all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

10/26 ELLEみる

シネモンド金沢で、ポール・みんなダイスキ・バーホーベンの最新作、ELLEを家人と共に鑑賞。バーホーベンならではの牽引力と、フランス語(およびパリの風景)のマジックが相まって、間然とするところのない130分を過ごす。

様々な事が直接には了解不能なワタクシとしては、物事は意味の繋がりとして整理・記述をしないと困ってしまうのであって、ソレなかりせば、例えば主演のイザベル・ユペールはメンテの行き届いた驚異の63歳でしかない。そのような機能不良のワタクシにおけるELLEは、まずは、何人かの人間が解放され自由になる物語を骨格とする映画であった。
息子は母を襲う暴漢を殺しエディプスコンプレックスから解放され(そして大人になり)、母はウソをつくべき原因であった両親の死去によってウソから、新しい依存の対象となり始めていた暴漢を息子が殺したことによって依存のループから解放され、その母がウソをつくことをやめた結果、母子の友人は不実な夫から解放され、それぞれが「からの自由」を得る。それ以外のほとんどの人間は、何かが起きない限り自分の形をした檻に縛り付けられたまま暮らしていく(もしくは檻から出られないままに死んでいく)という事実の陰画である物語、それを主題とする映画であったと言っても構わない。


さて物語である。決してナマの生ではなくて、意図を持って語られるストーリー。多数の人間が一定時間拘束されないと成立しえない様式であるところの映画において物語は必要不可欠な要素なのだけれども、しかしその物語が映画にベールをかけ続けるのも事実であって、我々は映画を見ているのか、物語がヴィジュアライズされたものを見ているのか、つねに混同をしがちだ。それを避けようとする映画は、物語を映画の支配下におくべく、物語に様々なミスティフィケーションの口輪をはめようとする。(という言わずもがなの事をなぜ書くかといえば、長逝した息子に伝えたかったことだから。高校を出るまでの残り2年のうちに、こんな話もする筈だったのだ)

もちろんELLEにおいても物語による映画の乗っ取りを避ける為にさまざまな仕掛けが凝らされているのだけれども、そしてその甲斐あって最後まで目を開けていられたのだけれども、しかし。

 この映画は女性の自立を描いた映画になっている

 とイザベル・ユペールはインタビューで語っている。
ミスティフィケーションの口輪が行き過ぎて主演女優ですらも視座が錯乱したのか、それとも役柄(ミシェル・ルブラン)に同一化しすぎた結果、ミシェル・ルブランが居たとしたら感じるであろうことを口にしたのか。いずれにせよ、そんな映画ではなかった筈だ。いや、もしかしたら商業的な成功のために、バーホーベンがイザベル・ユペールにそのように答えよと指示をしたのかもしれない。


プロテスタントの国に生まれ、WWⅡを子供の時に体験し、数学と物理を学び、映画の時間を前にすすめるための機械仕掛けの神以外に何も信じなさそうな男が、女性の自立を主題にするものかね。いつもバーホーベンの映画がサワヤカなのは、人間に内面がないからではなくて、人間の内面が機械仕掛けであることを認めているからだ。心?心は高度に発達した機械が、その機械を運用するために宿すものなのだ、とまでバーホーベンが言ったかどうかは知らないが(多分言って無いと思うが)、バーホーベンの描く人間は、自由意志で動いているつもりでありながら、自らを構成する機械の都合に振り回されてばかりいる。
機械仕掛けの人間(つまり普通の人間)が、意図の交換に成功したり、もしくは失敗したりしながら、発生するイベントに翻弄されていく様をバーホーベンの固有時間に巻き込まれつつ観る、それが「みんなダイスキ」バーホーベンの構図だと思っている。善悪も、宗教も関係ない。世界に人間はただ有るのだ。sex and violence?それらは人間の基本属性だ。だからそれらも、ただ有るのだ。そういう感じ。

ELLEはカソリックに喧嘩を売っているという評もあり、確かに当初はそういう気もしたのだけれど、オレが正しくカソリックは間違っているのだ等とバーホーベンがわざわざ主張するかね。世界はただ有り、そこで様々なことがおきる。あるものはループから脱出し、あるものは何も気がつかないままそこに留まる。小説『Oh...』を換骨奪胎して描こうとしたものは、そのようなものであったのだ、というのが一応の結論。カソリックもいじられてはいるのだけど、それは本質ではなくて、人間の機械性につけ込む枷の一つという程度の扱いだろう(要するに性欲と同じということ)。
もちろん主義主張があれば映画になる訳では無く、それが130分の映像となって観る者の目をそらさせないのは流石。しかも1938年生まれのバーホーベンは来年傘寿なのだが、枯淡という雰囲気は一切無く、バーホーベンのままフランス映画になっているという新境地を見せている。

 

 「この映画を作ることで、私は今まで自分が作り上げたことのないものを作れるかもしれないと思った。それは未知の世界への跳躍でもあるが、芸術家である以上、新しいことに挑むのは重要なことだ。私が一個の実存になることができるからだ。芸術家なら、できる限り未知の世界に足を踏み入れ、そこで自分に起きたことを見つめなければならない。」

 

と本人も述べておられる。


惜しむらく、というよりは単なる夢想であるのだけど、ミシェル・ルブランが父の死を知った刑務所からの帰り道におこした車の事故で、そのまま死んでいたとしたらどうなっただろうか。物語としても、映画としても破産をすることに間違いないのだけれど、本当の生とは、来たるべきクライマックスが確率の暴力によって阻害されるような理不尽さとたえず向かいあうところに存在するのであって、それが映画にならないかと妄想したりする訳である。ELLEがそういう映画である必然性はもちろん無いのだけど、もしあそこで足を踏み外していたら、ナマの生にもう少し迫っていたかもね、と思わなくもない。ま、プロデューサーは止めるでしょうし、ボクも金主なら止めるでしょう。

 

ということで、他人は知らねど、ワタシには大変に面白い映画でした。次回作を期待します。

 

と思ったらすでに板が出てました。