all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

5/10 続、元号のこと (5/31訂正)

はてなからのアクセス来てますぜメールに促されて自分のブログを見に来てみれば、アレ3/7以来何も書いてなかったんだっけ?そうかもしれない。腰に神経痛が出て立てなくなったり(老後に備えたリフォームをしててよかった!)、アレで何か書けたらそれはそれでスゴイなあ、と思うくらいのアレになってみたり、と七転八倒の二ヶ月だったからね。

  

 

さて、見に来たついでに、ほったらかし(投げっぱなし)であった元号のことをちょっとだけ書いておこう。この二ヶ月の間にも更なる情報が投入され、だいたい話の帰結も見えたことだし。

 

まず新元号の発表は、来年の2月24日以降となることが確定したのですね。すると対応に要する時間は、最長で二ヶ月。

さて、二ヶ月でシステムに対して出来ることは何か。予め判っている修正箇所に対して新元号の文字列を入れることはもちろんOK(①)。しかし、だからと言ってそれでOKとならないのは当然で、動いているものに手を入れたら修正確認は必須(②)。今回のような場合、プログラム修正よりも確認の方がコストを食うだろう。うん、確かにそれだけでは二ヶ月かからないんじゃないかな。

自分でシステムを作るユーザーも希になった2018年においては、多分誰かが(ITやさんが)システムを作ったり、メンテしているのが普通だ。だから、新元号対応のためのプログラム修正を完了させたと業者が言ってくる時の事は考えておくべきだ。もちろん彼らは自分達で修正結果の確認を済ませている(だろう)。では、それを鵜呑みにする?まともな会社ならそんなことはしない。受入確認というのをやる。大まけにまけて、業者がやった修正確認の結果データをチェックするにとどめるかもしれないけど、なにしろ検収作業をするのが普通だ(③)。さらに時間が溶けていく。それでも、受入側の事前の準備がちゃんとしてれば、二ヶ月の枠でやりくりするのは十分可能だ。

 

では、リアルに向かってもう一ひねり。新元号を扱うそのシステム、元号処理自体は外部から調達したライブラリやミドルウェア(※)で行われていると考えてみよう。西暦/和暦の変換ルーチンなど、それぞれのシステムがロジックを抱えるなどというのは(車輪の再発明という意味で)馬鹿げている。普通のシステムなら、かなり当たり前の話だ。

ミドルウェアの説明を懇切丁寧にしようと思ったけど力尽きてしまったので、知らない人は各自ググってクダサイ。

ライブラリ/ミドルウェアの修正処理(①’)と確認(②’)が終わると、対応成ったライブラリ/ミドルウェアが、その利用者である実際のシステム側に配布される(④)。そこからがシステムの動作確認の始まりだ。

つまり①+②+③+④の期間で新元号対応ができる訳ではなくて、場合によっては①’+②’+④+①+②+③や、①’+②’+④+②+③の期間が必要になる可能性があるのだね。さて、これは二ヶ月の枠に収まるのだろうか?

 

もちろんこんなことが判らない程、お役人はバカな訳ではない(政治家はバカかもしれないけど)。判っていて、その事をほったらかしにしているのだと思われる。何故か。

実は新元号対応処理の仕事は、既にばりばりと発生していて、IT屋さんの忙しさに輪をかけている。なぜそんな事が可能かといえば、今発生している新元号対応というのは、和暦を使うのを辞めて全て西暦に倒すという仕事だからなのだ。なのです。

本来ならば有ったはずの時間的な余裕をバカな政治家達が無為にすり潰した結果として、和暦とお別れすることをワレワレ下々は決意しております。さようなら和暦、もう君を構っている暇は無いんだ。そんな感じの仕事がアチコチでうごめいている。

 

まとめればこう。

元号の対応は簡単で、二ヶ月もあれば十分、という政治家の馬鹿な発言は、お役人がレクをしないからだろうし、なぜしないかといえばこの期に元号離れを加速させようとする意図がお役人にあるからだろうと睨んでいます。

まあ、良いんじゃないでしょうか。こうやって、本邦固有の事情というのは少しずつ解消されていくのです。

 

ホントに? 多分ね。

 

 

追記

ほったらかしのブログのアクセスが動いたのは、TOTOの延長保証について述べたエントリが何故だから引っかかったからなのでした。

泡沫の世界だと、思わぬモノの擾乱を受けますな。ミクロの世界だと支配的な力が変わるというアレっぽい。

 

 

追記2

あ、テクニカルな話を書くって宣言してたんだった。ザックリ書いておく。

日本国政府が出来てからの元号は、㍾、㍽、㍼、㍻のように組文字表現の字形をもっている。これらの文字コードは扱いやすいように連続した領域に割り当てられてる。ところが、㍻の次に空き領域がないので(すでに別の文字が割り当てられているので)、新元号の組文字は全然別の文字コードに割り当てられることになる。まさかとは思うけど、元号組文字の文字コードの連続性に依存しているプログラムがあると、そこは単に定数を変えるだけでは済まないので面倒な事になる。頑張って直せよー。

でも、もっと笑っちゃうのが、いつか天皇が変わるのは自明なんだから元号組文字の領域ってリザーブを10文字(10世代分)くらい押さえておくという智恵は無かったのかね、ということだ。それとも元号が変わることを想定してアレコレやるというのは不敬な事なので避けたのかね?まさか?

 (5/31訂正)

上の打ち消し線のところ、事実誤認でございました。お詫びエントリをあげたので、詳しくはそちらを。

septiembreokbj.hatenablog.com

 

3/7 判りやすいというのは、例えば明快な指標が設定できるということだ。

tech.nikkeibp.co.jp

ブクマが貼れなかったので、自力で記録を残す。

大変に明晰な記事。EROI(Energy Return on Investment)という指標でエネルギー生産を評価すると、遠くない将来に危機が訪れるという事が判る(記事の中ではそこまで刺激的な言い方はしてないけど)。

こういうワクワクする記事を見てると、寿命はいつ尽きても構わないにしても、生きてればそれなりに面白いものが見られそうだという予感がするじゃないか。ありがたい事なり。そして、こういう明晰な予測というのを、自分も自分の分野で是非やりたいとも思う。すこし欲が出てきた。誠にありがたい事なり。

 

あ、新元号対応の面倒さを解説する記事は書き進めてますんで、明日の午前中には何とか。これが書けると、きっと棚ざらしになってる異体字も書けるんじゃないかな、とか何とか。

3/6 忖度、しかも超大型

news.livedoor.com

 

IT業界ナメンナヨ、という感じ。そりゃブラック企業は減らないわ。発注者側の意識がコレだもの。直前仕様変更と同じレベルのクソっぷり。準備は進めるけど、間に合うとか思わないでくれよ、日本国政府

正にクズの判断。

 

この話の中核は、「失礼だ」という忖度にある。去年、その言葉を大いに使ったものどもは、本件についてもその非を大いに詰るべき。これを忖度と言わずして何を忖度というか。

いや、忖度したけりゃ、すれば良いのだ。その忖度が通ると根拠なく思い込んでなければ。滅びゆく国らしい馬鹿げた話だが、さて本件、どのくらいの人間が「アホちゃうか?」というか。ITの常識もない、取り残された国だから、みなさん「はあ、左様で」と首肯するのみかな。少なくとも、マスコミはそうだろうナ。

 

 

(3/7追記)

社内メールをのぞいたら、さっそく悲鳴が。

そして新聞系の報道では、本件は完全にスルー。正確には代替わりに関する報道はそれなりにあったものの、新元号発表が更に遅れるという話はスルー。そもそも2019年に入ってからの発表があり得ないということをマスコミは理解してないのだね。

さらに業務システムに関わらないIT系が後ろから刺してくるという状況が悲しみに拍車をかける。

テクニカルな詳細は次のエントリで。

 

3/5 au光で地デジを見る

(Oh、下書きが公開されていたよ。急ぎ正式版と差し替えるモノ也)

 

3/3から急性腰痛症でほぼほぼ立てず、寝込んでいる。トイレにも這いずって行く始末で、やることが無いからアレコレ考える事になる。例えば、自分の後始末のこととか。

痴呆症が始まったり(これは若年性でも)、年金受給開始以降に寝たきりになったりしたら、寿命ということにしてほしい。年金や医療費の総額も減るんだから、ぜひ国にはターミネーションに関する面倒を見てもらいたい。そのとき一人暮らしなら、遺産を全て国庫に納めてもいい。家人が何というかはさておいて、自分の面倒が自分で見られなくなったら寿命でいいじゃないか、と言うのがワタシの結論のようだ。そして、安楽死の法制化はどうやら間に合いそうもないので、自分で準備を始めなきゃな、とも。このように、時々寝付くのは人生の方針確認に大いに役立つのだよね。

 

 

もちろん、寝返りもうてずに布団に横たわっている間じゅう、そんな事ばかりをグルグル考えている訳でもなく、ネットの旅で時間を潰すことが主であるのはその通り。21世紀の日本でよかった。

テレビ?テレビはそんなに見なかったところに持ってきて、去年のリフォームの時に室外アンテナを取っ払っちゃったので(カッコ悪いじゃん?テレビアンテナ。壁に穴を開けるのも嫌だし)、映りが非常に悪くなっている。するとますますテレビを見ないというデフレスパイラルが発生し、たまに見るニュース番組の時間単価が一万円くらいになってたりして愕然とさせられている(五ヶ月で一時間見た実績に基づく)。

テレビを捨てるかという議論もあったのだけど、

  1. チューナーレスでまともな画質の大型ディスプレイがない
  2. ネットで情報を適時発信すべきだと言う常識がない、遅れた自治体の地方に住んでいると、今年の大雪のような時にはテレビくらいしか情報源がない(でも、それの受信が一万円/時というのはなあ…)

等の理由によって今のところテレビからの卒業を果たせずにいる。

 

さて時間単価一万円のニュースを見るという倒錯した状況を改善するために逆に考えてみよう。毎日15分ニュース番組を見るとすると(それ以上は時間がもったいない)、月に450分の視聴という事になり、時間単価は300円程度まで低下する!NHKに一方的に搾取されている感を解消するためには、何らかの方法で受信品質を改善して、1日15分のニュース視聴を行えば良いのだ❗️(※)

※ ここを含め、❗️が付いている箇所は頭のオカシイ主張をしているという認識があります。大丈夫、いまは正気です。

 

自前のアンテナを持たないなら、あとは誰かに放送をデリバリしてもらうしか無い。と言ってケーブルテレビに入るのでは本末転倒だ。元を取るために、貴重な時間を番組視聴に割かなければならない。ここに妙手があって、NTTは光への地デジ再送サービスを月々660円で提供している。この1月に固定電話をやめたので、その費用を振り向けたと思えば、何となくつじつまが合う。何しろ、時間単価300円でニュースを見て、放送法と自分の折り合いを付けるのだ❗️

 

コレが、その再送サービスだ。

flets-w.com

さて、申し込みをしようじゃないか、とサイト内を探索すると、何ということか、北陸三県ではサービスが開始されていない。何だろう、この適当感。キャリアはサービスレベルの平準化が大前提じゃないの?上等だよ、キャリアチェンジも辞さないぜ。(「上等」、「ぜ」...なんだか脱抑制っぽいのは、起床不能という特異的な状況への防衛反応だと思うけど、たしかに芸風が荒れている。そうか、病院で嫌われる患者さんというのはこういう事もあるのか、と妙に納得。まて、ではこれを書いている視座は?)

 

そういう訳で、auひかりへのキャリアチェンジに関する情報を、ネットでいそいそと調べ始める。auの新規(および乗り換え)ディスカウントはNTTに比べて渋いのだけど、今回は地デジ再送が主眼なので、そこは損をしなければ良いと割り切る方針だ❗️

 

  

そして見つかったのが、このページ。「au ひかり 地デジ」で検索すると最上位に出てくるものだ。眺めて、是非驚きを共有して欲しい。

kddi-hikari.com

auひかりをご検討されている方でいろいろ調べていたら、auひかりで地デジを見ることはできないということを知り、不安に思われた方もいらっしゃるかもしれません。でも、ご安心ください。アンテナを設置すれば、地上デジタル放送もBSデジタル放送CS放送も視聴は可能です。

 はあ?

auひかりは地デジも利用できちゃう

auひかりは地デジも利用できちゃう

auひかりは、地上デジタル放送やBSデジタル放送には対応していません。しかし、地デジアンテナとBS/CSアンテナを取り付ければ視聴が可能です

アンテナを取り付けることで、実は大きなメリットがあります。設置時はアンテナ設置などの費用がかかりますが、それ以降は地デジを無料で視聴できます。他社のように月額料金は不要です。また、割引キャンペーンを活用されますと工事費などは実質0円です。

 はああ?

地デジ利用の料金は?割引キャンペーンは?

また、割引キャンペーンを利用されますと、通常21,600円の初期費用(地デジアンテナ・BS/CSアンテナ代+アンテナ取り付け工事費)が実質0円で利用できます。
市街地など電波の受信状態でブースター設備など、別途費用が生じることもあります。

auひかりは地デジも利用できちゃう」とは、この業者が導入支援費(みんながもらうお金ですな)をアンテナ代金に振り替えてアンテナ設置をするということなのね?おお、素晴らしい。

ハインリッヒの法則じゃないけど、大きな事故に至るまでには幾つもの積み重ねがある。ジャパンライフは一日にして成らず。こういうのが幾つも放置されることによって、普通に考えたらアレな犯罪行為が薄まって見えてしまい、その結果として騙される人が増えてんのではないか? もちろん、

sutaro.hatenablog.jpにあるように、現場で発揮されるアクティビストの能力や、同エントリのコメント欄にあるようなノウハウの継承と発展の系譜によるところ大なのは当然としても、世の中には何か得なことが有るのではないか(もしそれらの宣伝が虚偽ならすでに罰せされているだろう)という素朴な思い込みをする豊かな土壌の存在は否定できない。そういう層を開発する、ゲートウェイドラッグ的なものとして、公取はもっとマジメに対応すべきじゃないのと思ったりする。

 

いつもどおり話がドリフトとしているうちに、時間単価300円でニュースを見るというのがどうでも良くなり、本件は終了。「6秒我慢するアンガーマネージメント」的な感じでもある。しかし/そして、時間単価1万円とか5千円のニュースをきっとこれからも見続けるのだろう。おお、ここも出口がないねえ。

そしてワタシは腰の痛みと出口の無さに耐えるべく、別のトピックに関してネットの旅を続けるのだった。ああ、仕事の締め切りどうしよう?

 

 

追記

安楽死の法案を通すと主張する政党があれば、赤くても、宗教でも、小異を捨てて大同につく。主義者を心底バカにし、宗教をハナで笑うワタシであるが、自分の後始末は残余の人生における最重要問題なので、その解決のためには大概のことはどうでもよいのだ。

スイス安楽死ツアーというものが有るのは知ってるけど、閾値を超えた日にすっと居なくなりたいのだ、客観的にも、主観的にも。その日までに、苦しみがなくて、後始末の人が困らない、かつ手間のかからない方法をなんとか準備せねば。

2/28 ホットハウス、そして愛の無常について

facebookのアカウントを消したことは致し方ないのだけど、しかしTaBeLoG(略記:TBLG)に書き込んだクチコミが消えたのは惜しかった。いや、これで制約なく書けるようになった事を言祝ぐべきかも。
そのTBLGの制約とのバトルの記録はこちら。
 

septiembreokbj.hatenablog.com対象となっているホットハウスは、1979(1980?)年に開店して金沢のカレー界(って何だ?)に新風を巻き起こし、一時は金沢におけるインドカレーの代名詞ともなったお店。2000年代には現在の場所に移転し、多店展開を図るも振るわず(ゴルフの練習場の隣にあった店でN回食べたぜ、ワタシは)、2017年にゴーゴーカレーに権利を譲渡することになった。Oh! Why ゴーゴー?ということについては、上のリンク先ですでに述べた通り。
さて、このホットハウスがTBLGでどのように扱われているか、ちょっとのぞいてみよう。

tabelog.com

何を食べてもオイシく感ずるシアワセな人々のことも、当家では「善男善女」と呼ぶ。その善男善女の大行列である。いいなあ、シアワセなんだなあ。ウラヤマシイ。以前は嫌み半分(半分?)だったんだけど、最近は割と本気で言ってる。
「地獄とは神の不在なり」(※)だけど、ワタシにおいては感覚器官における寛大さが不在なようで、ようするに日常は割合に地獄だったりする。また発散した。本題に戻ろう。

※「神への愛」について言及したいわけではない。単にタイトルと、内容の理不尽さが好きなだけ。何物かのことを考えるなら、まずは「ソラリス」を読むべき。ああ、図らずも「ゴーレム」への予告となってしまった。


 
今回ホットハウスの記事を引っ張り出したのには訳がある。2018年2月27日付の北國新聞に、これまた刺激的な(つまり”ホット”な)記事が載っていたからだ。まとめるとこんな感じ。

ゴーゴーカレーグループは、本格インドカレー店「ホットハウス」に、同店のカレーの味わいを生かしたパスタ、ピザやビーフカバブを3/1に追加する


さすが!、善男善女相手の量販ビジネスを成功させているゴーゴーカレーグループだ。本格インドカレーの味わいを生かしたパスタやピザを、本格インドカレー店というブランディングで提供するという至高の一手は、ワタシのごときには到底たどり着けないものだ。いや、すごいなー。マジ、スゴイナー。しかも前回記事で書いたとおり、グループ代表は昨年11/22の某新聞朝刊で

「学生の頃によく通った金沢市内の老舗インドカレー店...中略...おいしくて人気のあるカレーを残したい」、「将来は取得したカレー店を東京とパリ、ニューヨークでチェーン展開」

 

と述べておられる。この二つをまとめると、パスタ、ピザ含む形に進化した金沢インドカレーで東京、パリ、ニューヨークでチェーン展開するという同グループの戦略が明らかになったということだ。
取得したブランドの異次元リブランディング(金沢インドカレー!)、それを補強しつつマスに訴求するメニュー、どれも後世のビジネスの教科書に載る一手じゃないか。すごい、すごすぎる(※)、外食FCビジネスにおける新たなエポックの誕生に立ち会っていると思うと感無量だ。 

※ここ、「うまい、うますぎる」の感じで読んでください。そういや、陸王のおかげで十万石饅頭知名度が上がったとか。重畳です。みんなあのパッケージとTVCMは見るべき。

FCビジネスをザーがジーに売り込む時には、売上げ予想と利益率がいいのは当然として、それの裏付けとしての

  1. 商品の訴求力(マスへの判りやすさ)
  2. オペレーションの簡単さ
  3. 廃棄リスクの低さ

等が重要になる。そしてホットハウスに対する作戦はそれらを兼ね備えてるね!!

いやー、スゴイなー。客単価を幾らにするかとか、店舗イメージの演出どうするかとか(セントラルキッチンだろうけど、タンドリーがないとインドカレー店に見えないよ。あ、最後のヒーティング用に絞った特殊タンドリーを専用設計するのか!)、等々のFCパッケージのディテールもゴーゴーカレーグループだからもちろん抜かりなく詰めてくるだろう。いやー、新宿とか秋葉原でホットハウスが見られるのかと思うと胸熱だなー。「伝説のチキンテッカ」とか全国区になるんだ。感動だなー。


 
 
 
ところで世の中に善男善女ってどのくらいいるのだろう?この件を通じて善男善女の総数推計の精度は向上しそうだけど、その結果としてワタシの想定よりも少ないようであれば、ペシミスティックな世界観に修正を加える必要があるだろうし、想定以上であれば生きづらさの理由も判ろうというものだね。どちらにころんでもワタシには益ばかり。サンキュー、ゴーゴー!そしてさようなら、ホットハウス。

 

このさようならの気持ちは、平井和正原作、桑田次郎画のエリート、その第二部の最後のところと同じ感じ。つまり愛の無常。(中古しかないので書籍へのリンクは載せません。ワタシは復刊ドットコムに投票して再入手しました)

しかし、まさかホットハウスから、これまた小学校時代ネタのエリートに飛ぶとは。初期入力は系の性質を特徴付けるところ大ではあるのだけど、あまりにも初期条件依存だな、とは思うよ。そうか、そこは無常じゃないんだな。メモメモ。

 

2/24 金沢市の家庭ゴミ処理の有料化によせて(Update1)

2018年2月24日付けの北國新聞に「点検 金沢市当初予算案」という記事があり、家庭ゴミの有料化制度(ホントに日本語としてどうなのよ!)に関する続報があったので、メモランダムを残しておく。もちろん次の市長選の時に、現在のメイヤーに関する評価を他人に説明するためである。最近はこうして記録しておかないと、どうにもならないのだ(ちょっと前まではこのくらいのことはいくらでも諳んじることができたのだが。着実に救済が近づいているようで何よりではある)。

 

市民から徴収した手数料(※)をどう使うか、あんまりアホなことをすると制度が成り立たない危険性があるという事はすでに述べた通りだ。

※手数料という言い方を避ける為に、金沢市は「ごみ袋の販売収入」と言い張っているのが、それをすると税金の二重取り問題に踏み込むことになってしまう。そのゴミ袋がないとゴミが捨てられないのだから、手数料じゃないと言った瞬間に、印紙と同じ位置付けになってしまうからだ。よって何が何でも「ごみ袋の販売収入」は手数料の徴収方法に過ぎないという立て付けにせざるを得ないのだが、さて「ごみ袋の販売収入」という言説を弄することにどのような意義があるのだろうか?

 septiembreokbj.hatenablog.com

 

さて本日の北國新聞の記事である。いろいろと刺激的なことが書かれている。

 

  1. 手数料収入4億4千万(見込み)の行き先は、全額「地域コミュニティ活性化基金」(以後、単に基金と記す)。
    // おお、これは予想通りだね。しかし当たって嬉しくない予想ってどうだろう。
  2. このお金の使途は、やはり昨年のゴミ有料化の時には定まっていなくて、今年の予算案として初めて公表された。
    // 信じられない事だ。お金の使い道を明らかにせずに、徴収制度だけを始めたのだね。他にこんな自治体があるのだろうか?
  3. 山野市長は「地域コミュニティーがまちの核。しっかり市民に還元する」と語り、それぞれの事業に自ら太鼓判を押した、のだそうだ。
    // 樋渡と同じテイストに見えて不安この上ない。どんな風に還元して欲しいか、聞いたのかしら?いつ?誰に?メイヤーになると自然に判るのかしら。金沢が武雄市のようになるのは何としても避けたい。

...これはだめかもわからんね

 

さあ、もうちょっと細かくお金の使い道を見ていこう。一旦基金に入ったお金はこのように使われるそうです。

  • 収入のうち約半分をゴミ袋の製造などの経費。
  • 残りの2億154万円を基金の趣旨に沿った22事業に充てる。具体的には、
    1. 町会ホームページの作成支援
    2. 町会活動の補助
    3. 金沢学生のまち市民交流館に今秋開所する市民活動サポートセンターの運営費
    4. スマートフォンを活用した地域見守りネットワーク構築
    5. 複数のゼンリン感が協働する居場所づくりモデル事業
    6. and so on.

まず眩暈がするのが、一旦基金に入れたお金からゴミ袋製造をやるという立て付け。これ、基金が実施主体だとして、その剰余金ならどう使っても良いだろ、という論理構成を取るといってるのだよね。しかしこの基金は、ゴミ処理に関する基金じゃないよね?木に竹を接ぐ、という言葉があるけど、それよりもっとヒドイ。彼らがどのような事を考えているか判らないけど、こういうのを普通はマネーロンダリングという。

本当にそんな事を考えているのか?根拠無く物事を判断するのはもちろん宜しくない。金沢市のWEBから平成30年度の予算案を拾ってきて、誤解が無いか確認すべきだ。

http://www4.city.kanazawa.lg.jp/data/open/cnt/3/4893/1/02ponchi_p.pdf

ここの4ページ目が、北國新聞が記事にしたソースだ。

読むと冒頭にこんな事が書いてある。

指定ごみ袋の販売収入の使途を明確にするため、収入の全額を地域コミュニティ活性化基金に積み立て、指定ごみ袋の製造・販売等に要する費用に充てるほか、地域コミュニティ活性化推進計画に基づく新規及び拡充事業に充当 

  

oh...

地域コミュニティ活性化条例とはこんなものだった筈だ。

http://www4.city.kanazawa.lg.jp/data/open/cnt/3/10913/6/29zyourei.pdf

ここにゴミの話を混ぜるのは、「みそもくそもいっしょにする」と言われる行為だ。そもそも戸別収集が当たり前になってきている中で、一旦コミュニティを介在させる意図は何か。大いに疑われて然るべき立て付けだ。というより、この予算案資料から見ると、判ってやっているのだな、金沢市は。コミュニティに資するというエクスキューズで、手数料を以下のことに使いたいのだな。

 

(地域コミュニティの醸成・充実)

  1. (新)×地域コミュニティICT活用促進事業費6,500 千円
  2. (新)×地域コミュニティ活性化事業費19,400 千円
  3. (新)×市民活動サポートセンター運営費19,932 千円
  4. (新)×地域コミュニティ運営体制支援事業費1,000 千円
  5. (新)×善隣館いこいの広場モデル事業費1,600 千円
  6. (新)要援護者ごみ出しサポート事業費35,000 千円
  7. (新)古紙集団回収リサイクル推進費30,000 千円
  8. (改)×コミュニティ活動推進用具購入等支援費4,800 千円
  9. (改)×旧町名復活事業費1,400 千円
  10. (改)×道路除雪機械等購入費補助1,100 千円
  11. (改)×消雪装置設置費補助5,000 千円
  12. 古紙回収保管庫設置費補助1,000 千円
  13. 古紙集団回収奨励金9,800 千円
  14. 資源回収奨励金18,000 千円

(市民協働の推進)

  1. (新)×福祉ボランティアマッチング事業費3,000 千円
  2. (新)×IoTを活用した認知症高齢者地域見守りネットワーク事業費10,000 千円
  3. (新)×かなざわコミュニティ防災士育成強化費1,780 千円
  4. (改)×協働のまちづくりチャレンジ事業費1,500 千円
  5. (改)×歩けるまちづくり推進費1,900 千円
  6. (改)×コミュニティ・スクール推進費18,648 千円
  7. (改)×地域連携家庭教育支援費7,980 千円
  8. ×緑豊かなまちづくり促進費2,200 千円

(新)とあるのは平成30年度からの事業、(改)とあるのは従来からの事業を何らかリフォームしたもの。×をつけているのは、ゴミ収集の手数料の使途として理解しがたいもの。×の項目を合算すると、少なくとも107740千円がゴミ処理と関係のないところに流れている。ほう、旧町名復活に使うの?私たちのゴミ処理手数料を?やりたい奴が自分でやれば良いことに人の金を使うのはどういう了見だろう。暴れていいと思うよ、金沢市民と、金沢に滞在する人々は。

 

ということで、ワタシも脱抑制モードでいきます。

まったくもって最悪。基金に入ったからといって何の為に集めたお金なのかという色が消える訳では無い。基金でゴミ袋を作れば、家庭ゴミ処理の実体が基金に移る訳では無い。これは明白な誤魔化しだ。岩手県の真摯な態度を見習ったらどうだろう。他の自治体のやっていることを研究したらどうだろう。金沢市のようなマネーロンダリングをやっている自治体が他にどのくらいあるというのか。

ということを筋道立て手問い詰めない市議会議員も、市民派団体も、役に立たないことでは同様だ。特にWEBで手柄話ばかりする共産党系、市民派系の市議は、能力がないのか、それとも実はやる気がないのか、どちらなのだ?
総務省に対しては金沢地裁判決(昭和41 年1 月28 日)を踏まえた制度の立て付けに対する見解を、環境省に対しては根拠法の趣旨と制度の整合性に対する見解を一旦は問うべきだろうと思うが、そういう事を期待してはいけないレベルなのか?それこれの外堀を埋めてから議論をしないと無駄で仕方がないだろうに、と思う。 

 

これらの事業がもし、本当に、価値があるなら(投入したお金以上の価値をうむなら)、それらの事業の意義を正攻法で説明して予算を獲得すべき。

手数料収入にバランスさせるから、あるだけ使いたくなっちゃうのはよほどの阿呆でない限り自明。地域見守りも、居場所づくりも、ゴミ収集手数料のうえに咲くべき花なのか?そんな筈はないよね。ゴミ収集で集めたお金はゴミ処理に使うというのが普通の人の考えだよ。

もう一回、京都の資料を載せる。

http://www.city.kyoto.lg.jp/kankyo/cmsfiles/contents/0000000/179/24syunyunotukaimichi.pdf

これを見て、ああハズカシイ自治体に住んでいるなあと心の底から思いましたことですよ。

 

 

結論を記す。

どう考えても、金沢市は判ってやっている。使いたいことにお金を使うために、基金を使ってロンダリングをしている。バカにされるとはこういうことだ。次の選挙を見ていろよ、という気持ちになるよね。ならなきゃどうかしている。

ひとの褌でやろうとした事業に本当に意義があるなら、正々堂々と説明を尽くして予算を作れ。制度をまげてお金を捻出しようなんてのは、何十年も前のセンスだ。説明責任ってのは、原理原則と整合性がある事をやった後でのことだ。なんという政治的、行政的後進地域だろうか。いや、伝統がいまに息づいているというのはこういう事かもしれない。でもその伝統は「市民」というものの確立にぜんぜん寄与してないということですね。

 

もしかしたら、すでにシナリオが書かれていて、何らかの落としどころが用意されていたいりする?。例えば3000万くらいはゴミ処理本体に回すとか。それはそれでバカにした話だけど、そんな事にもならないだろう。北國新聞によれば、山野市長は、

「地域コミュニティーがまちの核。しっかり市民に還元する」と語り、それぞれの事業に自ら太鼓判を押した

のだそうだから。

市民に還元するとは、これを原資として、将来の負債を少しでも減らすこと、(処理場建設のような)わかりきった支出に備えて追加の負担を求めないことだ。その金はワレワレ市民一人ひとりの身銭だ。その重みが判らないメイヤーが金沢には居るのだとしたら、極めて不幸なことだ。

それが一連の追跡の結論で、どうしたらいいか少しずつでも考え始めなきゃならないようだ。そもそもこれから10年、20年、30年というスパンで見たときにどういう都市にしていこうかというビジョンがまったく見えてこないまま(何しろ現実認識すら表明してないんだから...)、細かいばらまきに汲々としている現状はすごく不幸。まあ、当家は30年もすればこの世から消え去るので、あとはみんな頑張ればいいと思うんだけど、それにしても人口減少社会に突入しているというのにのんびりしたものだと思うことであるよ。ねえ。

 

そしてもう一つ。3月の定例議会で市議がどのくらい突っ込むかも確認する。ここで突っ込まない奴は市民の敵として記憶に留める(市の負債を増やすのを黙認するものは、明確に市民の敵だ)。またそのときに筋の悪い論陣をはるものは無能として記録に留める。次の市民便りが楽しみである。

 

 

 

追記

山野市長といえば避けて通れないのが、場外車券場の設置を巡る不透明な一連の話で、あのとき政治家としてのセンスの無さに愕然とした記憶があります。

詳しくは馳浩氏の記録でどうぞ。

衆議院議員 馳浩 公式ページ - 平成26年8月31日 はせ日記 激動の8月だった。 振り返ってみたい。... | Facebook

 

対抗候補をもうちょっとマジメに考えてから山野降ろしを仕掛ければいいのにねえ、というのが当時の当家内の論調。辞職させたら選挙があるに決まってるんだから、山野氏がもう一度選挙で信を問うと言い出したときに必ず勝てる(※)という候補を作ってから問題化を図るのが筋でしょうが、と。詰め切れる手順なしに王手を掛けるのはへぼ将棋の最たるもので、などと息子に語りながら夕食を取っていたのを思い出しますよ。

※浮動票に対して、判官贔屓をさせないという手が打てればあのときは勝てたはずで、そういう時のための「クリーンに見える人」の準備ができてなかったなあ、と。失礼だけどあのときの自民党候補は悪役感満載でした。よく言えば人の集まりとしての政党で、政党ありきの人ではないという事なのでしょうけど、それにしても自民党無党派層へのリーチがホントにヘタだと思います。無党派層の利益ともエンゲージしてないし、人ごとながら心配になるレベルです。

 

2/22 あ、ニャンニャンニャンの日だ。

東京へ一泊二日の出張の筈が、一昨日から始まった風邪が悪化。本日のメインイベントであった某件会議へは、自宅からテレカンファレンスで参加。場の雰囲気をリアルに把握したかったのだが致し方なし。夜中に三回も着替えるような汗をかいてるようでは、今夜の宿の大塚のビジネスホテルで客死しかねない。

 

会議終了後は布団でうたた寝。汗が冷えて目を覚ましたので、昨年末のリフォームで新装なった風呂を昼間から沸かして体を強制的に温めることに。風呂では0011ナポレオンソロの劇伴集を聴きつつネット。本日が222であることをようやく思い出し、猫画像と猫動画にしばし惑溺。

家人も息子もネコアレルギーであるので(あったので)、当家にいまだネコは居ないのだけど、これで家人もいなくなりワタシが最後の一人になるようであれば、迷わずご来臨いただこうという決意を新たにする。

 

そしてfacebookアカウントの削除と、blogの再開。

白井良明さんを観に行った浅草ツアーは楽しかったが、いろんなことを楽しんではいけないという制約が自分に掛かっている事を再確認。つまり2/13に帰ってきてからは、「楽しむべからず」に障ったことによる抑うつ状態で七転八倒しており、割合に正気に戻ったのが一昨日のことだ。いやそんな一時的な事じゃない、ずっとおかしかったね、認めよう。

理性があるものは矛盾によりおかしくなる。その事を最初に学んだのは多分小学校二年の時で、スピーディというロボットの話からだ。もしかしたらプログラマになりたい気持ちのタネもこの辺りで植えられたのかもしれないが、まずは矛盾の話だ。

ワタシにおける矛盾は、不可逆な分岐点を一年前に過ぎているにも関わらず、なお「日常」を継続しよう、修復しようとしたところに始まる。「日常」の真似が上手くなればなるほど、不在が浮かび上がってくるのは道理で、何となればワタシの「日常」は、息子がいて成り立つという定義だからだ。

そして、これは公理なので論証は不要なのだが、迎えが来るまで、ワタシ達はきちんと暮らしていかなければならない。つまり矛盾を是として、抑うつ状態にはまり込んでいる訳にはいかない。

だから「日常」の維持を諦めて、ワタシ達が維持できる範囲に世界を狭めて、その中で正気を保って行こう。すごくつまらない余生のような気もするし、何という恩知らずな態度だろうとも思う。だけどね、迎えが来るまでは持ちこたえなければならないのだ。

 

と、書いてて突如気がつく、これは宗教の考え方ではないか。メシアの再臨を待つもののロジックと同型だ。(さっきから公理と書いていたのは、図らずも大当たり。公理で無い宗教などあるものか)

メシアの再臨、英語で書くと "The Messiah will come again"。Roy Buchananの曲のタイトルである。最初に聴いたのはクロスオーバーイレブンだから、多分中学二年生ごろではないか。

www.youtube.comなぜメサイアが再びやってくるのにこんなに悲しげな曲なのか。当時は判らなかったが、曲の冒頭に入っているつぶやきを読めば(聴く力はないなあ)腑には落ちる。

lyrics.wikia.comメサイアとは、もう一度やってきて欲しいけど、二度とやってくる事が無いものの象徴なのだね(※)。

再びやってくる筈がないものを待ち続ける、そのうちに話に尾ひれが付いたり、来ないのを誰かのせいにして、宗教は大きく転がったり、分かれたりしながら進む。でも出発点は、メサイアが去ってしまってあとに残された者の悲しさにある。

まさか自分がそれを理解する日が来るとは思わなかったが、ワタシには判る。判る様になってしまった。母方の実家が大型宗教法人関連で、人の集まりとしての宗教を身近で見ていなければ、万が一くらいには、その方向に流されていたかもしれないという事も。しかし、それも今日のイシューではない。問題は、どうやって悲しさを抱えたまま、しかも正気を保ったうえで(誰かに悲しさを預けてしまわない、という事ももちろん含む)、メサイアを待つかということだ。

※いつか来るならこんな曲にしないぜ。もちろんそんな事は抜きにして、これはホントに名曲、名演だと思う。初出が1972年、上のは1976年のセルフカバー版。二回やったのは良い曲だと本人も思ってるからだし、この曲を紹介する時にはみんな76年版を使う。ワタシもそうした。

  

持ちこたえられる範囲で持ちこたえるために世界を縮めるという、ずっと避けていた結論をようやく受容したのがこの2,3日のことだった。そうしてfacebookのアカウントを削除し、blogにはお詫びを正式に掲載して、タイトルも変えた。

これから、すごくつまらない、サビシイ生活が始まる。正しくは、ずっとそこに控えていた、つまらない、サビシイ生活と向かいあっていく。しかし、だからこそメサイアの再来を待つことができるのだと思う。うーむ、本当に宗教の人のようだ。いや、オイシイものも食べるし、ビジネスも貪欲に進めるし、自転車にも乗るし、七つの大罪はきっと続くよ。でも、変わってしまったことを認める日が来てしまった。もう心の底からに楽しくなることはないし、この悲しさがうまる事はない。

 

でも、もしかしたら。ちっちゃくて、茶色い、猫が一緒に寝てくれて、そして朝に顔を舐めて起こしてくれるのだとしたら。もしかしたら。 

 

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2/22にようやく帰ってきた。なんと言っても今日はニャンニャンニャンである。猫ネタが無ければ終われないではないか。

 

ネコ飼いたい。