all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

8/16 いよいよ、CTI

やっとCTIのことをかく。

 

くっそアツい2018年の夏は、楽しさ満載のヤバTと、クールの塊であるCTIばかり聴いていた。CTI、なんとHatena Keywordにも載っているけど、まあWikipediaの解説の方が丁寧だろう。

CTIレコード - Wikipedia

 

音楽の趣味は相当にとっちらかっていると言われるけど、それでも本人的には脈絡がある。というか、その脈絡こそが自分じゃないか。良いものは(普遍的に)良い、なんて馬鹿なことは言ってられない。良いと思う自分がいるから、(自分にとって)良いのじゃないか。とっちらかっているがごとき軌跡は、自分の脈絡を探す運動の痕跡じゃないか。

なんと、大げさな。とにかく、物心ついてからこの方、アレコレ聴く度にやってきた自分のツボの解析の結果として、今年ようやくCTIの扉をたたいたのだった。

 

いや、CTIが自分のツボの結節点なのはもう何年も前から判ってたんだ。アントニオ・カルロス・ジョビンがいて、ウェス・モンゴメリーがいて、ジム・ホールも、デオダートも、ハービー・マンも、ボブ・ジェームスも、ミルト・ジャクソンもいて、おまけにラロ・シフリンまでいる、オーガナイザーの趣味満載の個人レーベルだ。悪いはずが無いじゃないか。「Jazzオヤジ」が嫌いそうな(少なくとも好きじゃなさそうな)人ばかりというのも良い。いまでこそJazzにためらいはないが、最初に聞き始める時には大いに躊躇した。なんとなればプロの評論家から、市井のファンまで、「Jazzオヤジ」がいちいちウザかったからだ。あの「本物を知っているのはオレだけだ」感には、いまだに虫唾が走る。あれがダメだったんだ。

 

CTIはその真逆なんだろう、というのは所属アーティストから判ってはいたんだ。

でも、なんでだろうね、CTIにいくのをずっとためらっていた。21世紀に入って何回かリイシューやリマスターが行われて、2016年には国内盤が一枚1000円で買えるようになってたのも知っていたんだけど。やっぱりアレかね、すでに完結しちゃったレーベルを真面目に聴くというのは墓荒らし(※)のような気がしてたのかしら。子供がいると「教育的な配慮」を色んな局面で、色んな対象について(それこそ自分に対してでも)、自然にやっちゃうようになるものなのかね。趣味性の高すぎるレーベルに惑溺する前にやることあるよね、とかね。

 ※ tomb raider と書くとかっこいい気がするね。

 

それとも若しかしたら、好きなものを好きに聴くという信条だと言いつつも、アーティスト自身の通時的評価とセットで聴いていたのかも知れない。

だって、オレ、ジョージ・ベンソン嫌いなんだもん。

CTI時代がカッコいいらしいという情報は得ていても(ワタシ自身はまだ聴いてなかった)、あのあとのブリージンとか、さらに後のを考えると、やっぱover ratedなんじゃないの? ってことはCTI自体も同様に過大評価なんじゃないの? そういう思う部分があったのかも知れない。

 

 

そして何度も書いているとおり、2017年2月3日に突如として余生が始まり、生きている人も、死んでいる人も区別のない、時間の流れが止まったような、すべてが切断された点の列挙としてしか見えないような、気がついたらそういうところに立たされていました。

大仰ですね。でもしがらみ(モノや他者という外部性)が無くなっちゃうというのは、いろんな事を区別する尺度が消えて唯一自分だけが残るということで、そういうのは仕方ないんだと思います。

しかし、それとCTIに何の関係が?

 

 

今年の五月、日本のAmazonでお買い物をしているときにコレをリコメンドされた。

www.allmusic.com

いままで判っていながら避けていた、CTI Recodsのベスト盤四枚組のボックスだ。美しい装丁は、取り上げた曲を収めたオリジナルアルバムのジャケットを集めたもの。それを見た途端、もう良いかと思うと同時に購入していた。墓荒らしでいいじゃないか、背中を見せなきゃならない息子も居ないんだし、通時的な、公正な評価なんかをする義務を背負ってる訳じゃないんだし。聴きたいように聴きちらかせばいいんだよ。だって余生じゃないか。

 

聴いてみれば事前の予想をさらに上回る、自分の音楽的官能のツボを刺激する、でも決してモノトーンではない、アーティストごとの彩りが華やかな39曲が収められた四枚組だった。ええ、これもCTIだったのかという発見があったり。例えば「Tombo in 7/4」とか。

つまり一撃で持って行かれてしまった訳だ。どのくらいかと言えば

ジョージ・ベンソンに感銘を受けた

ことから推して知るべし。ジェファーソンエアプレインのホワイトラビットをやってたんだけど、これがカバーだということも含めて(※)、もう何ともツボで。

※ カバーによって曲のアスペクトが変わるのがタマらなく好きなのです。

 

 

そうなってしまえば、あとは一瀉千里。途中にヤバT(と、「恋の家路(新学期)」)が処理時間を占有した時もあったけど、それ以外はCTI関連を買って聴き、買って聴きを繰り返して現在に至る。今年2018年は嘗て無いパターンの暑さで、人間の好き放題のツケで世界もいよいよ終わりかと思ったら泣けてきた、という夏なんだけど、耳だけでもクールに過ごせたのはCTI様サマだった。CTIについて、所詮クロスオーバーだからとか、軟弱とか、Jazzを薄めただけとか、ムード音楽だとか、...あと何だっけ?...、とにかく「惰弱な偽物」と貶す人々がいるのだけど(そういうレビューはすぐに見つかる)、音楽はラベルをありがたがったり、党派性に殉ずるものではないのであって、

クールで気持ちよいのが聴きたい

という聴者の機能要件を最大限に満たそうとした結果としてのレーベルカタログである事を無視しての悪口って、書く側の頭がどうかしている。正否じゃなくて、効いたか(クールで気持ちよくなったか)、それとも効かなかったかで語れよ、と思うのだ。

(一昔前の左翼の人の批評ってそんな感じでしたよね。今は...もっと劣化しているみたいですが。はっ!「Jazzオヤジ」って一昔前の左翼っぽいんだ。それってつまり、ダンカイ主敵論ということなの? って事は、時間が解決してくれる問題なのかしらねえ。ホントに?)

 

ワタシにおいては、レーベルオーナーであるクリード・テイラーの意図するところが十全に発揮されていて、どれを聴いても、もうそれは堪らなくクールな気持ちよさを満喫している。それが可能な理由の一つとして、ドン・セベスキー、ボブ・ジェームス、デイヴィッド・マシューズなどのレーベルお抱えアレンジャーによる水準コントロールというのがあるのだろう。あくまで水準コントロールであって、統制ではなさそうというのがポイント。もし統制なのだとしたら、最初に買った四枚組ボックスのカラフル感はありえないだろうし。

だけど、このレーベルの看板プレイヤーでありながら、よく見れば糸が繰られてそうな奴が一人いる。ジョージ・ベンソンだ。ドン・セベスキー、この人こそジョージ・ベンソンという人形を操った傀儡師であって、彼なかりせばジョージ・ベンソンウェス・モンゴメリーエピゴーネン(なつかしいね、エピゴーネン!)に過ぎなかったに違いないと睨んでいる。

二人の組み合わせはThe Other Side of Abbey Road - Wikipediaから始まるんだけど、調教の一回目ということでジョージ・ベンソンに何が出来るのか、ドン・セベスキーが性能測定をしているという趣があって面白い。作品としては...世評は高いみたいだけど、個人的にはいまいち。Abbey Roadに思い入れが深いというのもあるけど、まだドン・セベスキーはジョージ・ベンソンを鳴らし切れていないし(!)、その為に必要なアレンジメントのそろばんが合ってない。ベンソン、セベスキーの最高傑作は、CTI初期のカタログであるWhite Rabbit (George Benson album) - Wikipediaにとどめを刺す。

ともあれ、レーベルが傾く後期になるとジョージ・ベンソンは自身の色を強め、このあと凡庸な道を歩んでいくことをひしひしと予感させている(つまり、個人的には嫌いとまで言わしめる方向性の萌芽がある)。逆に見れば素材としてのアーティストを頼れるアレンジャーを介してコントロールしてでも、所期の目的を実現することに注力していた当初のクリード・テイラーの姿が浮かび上がってくるようである。

もちろん多くのアーティストはそこまで統制されていた訳ではなく、CTIを理解した上での創作活動だったのだと思うし、それが故のカラフルさなのだと思う。でもセベスキーがベンソンを鳴らしきる事を期待したクリード・テイラーの業こそが、CTIのコアだし、それがあってのクオリティなのだ。...断言していいのかね、そんなこと。

以上は、根拠の薄弱な、個人の感想です」これでいいかな。

 

いつものごとく長くなってしまった。いい加減まとめよう。

 

オーナーの夢想の結晶のような個人レーベル(ロック系だと、例えばマイク・オールウェイの él Records みたいな感じ(※)。こっちも勿論素晴らしい)は、最高だけど、長続きはしない傾向がある。CTIもその例に漏れず1970年から1978年までのたった8年間しか存在していない。でも、長く続くことだけが価値の尺度じゃない。数は多くなくても「強い」カタログは、クールと気持ちよさを求める人がいる限り、忘れ去られることはない、と思うよ。何度でも甦るさ。

※ こんな記事を見つけたので残しておく。すばらしい。

www.theguardian.com

 

というわけで、いよいよCTIの扉を開いてしまった。

この後、さらにどこにドリフトしていくのかはよくわからないけど、また一つ自由になったのだなあ、と思うことであるよ。

 

 

追記1

ちょっと調べたら、CTI時代のジョージ・ベンソンの代表作というと一般にはGood King Bad - Wikipedia(※)みたいね。うーん、これは合わないんだよな。次回作がブリージンで、CTIを出てっちゃうというのがよくわかる。ジョージ・ベンソンが好きな人は、ジョージ・ベンソンが好きなんであってCTIにはあんまりこだわりが無いのかねえ。そうかもしれない。

ところでこのアルバム、ドラムにアンディー・ニューマークが入っている。このあとAvalon (Roxy Music album) - Wikipediaに向かっていくのかと思うと、それはそれでアツイものがある。調べて良かった。

 

 

追記2

70年代のJazz周辺(非メインストリームということ)をちょっと調べようと思うと、映画やTVのサントラというのが欠かせない。

当時のTVもので曲として印象に残っているものというと、イギリスのITCもの(CTIアナグラムになってて草)を除くと、「600万ドルの男」かねえ、やっぱり。

すでにサントラは廃盤で、Youtubeに上げられた音源が聞けるのみ。タイトル曲はジャズファンクっぽいもので、全般にJazzの影がある。

 

うーん、ということで、調べてみることに(これもwikipediaだよ...)。

The Six Million Dollar Man - Wikipedia

 

音楽はオリバー・ネルソンさん。

Oliver Nelson - Wikipedia

やっぱりJazz出身でした。この時期のアメリカはJazz流れが多かったみたいですね。

なんと刑事コロンボの印象的なテーマ曲もこの人だったという事が判明。しかもJBのアレンジもやってるっぽい。

 

この辺りの時代背景を調べて見たい感じがちょっとしてきた(調べる道筋の検討から始まりそうであるけど)。今日現在の気持ちとして記録に残しておこうかね。

明日、同じ気持ちなのかは置いておいて。

 

08/15 ひっこみが付かなくなるという事について

(いつにも増してモヤっとした書き方になっちゃいましたなあ、今回)

 

人脈構築が得意な、新しげなネタを引っ張ってきて周りの人をワクワクさせるのが上手な、そういうタイプの能力に長けた人がいる。彼らのうちで以下の条件をANDで満たす人たちのことを、ワタシはワクワク系と呼んでいる。

 

  1. 自営業やスモールカンパニーの代表など独立系で生計を立てている人たち
  2. 商品を売るのではなく、売るのは自分自身の能力やワークという人たち

 

今日は予告を曲げて(またかよ)、CTIに対する愛を記すのではなく、ワクワク系に対するシンパシーを綴ってみたい。


まず最初に断言しちゃうけど、ワクワク系の人たちはビジネスができない。と言っても彼らが貧乏だと言っている訳じゃない。彼ら自身はどちらかというと上手くご飯を食べていくタイプだ。そうじゃなくて、関わった人たちの持っているアイディアやリソースをうまくオーガナイズして、普遍性のある、持続性のある、成長性のある事業としてのビジネスに仕立て上げることが苦手だということだ。
でも、ワクワクさせるのは得意だ。だから/そして、何かを持っている人たち、でも今の状況に対して満足していない(※)人たちが集まっているところに、彼らはそっと寄ってくる。
※ より発展したいというポジティブな場合もあれば、何とかしないとマズイというネガティブな場合もある。

 

例えば、地域が持つ人的・歴史的に固有のリソースや、その地域の公共の施策をバックボーンとする人的な集まりなんかは、彼らを発見しやすい気がするな。その場所に固有の仕事なり、文化なり、伝統なりを維持していく意志を持った人たちが集っているコミュニティは、一人ひとりにパワーがある分だけ、彼らが「仕事」をしやすいんじゃないかなと思うのだ。(事実を摘示しているつもりは毛頭ないので為念)

もちろん、彼らの中の最良の一群は、ヒントやアドヴァイスを求める人たちに対して、それを与えられる人を、自分の人脈を介して結び付けるという事をキチンとやっている。そういうコンサル的な、フィクサー的な人もちゃんといるのだけど、ワクワク系の人たちの通ったあとには中途半端な、生煮えな残骸が転がりがちな気がする。人を巻き込んで組織や会社を作り、二、三年続いたかと思うと、ある日WEBの更新が止まる、とかね。なぜなんだろう。彼ら自身の肩書きはイベンターやクリエイターやデザイナーである事が多いような気がするのだけど、それとの関係があったりするのだろうか。それらの肩書きは、どれも点としてのワークを扱うものばかりで事業じゃない。その事と、彼らが手がけた案件は長くて二、三年でしぼんでいくことに何らかの因果関係があるのだろうか。

 

さて、そんなワクワク系の人に、本当にビジネス実現の期待を寄せる人が出てきたらどうなるんだろう?
期待するなと言うほうが無理で、多くの人は、

 ワクワクさせてくれる人 ≒ 何かやってそうなくれる人

というイメージを持っている(ワタシは残念ながら違うが)。だから、回数をこなしていくことが出来れば、いつかは大物案件に当たることになる(当たってしまうことになる)。そのとき、ワクワク系の人は何をするんだろう。ビジネスの実現の為に奮闘するだろうか?でも、ビジネスを立ち上げて、成功させられるんならワクワク系なんかいつまでもやってないよね。そして、実は本人もきっと気がついている。そりゃそうだ、バカにワクワク系はやり続けられないもの。


つまりそれって、極論すると「ビジョンという名のネタに感心した人が金主となって、スタートアップ能力が無いと自覚している人(ただし金主はそれを理解していない)にベンチャーをやらせる」という構図だ。
こういうのって、相当に地獄だと思う。

 

しかもベンチャーとして始めるからには、そこに寄ってくる人たちがいる。たかりとかそんなんじゃなくて、大きく成功したいなら最初にやっとかなきゃならない事ってあるよね、という「常識的な」アドヴァイスを親切にもくれる人たちだ。これがまた地獄に拍車をかける気がする。

 


さあ、ロールプレイだ。ワタシが(もしくはアナタが)そんな立場に置かれたワクワク系の人ならどうするだろう。金主も、取り巻きも、事業を成功させてくれる筈のワタシ/アナタの一挙手一投足に注目している。何をやってくれるのだろう、どうやって成功してくれるのだろう。そんな圧力のなかでやれる事ってなんだろう。
バカじゃないから泥縄でナレッジを仕入れることはできる。でも、きっと教科書的な、無難なことしかできないし、金主が理解できる範囲のことしか選べないだろう。ビジネスに絶対はないので、成功しないことだって勿論ある。でも、みんなの反対を押し切って選んだ一手が失敗を呼び込むものだったとしたら?
プロは、みんなが反対する場合であっても、自分の中の理屈が真だと言うなら、(覚悟を決めて)その選択肢を選べる。というか、それが出来るからこそのプロだ。でもワタシ/アナタは、ワクワク系であってプロじゃない。だから、金主の文脈からすれば一見もっともだけど、よく考えれば(広く考えれば)相当に悪手になる選択肢の実行を迫られたら、きっとやってしまうだろう。

自分に根拠がないというのは、そういう事だ。

 

脳髄は人間の中の迷宮であるという観点からあえて許そう。 

そうだね、良いこと言うね。

だからワタシもワクワク系に対するシンパシーをあえて語ろう。ワクワク系として暮らしていくというのは大変なのだね。
そして許そう。
でも忘れない。

※本エントリーは、特定の事象や、個人を念頭に置いて書かれたものではありません、。誤解が生じて、しかもそれを解くことが自分の生活に死活的に関わるというダブルバインド状況におかれるということの辛さについて悲しみを表明するものです。..そこまで書かなきゃならないなら公開しなければいいのにねえ。業ですな。

 (11/2訂正)

ウソです。本件は全国区で波紋を呼んだ、地方発の「とある出来事」から受けた、多元的かつ深い悲しみを書き残すためのエントリです。その出来事には多分悪意は存在せず、経緯と、人物配置が織りなす、玉突き衝突的に不可避なダイナミクスのみがあったのだと思うのですが、それゆえに悲しみを誘うのです。

けっして自由ではいられないワクワク系という立ち位置の悲哀は、宮仕えのペーソスとも異なる切なさがあります。そして「事実と関係ありません」というフェイクを入れてでも、それを記録して、公開しなけりゃならぬというのは、確かにワタシの業なのです。

 

(2021/7/24追記)

もういいかな。これはオプソのはなしです。2018年の夏、日本のある業界を心底あきれさせた話がありました。どうしてその名前でなければならなかったのか。

きっとひっこみが付かなくなったのだろうなと思います。でなければ、あんなスゴイことやれません(言い出せません)。ただ、まわりがみんな『気の良い田舎の人』ばかりなのだから、やはりプロはそれなりの着地点を示してあげるべきだったと思います。今日の昼、何回か行ったこと*1がある某料亭の跡地を眼にしたので、3年後の追記を。

 

 

次こそCTIを。
Georege Bensonはやっぱり嫌いだ、とか。
(おい、CTIをほめるんじゃなかったのか?)

*1:法事とかそういうのね

8/9 「日本会議国会議員懇談会」

割としつこく見守っている新元号の周辺に関する雑感。

 

www.nikkei.com日経新聞記事より引用)

古屋圭司衆院議院運営委員長ら保守色の強い自民党議員は6日、菅義偉官房長官首相官邸で会談し、新元号の制定と発表は来年5月1日の新天皇の即位後とすべきだと要請した。政府は改元に伴う国民生活の混乱を最小限にするため、改元1カ月前の公表を想定し、各府省庁の情報システムの移行など準備を進めると決定している。政府と議員側の溝が改めて浮き彫りになった形だ。 

 

この記事によると、「古屋圭司衆院議院運営委員長ら保守色の強い自民党議員」が「新元号の制定と発表は来年5月1日の新天皇の即位後とすべきだと要請した」のですね。

はあ、社会が混乱するとか、しわ寄せで苦労する人が多数いるとか、そういうことよりも新天皇のことを考えろ、ということなのですね。

政府は政府で、既に「改元1カ月前の公表を想定し、各府省庁の情報システムの移行など準備を進めると決定している」と言っていて、これはこれで誰の利益を考えているのか全く判らないんだけど、保守色の強い自民党議員さんたちの発言は、その比では無いですな。

 

さて本件、どの範囲の人たちがこの意見を共有しているのかが気になるんだけど、今ひとつ判らない。

日経新聞、8/6のニュースサイト記事より引用)

 古屋氏は、超党派保守系議員でつくる議員連盟日本会議国会議員懇談会」の会長。同懇談会は、6月に新元号公表は来年5月1日を原則にすべきだとの見解をまとめている。古屋、菅両氏の会談には、山谷えり子・元国家公安委員長柴山昌彦自民党総裁特別補佐が同席した。

 

日本会議国会議員懇談会」、ここの総意としての申し入れだったりすると、これは壮絶に蒙い話になる。ちょっと検索してみよう。

日本会議国会議員懇談会 - Wikipedia

(そういえば、このまえジミーからどうしても今年も寄付を頼むよ、とメールが来たので、快く支援をしたばかりだった。Wikipediaへの寄付については、ありゃユニセフジャパンみたいなもので中間で相当に儲けてる、払うのは馬鹿のすることだ、などという意見をネットで散見するけど、そういうのってどうだろう?自分が助かったと思う分だけ感謝の寄進をするというのがそんなに馬鹿げたことなんだろうか。むしろ投げ銭をするこちらからすると、原価厨とか、他人が得をしたら負けと言いつのる人たちは、紅衛兵とかクメールルージュが破壊した後の社会の住人みたいだぜ。あ、また脱線した)

 

この組織、2015年9月時点では281名の大所帯で、この数の人たちが「下々の都合よりも天皇をたてることを優先する」と言っているのだとしたら、これはゆゆしき事態だ。民意の反映という言い方は大嫌いだが、しかし衆議院465名、参議院252名、計717名のうちの281名、すなわち39%の議員が一定数の日本国民に負担を掛けてでも天皇の権威を守ることを優先したいのだとして、それが国民の意見とどのくらい乖離しているのか、個人的にはすごく気になってしまう。残念ながら日本国における国民投票は、憲法改正の手続きの一部として法律が整備されているのみで、任意の事柄に対する賛否を問うための法律は存在しない(代議士に対する対抗力が、選挙での不信任しかないという緩い状態だ)。本件なんか、国民投票の練習にちょうどいいサイズの問題だと思うんだけどね。

でも、本件はホントに「日本会議国会議員懇談会」の総意としての申し入れなんだろうか。というのはWikipediaにある議員リストを見ると、菅義偉官房長官は同会の副会長であるし、安倍晋三内閣総理大臣は特別顧問だ。そして冒頭に書いたとおり、政府としては「改元1カ月前の公表を想定し、各府省庁の情報システムの移行など準備を進めると決定している」と言っている訳で、普通に考えると今回の件が同会の総意とは思えない。

 

まよったらクロスチェックだ。

 「古屋圭司衆院議院運営委員長 元号」で検索すると、8/6の申し入れに関する別の記事がすぐに見つかる。

www.sankei.com産経新聞より引用)

古屋圭司衆院議院運営委員長や山谷えり子自民党拉致問題対策本部長ら国会議員有志4人が6日、首相官邸菅義偉官房長官と面会し、来年の新元号について「新天皇による公布」とするよう口頭で申し入れた。

この記事では「日本会議国会議員懇談会」という言葉はついぞ出てこない。その代わりに日経では明らかにされていなかった申し入れの範囲や規模が、こちらの記事では「国会議員有志4人」と明記されている。

 

いったい「日本会議国会議員懇談会」は絡むのか、絡まないのか?

 

横方向で見えないときには、時間軸方向に探すのが定石だ。探してみれば、本件の一つ前の事象がこれまたすぐに発見される。

www.asahi.com

朝日新聞、7/19のニュースサイト記事より引用)

日本会議国会議員懇談会の皇室制度プロジェクト(座長=衛藤晟一首相補佐官)は19日、平成に代わる新たな元号について、事前公表に反対する方向で一致した。懇談会は6月に「新天皇即位時の公表が原則」とする見解をまとめたが、要求を強めた形だ。

 

安倍晋三首相に近い衛藤氏らは、国民生活に配慮して新元号を事前公表する方針の政府に対し、見直しを働きかける考えだ。

 

朝日の記事で「皇室制度プロジェクト」と明記されているとおり、これは同会のPTの意見なのであって、会としての意見表明とは書かれていない。

(ちなみに、政府は国民生活に配慮しているのだそうです。アレで、配慮。)

 

さらに時間を遡れば、6月には以下の事象がある。

this.kiji.is共同通信、6/5のニュースサイト記事より引用)

超党派保守系議員でつくる「日本会議国会議員懇談会」(会長・古屋圭司衆院議院運営委員長)は5日、国会内で総会を開き、新天皇即位に伴う新元号の公表は即位日である来年5月1日を原則にするべきだとの見解をまとめた。

 

ここでは明確に会としての見解であると記されている。

 

 

とすると、こういう流れなのだろうか。

  • 6月 総会で5月以降を見解としてまとめる。
  • 7月 プロジェクトとして「事前公表に反対する方向」で一致。
  • 8月 保守系議員(所属名乗らず)が政府に即位後公表を申し入れ。

一見するとアクションが大きくなっているようだが、実際にはその逆だ。6月には281名の声だったモノが、7月にはプロジェクトのサイズの声になり、8月には数名の議員の声になっている。どんどんと声を出す主体が小さくなっているではないか。決して「日本会議国会議員懇談会」のひいきがしたい訳じゃない。8/6がホントに「日本会議国会議員懇談会」としての申し入れなら、どこかはそういう記事を書くはずなのに、一社もそんなニュースを出してないのだ。とすれば、陰謀史観は脇に置いて、素直に有志議員団としての意見だったと見るべきだ。

 

実は6月の発表以降、ネットではフジャッケンナ(※)の大合唱が起きていた。これも探すとすぐ出てくる。それを見て恐れおののいた議員が、一人逃げ、二人逃げしていき、しがらみなのか、信念なのかは知らないけど、なんらかの理由で残った人々が政府に話をしに行ったのが8/6事象なのではないか。そのように思うにも、一応の根拠がある。

※ アレは打ち切りだったのかねえ。それとも作者が力尽きてゴメンナサイをしたのかねえ。

 

自民党は世評を気にしないという風説があるが、最近はその反対だと思う(まあね、田舎の自民党支部のアレはアレなんだけどね)。例えば 情報参謀という本がある(http://amzn.asia/d7PvPV3)。自民党が如何にネットの情報を気にしているのか、その結果としてどのような成功を手に入れたのかがよくわかる。今回のように、自民党の支持者と思われる層からアレだけ大声でディスられたら、血の気が引いた議員、党員は多かったのではないかしらん。

ではなぜ「一ヶ月前公表」という大馬鹿な話を政府は堅持しているのか、それはそこを着地点としなければならないカウンターパワーがあると見るべきなんだろう。つまり、政府はわがままな王様なのではなく、政治的に正しい判断をしているというモデルへの移行だ(決定の本質 - Wikipediaのような話だね)。たとえば、決定の背後にこんなアルゴリズムが考えられる。

 

天皇の権威の力(これは本当の意味での権威ではなくて、天皇には権威が無ければならないと思っている人々の力の総和)と、②改元に対応する人々の労力・コスト、その二つのベクトルが相殺されるポイントを探す。

 

その結果として出てきた解が「一ヶ月前」ならば、その解の是非を問うのでは無くて、②に対する国民の怨嗟に比すほどの①があることに愕然とすべきだ。ホントに? でも多分ホント。そういう構造があり得ることについて、一連のニュースは考えるチャンスを作ってくれたという事だ。

 

 

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ああ、いつものごとく曲がりくねった展開になってしまった。

今回は、気になったニュースを追っかけていたら、馬鹿げた話だと思って政府方針が、実は政治的なプロセスの結果として説明可能なのかも、と思えたというエントリでした。長過ぎだね。もっと短く書け。

 

しかし、構造として了解できたとして、「一ヶ月前公表」による影響がのめるのかというのは別だ。アタシ自身は現場を離れてはいるが、苦労をする人たちの事を考えると、やはり馬鹿げた話だとしか思われない。我々(Us)が②だとして、向こう側にいる、争うべき①の奴ら(Them)が誰なのかは知っておきたい。対立や争いは良いことだ。少なくとも無差別テロなんかより全然いい。

そして、今回みたいな様々な力のぶつかりあいとして特殊な解が出てくるときに、どんな力がどのように絡み合っているかを明らかにしていくのがジャーナリズムの仕事なのだと、なんとも牧歌的に信じているんだけど、現実はどうもそんな感じじゃない。

国民投票には法律が必要だけど、例えば全国会議員に質問を投げるのは別に法律も何も必要ない。ごまかしようの無い設問を作って(回答拒否が意見表明になってしまうような設問を作って)、すべての国会議員に問うてみるなどというのは、それこそ大新聞のジャーナリズムの仕事として十分に面白いと思うのだけど、ドコもやらない。議員一人一人の意見が判ってくれば、その背後の力も見えてくるのだけど。なんとも不思議なことだ。

 

こんなのが続くと、そのうち日本でもコレがはやるようになるのかも知れない。

上有政策下有对策

それはとても昏いことだ。

 

 

 

...なんだか床屋政談みたいになってしまった。明日からは、明るく、さらっと行きます。CTIとか、そんな話。

 

8/7 「あなたの知らない地獄の話。」

いま、現代人の約半数が死後、

地獄に落ちているという事実!

なんという断定。迷える衆生を引きつけてはなさない、すごい惹句である。迷いも枯れはてた衆生であるアタシまで掴まれてしまった。

 

 

当家ではテレビ放送は見ておらず、情報収集のメインパスはネットと書籍である。その上で、地域情報とある種の意見のソースについては、新聞を補助的に用いている。昔ながらの物理的な新聞を、朝食を取りつつ社会面から逆順で子細に眺め、各種の企みのクロスチェックをしたり、兆候を採取するルーティンを行っている訳だ。

さて、そんな朝の情報収集・分析タイム、今日は第一面下の広告欄に目を奪われてしまった。「あなたの知らない地獄の話。」という書籍の宣伝である。今回エントリの冒頭に置いた引用は、まさにその広告から。版元は「幸福の科学出版」。つまり著者は言わずと知れた大川隆法氏だ。

「いま、現代人の約半数が死後、地獄に落ちているという事実!」というコピーのなんたる吸引力。しかし、およそ検証不能な事を ”事実” と断ずるのは科学と一番遠いところにある行為だと思うのだが、さて、ここの版元の名前って何だったっけ。本当なんだから仕方がない、そういう態度は宗教の本質なのかねえ。

そういう極めて凡庸な、紋切り型の感想を脳内にまとめつつあるとき(新聞を読むときには、何でもすぐにまとめる癖がある)、驚きの一行を見つけたのだった。

 

大川隆法氏の肩書きが「幸福の科学グループ創始者 兼 総裁」なのである。いつからだろう、全然気がついてなかった。こんな意図満載のタイトル、なんで見逃してたんだろう。

 

飾りを剥ぎ取るために英語にしてみよう。Founder and CEO 、終身身分と現在の職位の併記だ。役職を譲っても終身身分は残るよ、という宣言にしか見えない。というか、今日突如としてそのように読めてしまった。おそれずに記せば、大川隆法氏は生前のうちに役職を譲るつもりなのではないか?

それは中々にスゴいことであって、大はカソリック*1から、小はそこらの非認定団体まで、先代が生きている内に代替わりをしたという話は極めてレアだ*2。そして歴史の浅い団体の場合、そのタイミングでもめることが多い。なんとなれば、意思決定者がいなくなった後に、様々な意見を集約し、裁定するのは困難に決まっているからである。長く続く宗教団体は、代替わりに関する厳格なプロトコルを必ず持っている(そういう意味で、信濃町については興味津々だったりする)。

 

しかし、意思決定者がいる内に、意見の集約も、裁定もできるとしたらどうだろう。団体に関する最大の危機を免れることができるのではないか?団体の存続を第一義におくならば、生前の代替わりは決して悪いアイディアではないのではないか。

 

という事を、東大文Ⅰ、トーメンという道をたどった大川隆法氏が考えたか否か。アタシは考えたとみる。それが故のFounder and CEOというタイトル表示だと。

当たるも八卦、当たらぬも八卦だが、そのような意思の発露を見たのかもしれないという記録を残すために、本エントリを記すモノである。

 

さて、本件の結末や如何に。

 

 

追記

と、さも大発見をしたかのように書いてて、実は教団内では「当たり前の事実」だったりすると大いにハズカシイですね。残念ながら周りに信者さんがいないので確認できないんですが、何となくありそうだな..。

 

 

*1:教皇が生前に替わることがレアだというのは教皇の辞任 - Wikipediaなどに詳しい。

*2:出口なおは生前に出口王仁三郎を後継者としてスカウトしただろ、という突っ込みなどがありそうだが、大本教出口なお王仁三郎のタッグでスタートしたのであって、決して一流を興したなおが王仁三郎に譲った訳ではないのだ。

8/5 Eat. Race. Win.

http://amzn.asia/9GbnSiO

 

... 何のURLか判らんね。

 

www.amazon.com

これの日本語字幕版全6話がAmazon Primeにいつの間にかリストされていたので、この週末に固め見した。

 

内容は、2017年のツールドフランスにおけるOrica-Scottチームの23日間、21ステージを、①.選手と、②.ディレクションと、③.料理人の3つの視点から語るというドキュメンタリー(※1)。この年はサイモン・イェーツに新人賞を取らせることができたので一応形がついたが、もしロケが2018年だったら番組として成立しなかったのでは、と思われる。同チーム(※2)は今年良いとこ無しだったのだ。つまり制作サイドからすると「危険」な企画であって、場合によってはロケがすべて台無しになる可能性があったのだ。

※1 じつは別の構造があるのだけど、それは後述。

※2 今年はチーム名もちょっと変わってMitchelton-Scott 。

 

その分、各回の最後の引きの強さは只事では無い。実際のレース展開の山場を各回の最後に持ってきて、手に汗握らせておいて、では次回、とやれてしまうのだから。2017年のツールを真面目に見ていた人でも、選手とディレクターの両面からレースを見せる構成はたまらぬモノがある、と思う。選手とディレクターが激しくせめぎ合いをするさまには、ワタクシも心を鷲掴まれました。

 

チームとしての獲得目標を立て、その実現の為に選手に戦術的な指示を出し(※3)、エースの結果をチームの成果として共有するように場を作り、叱咤し、激励し、鼓舞し、そしてチームをシャンゼリゼまで連れて行くディレクターの振るまいは、最近はやりのリーダー像とは全く異なるもので、しかしツールのディレクターはこうでなければ、と思わせる。手持ちのリソースを使い切って(※4)、その中での最大限の成果をしぶとく狙い続ける意思とその発露がなければ、ツールのチームは統率できないのだ、と。そして選手は、ディレクターの指示に従い、蓄積され続ける疲労に耐えつつゴールを目指す。出来ることもあれば、やれない事もあり、ステージが進むにつれて、顔には疲労だけではない表情が浮かんでくる。

そして、そんなチームが前に進むための力を供給しているのが Eat. なのだぜ、というのがこの作品のもう一つの主題だ。

※3 字幕では戦略と出てたけど、ディレクターは明確にtaciticalとかtacticと言ってましたぜ。そういうのって困るなあ、と思う。言葉を間違って覚える子供とかが出てきたらどうするつもりなんだろう。

※4 と書くと選手を使い潰すように思われるかもしれないが、そこは恥ずかしい日本の人たちと異なり、ドクターと相談して、選手生命に関わるような事はさせていない。

 

ところでツールを走る選手には、ただ速い以外の才能が要求される。一つは回復力、もう一つは胃腸の飛び抜けた強靱さだ。レースで消費する7000Kcalと、基礎代謝の1000強Kcal、その合計である8000Kcalを摂取しつづけなければならない...もちろん、経口で、食物の形で。食べる側の才能だけではどうにもならないと、近年のツールでは食べたくなる、食べるとよりよい効果が得られる、そんな食事を供せる料理人チームが帯同するようになっている。この作品の Eat. の部分は、チームの勝利に貢献するために参画している料理人チームの23日間の記録だ。

ツールの激しさ、厳しさという太い幹であるRaceパートの裏側でEatパートは進む。Raceパートと交錯するのは食べるというシーン一点のみ。選手がレースをしている間、料理人チームは行く先々で食材を採取し、レースが終わった選手を迎える料理を作り、供する。その繰り返しに何を見るかがこの作品の評価の分かれ道なのだと思う。フランスー、農業国ー、製造者-、意識高いー、という見方はもちろん出来るし、単にうまそう、でもOk。

しかし選手とディレクターが構成するRaceパートとパラレルに、Eatパートにおいても設定した目標の達成にむけてスタッフとシェフのせめぎ合いが展開される。もちろんRaceパートよりも和やかにだが。Raceパート、Eatパート、これらでの相克から弁証法的(※5)にWin、すなわち目標の達成が生ずる(※6)という構造は、アタシ個人としては、ツール、それでこそ、という感じ。すなわち、ツールのコアを、まだ見たことの無いアスペクトから活写した良い作品だと思う。

※5 あ、もちろんここは左に対するオワライとして。

※6 記録としては「サイモン・イェーツが新人賞を取った」だが、チームとしては「サイモン・イェーツに新人賞を取らせることに成功した」だ。

 

計三時間、ほぼぶっ通しで見た記録として以上を残しておく。

しち面倒なことをいつものごとくアレコレ書いたけど、見始めてしまえば、もうちょっと、もうちょっとで、あっという間にシャンゼリゼである。自転車を見るとじんましんが出る、とか、料理をしているのを見ると抑うつ状態が始まる、などの障害がなければ、広く楽しめる作品だろう。

 

 

追記

個人的に一番つぼだったのは、レース前に行うバス車中でのミーティングの冒頭だ。ディレクターが最初にする選手への呼びかけ、これが最後の3ステージまではGents だったのが、チーム目標であるサイモン・イェーツの新人賞獲得の最終関門である第19ステージに至って突如 Boys に変わる。ディレクターの胸中や如何に、と色々と考えさせられましたことですよ。この面白さたるや!

7/30 七月後半戦まとめ

生きてるなら時々BLOG書け、というリクエストが来たので7月の後半戦の記録を上げておく。

 

1.ドイツでもヤバT

7月末にドイツに住んでる弟家族の息子、つまり甥二人が当家に来訪。そのときに、いまアタシと家人がはまっているのはヤバイTシャツ屋さんなのさ、という話をしていたら、今年16歳になったelderな甥の方が、我々よりも古参のファンだったということが発覚。去年iTunesでアルバム買って、相当聞き込んでいるとのこと。曲掛けてたら一緒に歌っておりましたよ。

ドイツでもヤバT。

Youtubeで引っかかってハマったんだって(まあ、我々もなんだけど)。

すごいな、ネット。スゴいな、なんか感動した。

頭の悪い感想だけど、そうとしか言えない。スゴい。つまりヤバイ。

 

 

2.リフォームの時に一旦外して付け直したエアコンの設置不良で本棚半壊

書庫のエアコンをリフォーム以来ガチで使ってなかったんだけど、あまりのアツサについにフルで稼働させてみた。

そしたらドレンの勾配を間違いやがったらしく、外にでるはず水が室内にばらまかれており、運転開始から八時間たって気がついたときには床まで水浸しに。

エアコンの下にあった本棚の半分が水でやられていた。

シネ、シネ、シネ、シネ。

しかし一番シヌべきなのは、知り合いの工務店を通じて、請負条件の不明確な口頭発注をしたアタシだ。今回の一連のリフォームは、知り合いの会社を通すということで、普段ならやる書面取り交わしをやってなかった(というか、友人関係を尊重してやれなかった)のだ。

「契約書というのはもめたときにためにあるのだぜ」と会社ではよく指導をするのだけど、自分がつまずくとは。

一定の金額を超える案件については、(例えどんなに魅力的に見えても)知り合いに頼んではならない、万が一知り合いに頼むにしても初めて会った人間と取引をするようにガチガチに契約を交わすべきだ、ということを学んだのだけれども、しかし失われた本とCDはかえってこない。慚愧。

(すでに手に入らない本などは、どうにもならないのだよなあ)

 

これからは、今までに増して「嫌な奴」と言われる局面が増えるのだろうが、知ったことか。アタシの心の平穏は、法と契約によって守られるのだ、という決意を新たにしたですよ。力なき正義は無力だ、というときの力とは、「法と契約」がもたらすのですよ。みんなが自由意志を持って、自由に行動をすることが出来る以上、平穏を守るための力を手放してはならないということで。

 

 

3.盲剣楼奇譚 完結

本日、7/30を持って、昨年から北國新聞に連載されていた小説、盲剣楼奇譚が完結となった。全301回。作者は島田荘司

なぜ島田荘司が江戸時代の剣客物を書くのかよくわからなかったのだが、その謎は本日の回でひとまずクリアされることになる。なんと、この話は戦後の日本で起きた或る事件の前提・背景となる話なのだね。

驚愕。300回あまりを既存の推理ものシリーズ(※)のマクラにするとは。

吉敷竹史シリーズというのがあるのだそうです。詳しくないので伝聞形。

 

あ、貶してないので為念。スゴいことをやりよる喃と感心し、記録に残しておかねばと思っておるのです。毎日面白く読ませてもらっていた小説の最後に、こんな大仕掛けを入れてくるとは。

 推理ものって全然興味が無かったんだけど(推理ものを嬉々として読む人はどうかしていると心底思っている)、こんな乱暴な事をやるというのは中々大したものだなあ、と。

 

 

4.NHKのネット配信について

tech.nikkeibp.co.jp

驚くべきインタビュー。

政府とNHKってもっと癒着しているようなイメージがあったのだけど、それが誤解だったことがよくわかる(いや、旧の郵政省からの流れの人たちはべったりなのかも知れないけど)。

例えば収納した料金で作った番組を有料販売する事や、料金収納事務費に700億使っている(全収入7000億の10%)事や、その他のアレコレに対して政府も ? となっているというのが判ってしまう。

インタビューの最後は相当に壮絶で、そういう事アレコレについて政府は突っ込みを入れた、ボールはNHKが持っているという認識、2019年にネットやりたいと言うのは勝手だけどやるなら法律改正も必要、もう時間ないけどやりたいならまともな話をまとめて持ってきてね、やりたいってのは君たちが言い出したんだからね、話はそこからだぜ、という事を述べている。

変な省庁で修行するより、ドコモやNTTのきっつい辺りで揉まれてきた方が、政治・行政の間の調整をする能力は向上するのではないかと、この10年くらい思い続けているのだけど(※)、今回のもまさにその典型。小林政務官はドコモさんのご出身です。

※なぜそう思うのかは、口が裂けても言えないなあ。

 

こういうのこそ無料で流して欲しいんだけど、さすがに無理か。クロステックにはそういう大局観はないな。いや、マッチポンプなのかな...。

(アタシは「無料会員は一定期間全文公開」というので読みました)

 

 

 

5.The Originのアニメ

今更ながらにThe Originのアニメ版を家人と一緒に見た。

くそ過ぎる。安彦良和さんは二次大戦くらいで世界が止まっているのだなあ。あんな市民が宇宙にいるかよ。コロニーの中に、あんな街並みを作るかよ。家とか、血とかが、そこまで人を縛るかよ。

 

漫画版と同じセリフ、構成でやってて、なんでこんな古くさい話になるのか、当初は理解できなかった。

段々判ってきたのは、安彦良和さんはもともとそういう話を書いていたのに、こっちが勝手に脳内で補完・補正をかけてThe Originを読み、勝手に褒め称えていたのだなあ、ということ。

 

時としてアニメは残酷で、補完・補正をかけるスペースを剥ぎ取って、作品自体に向き合わせてしまうことがある。だから気の利いた人は、メディアミックスでアニメを作るにしても、小説や、漫画をなぞる形のアニメ化は避ける傾向がある。まあ、そりゃそうだ。

ところがThe Originのアニメ版は、そもそも安彦良和さん自体を売りした企画なので、漫画を正典に据えたところから始まってしまっている。せめて、俺の原作だけどアニメはアニメで別作品なんだから、誰か生きの良いのに好きにやらせましょうや、とか何とか言えなかったのかしら。ファーストにルサンチマンがあるダンカイの人のリベンジ的作品だから難しいとは思うけどねえ。

 

本件については、家人が最後まで2010年代の作品だという事を疑っていたのが印象的。本人の弁によると、

 スゴい古い感じがする。

 ホントは20世紀中に作ったOVAなんじゃないの?

とのこと。

久々に時間の無駄をしたなあ、と心の底から思えたのはスゴい。そしてその後、メディアミックスにおけるアニメ化の正しいあり方を確認すべく、幼女戦記のファーストシーズンを固め見したのだった。ああ、ここで溶けた時間も全部The Originが悪いのである。

ダンカイ、それはワタシの敵。

 

 

6.本業

七月後半戦にも言えないことがいっぱいありました。

そして、これからも言えないことがいっぱいおきるでしょう。確実に。間違いなく。

をを。

まあ、退屈するよりは良いかもね。

 

 

 

7/20 AD2020

映画館で並んで座って観たのは破だけで、あとは都度買い入れたブルレイを家で一緒に観ていた。振り切ったなというQもそれなりにお気に入りで、その続きは折りにふれ気にしていた。例えばシンゴジラを観たときも、庵野これからどうするんだろう、という所に話が向かっていった。これですっきりして作れるかねえ、等々。
面白いのはTVシリーズに全然興味を示さなかった辺りで、なんだか旧作は「違った」らしい。そうか、シンだけの付き合いってのがあるんだ、なるほどね、と思ったりもした。

 

今日、2020年に最終作が公開されることが明らかになった。メールで知らせてくれる人がいて、そこからネットを見に行ったら予告編の公開を伝えるニュースが幾つも見つかった。そうか、2020年か。

  

これで何をしてでも、何としてでも、2020年まで生き延びなければならなくなった。目と耳は保ったままで、映画館に行けるくらいの体力と財力はもちろん備えた上で。

 

 
本日は誠に良き日なり。
急ぎ記録に残すべく、ライブでエントリを記すモノ也。