all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

3/20 先生と迷い猫

花粉症が酷くほぼ一日中寝たきり。目も開かないし、頭の芯までしびれるような眠気が周期的に襲ってくるのだ。

とはいえ腹もすく訳で、午後8時ごろに階をおりて台所を物色。リビングにいた家人がAmazon Prime Videoで映画を見始めたので、それに付き合いつつ簡単な食事。

食べ終えてすぐに床に着くはずが、何となく引っ張られて最後まで観てしまったその映画は『先生と迷い猫』という。

www.sensei-neko.com

佳い映画であった。

そこで、受けた感銘を他の人と共有しようとネットを探してみれば、良きにつけ、悪しきにつけ勘違いした感想の垂れ流しで、成る程ミナサマの読解力というものは恐ろしくプアなのだなあと、別種の感銘を受ける。

例えばここの先のレビューなどをみれば、いかにプアなのかがすぐにわかる。

 

 

本作は、外界との窓であった妻が世を去った後、どうやって自分と世界を結びつければいいのか、その方法が判らなくなった男(元校長)が猫との関わりによって救われるという話なのであって、その軸は最初から最後までまったくぶれていない。

終盤になぜ猫を探すのかと小学生に問われた男が

『大切だから。どんな生き物でも必ず死ぬ。だから、残されたものは折り合いをつけるために必死になる』とまで語っているのに、よくもまあ皆さんお好きな事をお書きになるものだと感心してしまう。

男は折り合いをつけるために最初から必死なのであって、ただそれをどうしていいのか判らなくなっていた*1だけだと解することが何故できないのか。

 

男を演じたのはイッセー尾形。内面の葛藤やとまどい、おびえを一切感じさせない序盤から中盤にかけての演技はさすがと感心するものだが、もしや世間のレビュアーはそれに最後まで引っ張られたのか?

だがしかし、上掲のセリフで世界が反転するのではないのか?男の沈黙も、傲慢に見える態度も、窓がないことの結果であって、男の内面とイコールではないという事が了解されるのではないのか?

 

プアなレビューを書く彼らは、自分が大切な人を失うという事がどんなことなのかをまだ判っておらず、また他人がそうなったときに何が引き起こされるかを想像する力を持ち合わせていない、まさにプアな人々なのだと仮定すれば、彼らの反応に一応の説明がつく。だからと言って、このゲンナリした気持ちが晴れる訳ではないのだが。

どうしてこんな良い映画を観ていながら難しい、いやな気持ちにならなければならないのか。誠に世の中はバカばかりである。まったく、首をくくりたくなる。 

という気持ちが、この半年更新をサボっていたことの理由の半分である。バカに付き合わされるとただでさえ不足しがちが『生きる力』が溶けてしまうのだ。まあ、あとの半分は、本当に忙しかったからなんだけど。

 

ともあれ、この映画は、窓を失った男が猫を介して自ら窓を開き、恐れや不安という『自分の事』を話すことを得て救われる物語であり、よって最後のところで男に訪れた救いが現世のものなのか、はたまた死後のものなのかは結局のところどうでもよい事なのだ*2

 

そして、今現在の我々の苦悩に対する肯定と、今後の我々を襲うであろう運命に対する慰めが『先生と迷い猫』によってワレワレに訪れたという事を記して、久しぶりのエントリは終わる。この映画によってワタクシも、家人も大いに救われた気持ちになったのだ。

なるほど、ワレワレは『救われる存在』だったということだ。それはもちろん喜ぶべきことではないのだが。

 

*1:ずっと妻に甘えていたダメな男だったからなのだろうと容易に想像されるのであるが

*2:しかし、ここについても多くのレビューはすっきりしないと難じている。すっきりする事がそんなに大事なのだろうか。まことにプアな話である。