に基づく工作の方が一億倍も健全だし、「善良」だ*11とシニックではなく、本心からそう思っているワタシだけど、しかし残念ながら、メディアを覆う論調や言葉遣いの揃い具合から考えると、陰謀よりは退廃の方が説明としてより自然に思える。陰謀以前にバカなのだ。

 

さて、今度の国難は日本国を袋小路から脱させる契機になるのだろうか。心配すべき次世代を持たない身としては、今が歴史としてどのように整理されるのかを見られない*12事を心残りに思うだけだと無責任に言ってしまえるけど、まだ若い人や、子孫がいる人はこれからますます大変だろうな。

何しろ、問題をみんなで解決するための土台というのを、長い時間を掛けて腐らせてきちゃったんだから。これから先、現在のモーメントのままポピュリズムで右往左往する国に落ち着くのか、はたまた反動で支配層に丸投げの国に戻るのか。それとも、その二つの奈落の間の、細くて険しいけど出口のある道を歩んでいけるのか。色々と気になっちゃうけど、しかし。

*1:個々の活動について後で行政訴訟を起こされる可能性は勿論存在するが、現時点において災禍自体について特段の意図があったり、重過失があったり等を断定することはできない。

*2:すなわち、すべての国民ではないことに注意。

*3:なので、共産党が言い立てている私権を毀損する行為なぞやりようもないのだけど、もしかして彼らはワレワレが想像もできないような法律ハッカーを飼っていて、法や制度の穴をつく攻撃方法を想定しており、ただその知識を展開すると悪用される恐れがあるのでその事については語らず、ただ危険についてのみ警告を発するというある種理性的な態度を取っているのだろうか。ハハハ、否定されるまではどのような事でも可能性として列挙することが可能なのだ。

*4:もちろんその結果に対して援助・支援を求めることはOK。ここを求めてはいけないというのが俗にいう『自己責任論』だが、自由権から自己責任論が導かれるというのはどういう論理に寄るのかが全く理解できない。

*5:と書いて何と読むのかは秘密。

*6:あれを報道と呼ぶのはどうだろう?

*7:市町村レベルの自治体は..レベルがアレなので、彼らを気にしても無駄でしょう。市町村という行政単位は、全てを都道県で所轄するわけにはいかないから存在しているだけの擬制である位に思ってないと付き合えないです。要するにその土地の利権の表出に過ぎないのであって...。

*8:なんぼなんでもアレはないやろ、と厚生労働省のサイトを眺めてる度にゲンナリする。

*9:問題の多い言葉だけど、そういうしかない。

*10:しかも笑ってしまうことに右派、左派の両方がそう主張する

*11:その結果として訪れるものが健全、善良であるかは勿論別次元だけど。

*12:だって歴史が定まるのって30年くらい掛かるのでしょ?