all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

1/24 中日新聞、よい新聞

www.chunichi.co.jp

2年前、博多でふらりと入った専門店のもつ鍋はとってもおいしかった。本場でない金沢で、期待する方が間違い。と、思いきや、看板に恥じないおいしさだった。

 一番人気は「龍 秘伝のたれ」(2人前3412円)=写真。スープの味付けは濃く、もつと一緒でちょうどよい加減にしてある。秘伝だが、アレルギーの問題があるので、ピーナツでこくを出していると教えてくれた。

 みそ仕立てと思うかもしれないが、しょうゆベース。味に変化を持たせる豚肉のほか、もやし、キャベツ、にらが入る。女性客のリピーターが多い。ちなみに店長さんの名字は「筑後」だが、金沢出身。 

 

「アレルギーの問題があるので、ピーナツでこくを出していると教えてくれた」

 

この文をそのまま解すると、ピーナツにはアレルギーがないということになりますが、マジでしょうか、中日新聞さん。

  1. ピーナツにはアレルギーなんか無いサー。(馬鹿説)
  2. ピーナツにはアレルギーがあるが、のTYPOだよ、メンゴ。(無能説)
  3. 聞き取りしたまま書いたサー。アレルギー?店の考えることでしょ?(開き直り説)

大体この三通りの落ちが考えられて、どれをとってもKUZUという。

ちなみにうちは北陸中日新聞を取ってたんだけど、あんまりにも偏向報道がひどいので子供の教育上まずいということで三年前に北國新聞に切り替えた。新聞代の集金にきたおばちゃんに、ごめんねーやめる、と伝えると、おばちゃんは

「やっぱ、アレ?他のお客さんも最近ひどすぎるって結構やめてる」と言って、左手をさらに左に広げるアクションをしたのだった。ああ、そうです、その通りです。

おばちゃんの諦めっぷりが未だに印象に残ってます。

 

 

しかし今回の記事を見ると、偏向報道うんぬん以前に基本的な能力がなくなってしまっているのだなあというのが判る。うーん、チェックシステムって無いの?それじゃただのBLOGだよ?

 

ちなみに中日新聞から切り替えた北國新聞は、主計町の踊りの流派がチェンジする、それは芸妓さんが家元を怒らせたからだ、という地域に密着した快記事(怪記事)を載せたりするナイスな奴です。大和碓大もめ問題も丹念に取材して連載しているし。少なくとも一読者としてはそう思う。昔のような権益誘導一色の紙面でも無くなったしね。

時々露骨にスゴいのもあるけど、まあそれはご愛敬。少なくとも中日新聞の安定のバイアスに比べれば雲泥の差だ。

むしろあそこは「事業」の方がアレだけど、そこから先は言えねえなあ。

1/24 雑記

Intermezzoから更に後退して雑記。

 

大変に追い込まれた状況で

わが軍の右翼は押されている。中央は崩れかけている。撤退は不可能だ。状況は最高、これより反撃する。

などと発することが出来る人はもちろん格好がよいのであるけれども(※)、そのような振る舞いを可能にするのもミッション(召命される方の奴な)なり大義なりの外部要因か、それとも信念なりの内部要因かがあればこそであって、そのようなものが一切洗い流されてしまった後でも可能なのだろうか。

上記の文言でそのまま検索すれば、この格好いい人が誰なのかすぐみつかります。

 

例えば会社にアレな人がいるとする。自分では仕事をやっているつもりの、しかし実際には口ばっかりで全く成果の出ない、そのくせ暇さえあれば他人の行いをあげつらい如何にその人物が劣っているか不要であるかを声高に話し、であるのだが大通りのことを指摘する能力もないので引き合いに出せるのは誠に些細なことばかりで、自分の仕事が出来ないことに関しても、まずは状況のせいにして、次は相手のせいにして、その次はそんな難しいことを頼むほうのせいにするという、まあ見事なばかりのアレが自分に被害を与える程度の距離で会社に在籍しているとしてみよう。

去年の2/2までの自分なら、まず間違いなく、何とかすることしか考えられなかった。もちろん「何とか」というのは「潰して追い出す」とかそういう短絡的な事ではなくて、そのアレが引き起こす可能性(リスク)を洗い出して、それに応じた計画を立てるということだ。そしてみなさんご承知の通りリスクへの対応は、「回避」、「転嫁」、「軽減」、「受容」四つに大別される。例えばここにまとめてある通り。

www.ipa.go.jp

ただしPMI欽定訳語とちょっと違ってるね。軽減→低減、転嫁→移転、受容→保有。なんだろう、ガチ情報系とPM系で譲れない差違があるのかしら。

 

「アレな人」がもたらすリスク(可能性)を計り、現状取り得る選択肢の中で対策を立て、かつ予防措置が可能であればそれを講じ、ビジネスへのインパクトを抑える。そのためにも「アレな人」がどのような振る舞いをする人間なのかをプロファイリングし、その理解に努め、周辺への影響の度合い(浸透度)もアセスメントし、計画・施策の確度をあげるべくインプットしていく。そのような事が組織の維持・運営には必要なことだと信じていた。いやその必要性は、いまも信じてはいる。問題は、組織の維持・運営が自分の内発的な目的ではなくなってしまっているところにある。前はビジネスの成功というのは、そこに参加した人の集まりで分かちあうものだ、と素朴にも信じていたのだ。いや、未だに信じてはいるのだ。しかし。

 

septiembreokbj.hatenablog.comに書いたとおり、会社というのは契約による結びつきでしかない。それは心の底から信じている。しかしそれと同時に、仕事は、仕事と格闘するチーム(という組織)によって成し遂げられるという事も同様に信じている。だからチームの練度を上げること、チームの能力を向上させることというのは、成功のために必須だと考えて行動してきた。成功?目的を達成することだ。チームは目的達成のための道具であって、チームのために目的がある訳ではない。逆説的だが、だからこそ成功はチームで分配されなければならない。成功保証で契約をしているわけではないのだから。着手に半金、成功で半金、そこまでは言わないが、コンペティティブな仕事の場合など常に成功が待っているわけではないのだから、目的の達成は別途評価すべきだし、それが次の仕事に対するモチベーションにもなる。信賞必罰と書くときついが、功績ある者は必ず賞すべきだし、個人はチームの支援を受けて動けているのだから、成功への賞はチーム全体にも与えられるべきだ。これは未だにそう思っている。

個人として(プロフェッショナルとして)確立し、エキサイティングなチームプレーで成功を獲得し、そしてその報酬を手にする。続けられればこれほど楽しい事はない。その楽しさは、例えばヴィンランドサーガなどに詳しい。

さて視点を変える。いままでは楽しく働くための視点だ。

 

 

そして今度は、楽しく働いてもらう側の視点に立ってみる。チームを編成し、チームに働いてもらう側の立場だ。

このチームが目的に合わせたプロジェクト的なものではなく、ライン的な、定常的な組織の場合、幾分気になることがある。目的のためのチームが設定されるのではなく、チームのために目的が設定されるという倒錯が始まってしまう可能性だ(日本は倒錯に満ちあふれた国なのではないかと思うよ)。そうするとチームは結束するけれども、その外部(対会社)との間においてアノミーが発生する(YES! 部門間の派閥抗争というのはアノミーだと思っているのですよ)。

社会規範が弛緩・崩壊することなどによる、無規範状態や無規則状態

社会を会社、規範をミッション、ビジョン、経営方針と読み替えてみよう。アノミーである。チームという中間集団が固有の意思(モーメントでもいいけど)を持つことにより、「会社の規範」がないがしろにされるときに危機が訪れる。とはいえチーム無しで仕事を行うことはあり得ない。まだ、いまのところ。

ともあれ、ライン的なチームを持つ場合には「会社の規範」とチーム固有の意思に乖離が生じないような手当が必ず必要になる。各チームには政治将校を置く?もしかしたら本当にそれが答えなのかもしれない(マトリックス型組織の複数の指示系統というのは、ソヴィエトからヒントを得たのではと思ったりしなくもない。根拠のない妄想だが)。

 

更に退嬰的な、チームなどいらぬ、組織を機能性を軸に階層化してそれで仕事をこなしていくのだ、要員はダイレクトに組織と結合するのだ、という古くさい組織論に戻るのもありだが、いまさらそんなのでどうにかなるのはコピー機や携帯電話の販売会社程度のものだ(はっはっはっ、イチバンとかね。サイアクだ)。尚このような組織論でどうにかなると思われないためにも、非反復的な粒度の小さい仕事はスルーするなどのルールが別途必要だ。変な仕事は組織を腐らせる。まあ利益率がらみの制約を入れれば、どこかで気がつくという話もある。

 

というわけで、出来ればプロジェクト型の実行チームを、それが無理な場合には「会社の規範」と乖離しない仕掛けを作り込みつつライン型のチームを編成できるようにすると言うのが普通の結論なのだが、それで組織に関する問題が目出度く完了する訳ではない。組織は目的のためのツールであれば、ツールを行使する側からの使い勝手を無視する訳にはいかないからだ。

 

 

さて更に視点を変える。究極的な目的を達成するために、必要とあらばリソースすべてを動員することも許されるというポジション(以下、P)が振られてしまった場合を想像してみよう。

会社というのは自身の存続・発展を希求し、そのために活動を行う存在である。目的もミッションもビジョンももちろんある。しかしさらに根本的な目的は自身の存続・発展にある。やる事終わったら会社は解散してもいい、などと創業者が宣うことも無いではないが、それが通るなら会社ではなくて大規模個人商店に過ぎない(法人格を取るなと言いたい)。

何が言いたいかというと、「それをやったらこの会社は存続・発展するのか?」という超越的な物差し(以下、M)が用意されていて、それによって計画(経営計画、事業計画)からビジネス現業までのすべてが評価される場が会社なのだということだ。そして今仮定した視点とは、儲かったか否かだけではなく、楽しく働く・楽しく働いてもらう、ということすらMに還元評価しなくてはならない、その代わりに必要なら社内のリソースを総動員する指示も出せる、そのような立場の人のものだ(あー、総動員指示を出せるのはCEOで、単なる代表取締役社長だとちょっとアレですが。いや、会社法的には出せるのだけど、CEOが付かない代取が総動員令を出すのはガバナンス的にどうなのということです)。

そのような立場からすると、(その会社に則した)適切な計画が、(その会社のリソース内で)適切に実施されている、ということが保証されることが一番大切なことで、それ以外はまあ、趣味の範囲で、ということになる。

そうすると組織論に期待することも大いに変わってくる。

  1. 経営層の考えているミッション、ビジョン、経営方針(経営計画)にしたがったビジネス現業が展開されること
  2. 経営方針(経営計画)に影響を与える可能性がある情報が、ビジネス現業から迅速に上がってくること

大きくはこの二つ。もちろん適切な計画策定のためのスタッフ部門は存在する前提として、情報の展開の配布と収集が適切に行える仕組みになっていれば、組織に対する期待としてはまずはOKなのだ。

ビジネス環境が変わるスピードが早くそれに対応した組織が必要だ(から計画なんかやってられない)、とか、事業の根本は赤黒なのだからそれが明確になる小集団の集合として捉えるべきだ(信者多いね)、とか、そういう突っ込みが死ぬほど来そうだが、それは

  • どのくらいのスピードで計画のループを回すのか(DODAについてはすでに述べた)という問題に過ぎないのでは?

    septiembreokbj.hatenablog.com

  • 小集団だと赤黒がはっきりさせやすい、という論に異を唱えるつもりはない。なんと言ってもエヴィデンスがある話だから。しかし、それを万物の基本において物事を考えるべきだという説には大いに疑義がある。むしろ中間集団ごとに発生する意思の統一にどう対処するのか。
    僕は地中海の水平線に打たれた巨大な疑問符だ!

ということではないのか。 保証したい性質と、それを実現する仕組みの話を混同するのが大嫌いだ。あ、また脱線した。

 

そのように経営層とビジネス現業の間の、情報の配布と収集を、その会社のビジネスドメインが求めるスピード(と精度)で行えるような仕掛けの担保こそ、Pが自らの組織に求めるものの大枠である。それ以上でも、それ以下でもない。

社員の成長?モチベーション?それらの実現もすべて計画のうえ実現されるべきものであって、必要ならば計画に組み込むのだ。「人が育つ組織」という言い方の暗愚さが許しがたく嫌いだ。人を育てられる人はいる。間違いない。しかし組織は人を育てられない。計画・プログラムがあり、組織(に属する個人)が実行するだけだ。計画を作らずに、組織という名のブラックボックスに丸投げをするのはただの思考停止である。

また、計画を作るということに対して、現場の想像力や自発性を縛るのかなどと難癖をつける奴は(いや、いるのよ、ホントに。口に出すかどうかは別にして)、まず持っていると主張している所の想像力なり自発性なりを、計画に従ったビジネス現業の実施に振り向けてほしいと切に願う。箸の上げ下ろしまで列挙した計画ではないのだから(ああ、一部の大企業だと作るかもね。でもそれは別の問題)。それでも力が余るなら計画への提言を、それしきでも足りないなら計画への参画をしてほしい。要はそんな力があるのなら、是非発揮してほしい、その対象を指示するからということなのだ。

...やばいな、仮定の話をしているというマスクにヒビが入りつつある。

 

 

ということで、いま気にしているのは、経営とビジネスの現場を繋ぐ、いくつかの論理変換のレイヤ をどうやって組織に設置するか、どうすると自然にやれるかということ。

 

よくある組織論比較。

bizhint.jp

なお、これはお笑いの例としてあげた。事業部制(プロジェクト型)...って何言ってんの?PMI(Post Merger Integrationじゃない方)のお経に毒されたアタシじゃなくても、普通にみんな嗤いそうな感じ。

 

もはや古典のマトリックス組織。

Matrix management - Wikipedia

www.pmi.orgなどなど。

 

経営とビジネスの現場の変換誤差を無くすための考察は枚挙にいとまが無いが、しかしどれもしっくりこない。ライン・スタッフ制度をビジネスユニット・経営企画室として実現するというのもよくあるが(うちでもやってみたが)、これもすっきりしない。マトリックス組織も、うーん。

と、ほぼ自分の告白になってきたのだが(しかしもちろん、Pではないよ)、どのように会社組織が見えているのか(いたのか)というのは上に記したとおり。

最初にくどくどと説明したアレな人のことを気にするのをやめたのも、アレな人が見えなくなってしまったからだ。リスクが読み切れて、数字上のインパクトもわかったので「保有」を選択したという話もなくはないが、目の分解能が変わり、微細なことに反応しなくなってしまったのが本質だと思う。Mのことを気にするようになると、見えるモノが変わってくる。本当に。殊に子供を亡くして個人としての目標がすべてなくなったアタシにおいては、その変化がとても著しかったようだ。

いままでも仕事がすべてつらかった訳で無くて(苦しかったことはいっぱいあるが)、仕事を通じた自己実現や、その様を子供に見せている(つもり)ということに意義を感じていたし、なにより問題(特にテクニカルな問題)が解決するときの爽快感を心の底から楽しんでいたと思う。それを去年の2/3に失ってしまった。その気持ちは二度と戻ってこない。そして「それをやったらこの会社は存続・発展するのか?」という物差しに仕える仕事を始めた。個人の目的、目標がない男にはちょうどよい仕事だと思う。

 

 

さて、ようやく冒頭の自問について考えられる。

結論から言えば、そのような格好のよい言や、態度をとる日はアタシには二度とやってこない。アタシの仕事は、必要な人や仕掛けを明らかにして、それを準備して、適切な時と所に置くことだ。Mに仕えるとはそのようなことだ。

ほとんどの戦いの勝敗は、最初の一発が撃たれる前にすでに決まっている。

まさか本当にそんな事を思う日が来るとは思わなかったが、しかしこれが無常という事かと思う。

Mはミッションでも大義でも個人的な信念でもない。ただの(しかし超越的な)基準なのであって、アタシのようなものが仕えるのにちょうど手頃なものなのだ。少なくとも、何もやることがないよりは全然よい。これは韜晦ではない。繰り返す、これは韜晦ではない。

 

 

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いまの仕事がいやになったら、このエントリを読み直して考えるようにしよう。もう帰る道は無いのだし、そのときに新たな変転も訪れていないのなら、ココにいてソレをするしかないのだ、ということを容赦なく思い出すためにこれを書いたのだ。

機能不全な自分の面倒をみるというのは面倒なものであるなあ。

 

1/17 Intermezzo

決して更なる逃避ではなく、本当にIntermezzo。最近続いている、興味が無い人にはツライ話題の息抜きとしてのエントリ。というか、いつもの「不可思議な繋がりによる不思議な気持ち」が本日も発生したので(以後、この状況をIt makes me wonder、IMMWと記す)、忘れないうちに、その備忘録を。

 

会社でお昼を食べる

→食事のお供にWEBをブラウズする

→「出井さん」に関するタノシイまとめを発見する。

matome.naver.jp 

丹念に情報をひろってあり、その情報をしてストーリーを語らしめるという、まとめというよりはドキュメンタリーのようなポスト。労作という言葉だけでは済まされない、センスのある記事となっている。アタシには無理だけど、こういうのが書けるのはウラヤマシイ。

 

さて「出井さん」(いでいさん)である。「出井さん」といえばSONYを更地まで誘導する線路を敷設し(本人はクォンタムリープ(※)させるつもりだったらしいが)、あわやの所までおいつめた、それはそれでスゴイ人である。

※「出井さん」はクオンタムリープという言葉が好きらしく、後に作った経営コンサル会社の商号もこれ。ところでquantum leapという言葉のカタカナ表記は、2文字目を[オ/ォ/ア/ァ]のいずれにすべきか気になったりしませんか?勿論アタシは気になる方です。そこでググったところ、https://ideaisaac2.blogspot.jp/2010/03/kwontamu-or-kwantamu-for-quantum.htmlというBLOGを発見。適切な訳語があるのだからカタカナにするなんて考えた事無かったから始まる中々良いエントリだなと思い、周辺調査をすると、

https://ideaisaac2.blogspot.jp/2018/01/old-building-of-my-alma-mater-became.html

の内容から、ご出身が至ってご近所であることが判明。ヲヲ、IMMW。結論的には「クォンタム」で行こうと決めました。なお「出井さん」的には「クオンタム」です。

 

  

アタシが「出井さん」に注目するようになったきっかけは、1995年に出版された「ソニー自叙伝」という本への違和感にある。創業50周年記念の社内誌を一般向けに仕立て直したものなのだが、振り返っての自慢ばかりで、この先も同じ50年があるような気分に退廃の兆しを感じたのだ。最後の章には大賀、出井(ああ、ついに敬称略になってしまった)のメッセージがあるが、それとて成功者の驕り満載で、一回やけどして学習するのだろうなという感想しかなかった。いや、その前の社長就任時のメッセージ、「デジタル・ドリーム・キッズ」がすでに気持ち悪かったな。自分の中に「夢」も「子供」もいない人の言いそうなことで、そんなのがSONYのCEOになっちゃったのかと暗澹たる気持ちになったな。だから「出井さん」の事はずっと気にしていた。どうするのだろう、どうしていくのだろう、と。

結果は上掲のまとめサイトにあるとおりで、とても無残なことの連続だった。SONYは今も尚そのときの傷を抱えているのだろうけれど、少なくとも「どうやればSONYを潰せるか」というスタディに成功したはずで、最近の復調はその学習の成果に基づくモノなのではと思う(そう思いたい)。

 

そんな「出井さん」ネタにシミジミとしつつ、ゲンナリとしつつ昼食を終え、では気分転換に器楽曲でも聴きながら次の企画の構想でも練るかと、BGMの選択をした。選んだのは「Brahms, Johannes  :  3 Intermezzi  Op.117」。クリエイティブな午後に向けての間奏曲である。いいじゃないか。

曲の背景が知りたくなり、解説を検索してみる。もちろん見つかる。インターネットは偉大である。みんなが情報を乗せたくなる・発信したくなるという観点において。

ブラームス: Brahms, Johannes/3つの間奏曲| 3 Intermezzi ピアノ曲事典 | ピティナ・ピアノホームページ

ブラームス/Brahms,Johannes ピアノ曲事典 | ピティナ・ピアノホームページ

なるほど。

 

ところでこのサイト、ヘッダを見ると「PTNA(ピティナ) ピアノを弾く!聴く!学ぶ!」とある。ピアノに関する何らかの団体のようである。どんな趣旨の集まりなのだろうか、と[協会概要]のページに移動してみると…。

www.piano.or.jp

まったくもってIMMWな事である。そしてそれはとてもメデタイことなのである。なんとなれば、自分の想像力がこのようにIMMWを引き起こせるとは思えず(想像していない事が起きるからIMMWなのだ)、それは世界が自分の妄想だとはとても思えないという事に繋がり、つまるところ世界は自分と独立して存在しているのだと言う感覚をもたらしてくれているのだから。

そしてIMMWを容易に引き起こす場としても、インターネットは誠に偉大な存在である。Vivaインターネット。

 

Intermezzo、終了。

 

 

追記

実は「ソニー自叙伝」は駄本であるが故に、まだ本棚の中に納められている。成功の連続で50周年を迎えたとき、驕った人がどのくらい馬鹿な事を言い出すのかという得がたい記録として、「ソニー自叙伝」には未だに大いに価値があると思うのである。その価値を生かすために、まずは社業を大いに成功させて思い上がらなければ。

1/15 オーディオ再生環境のリフォームに関する備忘録(その2)

昨日に引き続き、オーディオ再生環境のリフォームに関する備忘録。本日はリフォームに当たっての要件整理の経緯を。

 

とはいえ、いきなり要件が出てくるのもはしたない。その手前に基本的な方針があり、それを踏まえての要件整理でなければならないのは諸賢もご承知のとおり。アタシの場合、「レッツハイエンド!」という積もりは全く無くて、「現実的なコストの範囲で、聴きたいものを聴きたいときに聴きたいように聴く」が基本方針となる。

「現実的なコスト」という言葉をもう少しブレイクダウンすれば、たとえば五年スパンでハードウェア交換をするとして年平均投入額を年収の1~2%程度とする、等の数値目標に置換されることになる。人はオーディオのハードウェアのみに生きるに非ず。コンテンツにお金を使うのがむしろ本丸なのだし(アーティストにお金が流れないというのは、長期的には破滅しか待っていない)、趣味と実益がないまぜになっている自転車だって結局継続的にお金がかかるのだ。もちろんオイシイ物も食べたいし、お酒だって飲みたい。その他にも、もっと、もっと。

それぞれ継続したい複数のサブジェクトで有限なリソース(お金)の奪い合いをする以上、持続可能な線を想定することは不可欠だ。「現実的なコスト」の趣旨とはそういうことだ。

そして「聴きたいものを聴きたいときに聴きたいように聴く」は、こう言い換えてもいい。「聴きたいと思った曲を、思いついたその瞬間に、家中のあらゆる場所で、それなりの音質で聴きたい」

音楽に仕えるのではなくて、自分の生活に音楽をまとわせたいという事なのだ。その基本方針を踏まえて要件の整理を行った。

 

 

要件整理その1:音源の決定

この機に有料ストリーミングサービス(SpotifyAmazon Music Unlimitedなど)を使うということも考えたが、以下の理由から踏み切ることができなかった。

  1.  有料ストリーミングサービスは、再生デバイスの縛りがイマイチ厳しい(まあ、そりゃそういう気がする)。ハードウェアへの投資はできる限り避けたく、Raspberry Piなどの安価なLinux系コンピュータ/デバイスを使えないのは困る。
    …これは完全に当方の思い込みによる誤解で、後述のOpenHome化のためにアレコレ調べたところ、VolumioでSpotifyやTIDALを扱うためのPluginを紹介するエントリが数多く見つかった。つまり想定のハードウェア環境を用いるための障壁は、調査と実施のコストに集約されるのだね。しかし本当に困るのは、二番目の理由だ(二つ理由を挙げて、二番目が重要だという展開になっているのは、書いていて気がついたのだが、まるで花森安治のようだ。もちろん内容的にそんな立派なことは書いていないのだが)。
  2. 不可逆圧縮の音源は避けたい。上記の有料ストリーミングサービスは320kbpsとは言え不可逆圧縮。利便性に引きずられて、a.居間、b.図書室の(自分にしては)高めのオーディオセットのメイン音源が不可逆圧縮になるのは困る。何度も聴いた曲が違う音になるのも勿論嫌だし、何度も聴いた曲であっても、まだ発見することがあるのではないかという気がしており、その機会が奪われる(可能性がある)のも困る。TIDALが日本で正式にサービスされていればまた話が変わってくるのだが。(いや、それでも買うべきコンテンツは買うだろう。お布施を払わずして音楽の存続無し!)

 

ということで、手持ちの2000枚程度のCDをApple Lossless Audio Codec(略称:ALAC)でリッピングしたデータを主たる音源として継続運用することを基本とする(※)。別に有料ストリーミングサービスを今後も相手にしないと決めた訳ではなくて、むしろコンテンツを購入するためのショーケースとして、本件リニューアルの次の改修では追加する気満々なのである。

※振り返ってみれば、よく2000枚もリッピングしたものだ。しかも実は二回やっているのだ。2004年にiPoderになった瞬間に始めた初回のリッピングでは、物を考えずにAACでやってしまっていたのだ。どうかしていると思う。

ちなみにALACなのは昔iPoderだった名残であって、Appleワールドでは可逆圧縮はALAC一択だったのだ。ALACがオープン規格に変わり、ライセンス料が不要になった時にはホッとした。その結果、多くのデバイスでALACがサポートされるようになり、ワタシはめでたくiPoderを卒業することができたのだった(リフォーム前には、まだその名残があった訳なのだが)。

 

  

 

要件整理その2:運用形態

さて約2000枚のCDに由来するALACデータを、継続して主たる音源として扱うことにした。これがどの位のサイズになるかというと約600Gバイトである。よって個別のHDDに格納するのは現実的ではなく、リニューアル前もNAS(Samba)に置いて集中管理を行なっていた。しかしSambaにアクセスできるものはPCなどに限られる(N-70AもOKだが)。新たな運用拠点であるd.風呂やe.玄関にもPCを配置するというのは、見栄え、機器費用、操作性、運用の手間、いずれの観点からみてもどうかしている。一箇所に集中して管理される音源、そしてオーディオセット毎に配される(リーズナブルな)再生装置が必要だ。

そして付け加えるなら、情報を生産しない局面でPCを使うことに対して非常に抵抗があるのだ。これは各種ソフトウェア開発で禄を食んではや30年という経験からの見解。PCの万能さ、それに反比例する面倒くささというのは、PCが情報をcreateするためのツールであるという一点において止揚されるものであって(なんかスゴいこと言い出してるナ)、情報をconsumeするだけならPCに頼らずともスマフォやタブレットをインタフェース(=コントローラー)にすればよいのである。もちろんアタシはそうする。1つのコントローラー、マルチなオーディオセット!

  

その要件を満たす(ちょっと古い)解がこれである。

Digital Living Network Alliance - Wikipedia

DLNAとは音声や動画を再生する機器が、ネットワークを通じてどのような規約で連携すれば良いかを定めたものだ。いつも頼りにするWikipediaであるのだが、本件に関してはまともな説明が載せられていない。仕方が無いので備忘録を書くのに必要な範囲でDLNAの説明を行ってみる。

 

まずは「図解、これがDLNA1.5だ」という絵を描いてみた。

f:id:septiembreokbj:20180115220936p:plain

図中では「音源データ」となっているが、これが動画であっても同じである。コンテンツを管理するDMS、それと通信して再生処理実務を受け持つDMR、それらに指示を出して再生処理全体の制御を行うDMC、それら3つの要素でDLNA1.5は構成される。この三つの要素が揃うと、ネットワーク経由で各種コンテンツ再生が制御、実行できるようになるのだ。

 

ところで「要素」と微妙な言い回しをしたのには理由がある。これらは規約通りに振る舞う「何か」であって、まず間違いなくソフトウェアで構成されるのだけれども、そのソフトウェアを実行するハードウェアが分離可能かどうかはケースバイケースだからである。

例えば図中に示したとおり、DMCはスマフォで実行されている(人影の隣のアレは、スマフォのアイコンです)。一般にDMCはソフトウェアの形で提供され、好きなハードウェア(スマフォなり、PCなり)にインストールして利用することになる。対してDMSやDMRはソフトウェア単体の場合もあれば、ハードウェアと一体型の製品として提供されることもある。そして意外なものがDMRとしての機能を提供していたりする。Amazon Fire TV(※)やChrome CastなどもDMRとして動作するのだ。あまり言われてないことだが。

※しかし、ALACを理解しないという重大な問題がこいつにはある。

同様に、最近のNASはほぼDMSとして振る舞うことができる。Network Attached Storage(NAS)とは言うモノの、単にネットワーク上でファイル共有するだけではなく、各種のサービスを提供するのが一般的になっているのだ。

 

 ところでDLNAに(ちょっと古い)という修飾をつけたのは、今は機能的な上位互換であるOpenHomeという規格があるからである。平易な説明は例えばここなど。なぜDLNAがFuckであるかまでを含めて、過不足なくまとめておられる。

kotonohanoana.com

(いやー、スゴいなー、勉強になるなー、と上記を起点にサイトの中をあさっていたら、あら、こちらプロの方なのですね。なんと気前のよい情報の公開っぷり。今回、本当に助かりました)

 

であるのだけれども、

  1. N-70AがDLNAまでしかサポートしておらず、ソフトウェアアップデートの目が低そうなこと(オープン規格をつかった企画のセンスが弱い日本メーカーで、そのうえ生産中止機種だから…)。
  2. NASもNETGEARなのでOpenHomeサーバーのパッケージが用意されていないこと(※)。

NASを買うときにSynologyとどちらにしようか迷ったのだが、質実剛健!とNETGEARを選んだのが裏目に出た。Synologyは家庭内サーバーのプラットフォーム的な発展を遂げていて、本件サーバー(ソフト)も何種類かパッケージが提供されている。READYNAS OS向けのMinimServerのパッケージを見つけたときには小躍りしたのだが、よく見ると当家のやつはサポート対象外。どうもある時期にREADYNAS OSは見切りをつけられてしまった模様。Oh、やはり駄目なのだね。

 

などの制約から、当家では一足飛びにOpenHomeに行けないのである(※)。それにDMR、DMCに何を選ぶかで実際には相当使い勝手が上下するという情報もあるので、まずはDLNAレベルにして、追々OpenHome化を企むのが当家においては現実解であると思われる。

DLNAでは物足りないとなったときには、N-70AとNASそれぞれにLinux Boxをくっつけて、そこでOpenHome対応を吸収させるという解決策は想定しているのだが。いや、もしかしたらNASはNETGEARからSynologyに乗り換えるかな?しかしそんな金が…。

 

 

 

まとめれば「OpenHomeへの将来的な移行を低廉に可能としつつ、まずはDLNA1.5に従った形でデータの保存、再生、制御を運用していくこと」を要件とする(というか、した)。もちろんその要件を受けて実現方法を設計するのも自分なのであるが。

 

という辺りで本日は力尽き申した。続きは明日(か、明後日)くらいに。

 

 

 

で、最近恒例化してきた、本日の一枚的なもの。 

昨日の一枚から細い糸がつながっていて、それはカヴァーということ。といってもBrazilをやってるよ、というシンプルな話ではなくて、もうちょっとこじれている。

人の曲でも構わずやるというのはロックの人には割合に珍しいのだけど、その珍しい人(バンド)に例えばSantanaがいる。カヴァーばかりのアルバムを出したのもそうだけど、実は昔からマイルスをやってみたり、ジョビンをやってみたりしていたのだ。そう、今日の一枚はカヴァーされた側のほう。ジョビンがStone Flowerを出したのは70年。サンタナがカヴァーしたのがキャラバンサライだから72年。面白い辺りを狙ったなサンタナ、と思いつつ、でもカヴァーしたくなった気持ちもなんとなくわかる。キャラバンサライの流れの中にはまり過ぎているのだ。

その表題曲を含む本アルバム(アルバムタイトルもStone Flower)、ジョビンのなかでも一、二を争う出来ではないか、と思う。まさかそんなところから歌い出すなんて、と聴いている側をくらっとさせるBrazilにしても、ジョビン以外には出来ないであろう軽みにあふれている。さすが空港に名前を残す男は違うぜ。

未聴の人は損をしていると言っても過言ではない、そのように断言する自分にためらいを感じさせない一枚。アマゾンのレビューも全員星5つという、まあちょっとあり得ない状態。それを聴き直すチャンスに恵まれた今日は、(幾分なりとも)よい日なのだと記録に残しておこう。

1/14 オーディオ再生環境のリフォームに関する備忘録(その1)

うちのアチコチには大小様々なオーディオセットが陣取っている。と書くと偉そうだな。しかし「オーディオ」や「ステレオ」の意味するところは「音響」や「立体」に過ぎないのであって、それが再生機器に対するシニフィアンでもあるというのは無理がある。機器をポイントし、かつ英語表記にしても通じる範囲である「ステレオセット」、「ハイファイシステム」、「オーディオセット」あたりから自分なりのタームを選ぶのが妥当なのであって、とすると自分の感覚としては矢張りオーディオセットといわざるを得ない。実物がどのくらい偉そうかというのはさておき。いや、むしろ実物がハイファイか否かというところに自分でも疑義があるが故に。

 

余談だが、こんな名前のパン屋さんがあるそうである。

www.signifiantsignifie.com

子細にWEBを眺めたが、店名の由来は記されていなかった。ただアタシの思うところの世田谷っぽくはある。世田谷的とは何か、もちろん諸兄の想像通りのことなのだが、それについてはまた別途。何しろ本題に戻す。

 

リフォーム前のオーディオセットの配置は、a.居間、b.図書室(と呼ばれる本棚メインの部屋)、c.寝室、そしてd.キッチンとe.インナーガレージの計五カ所。なぜガレージなのかと言えば、そこで三本ローラーを運用しており、乗っている最中に音が無いとサビシイから。

リフォーム後の配置予定は、a.居間、b.図書室、c.寝室はそのままにして、キッチンは居間からの音がダイレクトに聴けるようになったので除去、ただし新しい風呂にスピーカーとアップが内蔵されているのでd.風呂向けの音源は必要、そして潰したインナーガレージから玄関にローラー台が引っ越したため、オーディオセットもe.玄関に移動するとして、設置数の増減は無し。

 

今回から何回かに分けてポストするエントリは、これらで聴きたい曲をどうやって聴くか、そしてそのためにどのような構成としたかに関する備忘録である。記録を残しておかないと、本当に忘れてしまいかねないのだ、最近は。

ちなみに今回のリニューアルまでは、a.居間、b.図書室はPCからUSB DACを介しての楽曲ファイル再生(手持ちのCD約2000枚をリッピングし、データをNASで統一管理)、c.寝室ではCD、d.キッチン、e.ガレージではiPod Classicの生き残りを音源としていた。つまり場所によっては聴きたい曲がすぐに聴けない状況にあったのである。随分といろんなものを棚上げにしていたのだなあ、とつくづく思う。

 

先に結末を記しておけば、各所のオーディオセットは以下のレイアウトに落ち着いた。

  1. a.居間:Volumio2が動作するRaspberry Pi+USB DAC+プリメインアンプ+スピーカー
  2. b.図書室:パイオニアのN-70A+プリメインアンプ+スピーカー
  3. c.寝室:Volumio2が動作するRaspberry Pi+USB DAC+プリメインアンプ+スピーカー
  4. d.風呂:Volumio2が動作するRaspberry Pi+I2S DAC+風呂内蔵セット
  5. e.玄関:Volumio2が動作するRaspberry Pi+USB DAC+(雑誌の付録の)パワーアンプ+(雑誌の付録ではない)スピーカー

※アンプとスピーカーの凝り具合は、b > a > c >> e。dは同一線上にない。N-70Aのみ実名を挙げたのは、その問題点をあとで取り上げるため。

そしてRaspberry Pi およびN-70A のコントロールのため、家中のAndroid端末に BubbleUPnPというソフトがインストールされ、音源データを格納するNASはHDDが三年の安全期間を過ぎたので更新された上でSambaアクセスからUPnP/DLNAアクセスに移行した。

では、それらがなぜ行われるに至ったかをダラダラと書き連ねていこう。

 

というあたりで息切れをする。次回は要件整理、までかな。設計のところにたどり着く前に、きっとまた息切れがする予定。あ、もちろん漢字の話は忘れてませんとも。それからタベログなどの投稿型レイティングサイト(という仮面をかぶったパブリシティサイト)における「言論の自由」に関する意見表明のことも。

 

 

最後に、本日もっともよかったアルバムを(もちろん買ったものだよ)。

(曲としての)Edo Riverが聴きたくなって、 しかしいつも通りでは面白くない気もしたので、そうだトリビュート盤があるじゃないか、と仮想的な棚から引っ張り出してみた。結果、カーネーションの曲の良さを再認識すると共に、オリジナルではない、自前曲ではない事による自由さというのを堪能したのだった。例えば岡村ちゃん岡村ちゃんであることがより強調されつつ、しかも尚カーネーションであるという奇跡の密度。このアルバムは、ほぼそんな感じで、トリビュート盤のありようとしては飛び抜けて高いところにいると思う。今日、ようやく本アルバムと歯車が噛み合ったので記すものなり。

…いや、森高さんは持ち歌でしたね。しかしあの驚異の変わらなさは何だろう。

 

そして、直江さんと岡村ちゃんのまさかの対談。

natalie.mu

お好きな人には冒頭の写真だけでたまらない感じ。もちろんワタシもたまりません。

  

 

では、再生環境リフォームの話の続きは明日にでも!

...誰が読んでいるのだ(誰か読んでいるのか?)、というBLOGの締めくくりとしてどうだろう、とは思っているのだが...

1/5 アレコレ、そしてBlondie

旧年12/29から本年1/5に至るまで外出は計4回、しかもすべて家人の車に同乗するもので、旧年12/28に帰宅した以降は自力での外出がない、ほぼ引き籠もりの休暇を過ごしている。もちろん外に出る力が無いからなのだけど、アレをやったら出よう、コレを済ませたら行こう、と条件をつけてるのも大きい。クリアしたら結局夜になってしまうからなのだね。

(ちなみに家人は職場の一回性の大イベントの為に1/2から仕事をしており、お留守番モードなのが拍車を掛けたのだという気もする。家事は気合いを入れると際限なくリソースを投入できるから...)

それが昨1/5にはついに外出することを得たのは、片付けという名の新居セッティングがようやく細部まで落ち着いたから。

解呪、もしくは浄化の完了。

 

そして「社会復帰のステップは小刻みに」という(今思いついた)格言のとおり、近所のスーパーマーケットまで行く事にしたのが19時も過ぎたころだった。残った雪が凍った路面をペンギンのように歩き、暁町のニュー三久に向かったのだね。

仕事始めは定時で帰る人が多いのか、それともワタシと同じくまだ休みにしている人が多いのか、20時前のスーパーマーケットは相当に閑散としており、そこに半額のシールを貼られた売れ残りのかまぼこや伊達巻きが小山くらいには積まれているのを見ると、なかなか迫るものがある。そこに、これから夕食の準備をするというのだという風情の母子の買い物客などがからみ、ああ来なきゃ良かったな、と言う気持ちが頭をよぎったりする。正直ツライ。

墓場のようなスーパーマーケットと、そこだけ色が付いたように明るい何組かの母子買い物客。アタシは墓場組だ。

 

気を取り直して、食べるもの及び1/4の実験の続きをするためのストロング系缶チューハイを買い求めて帰宅。本日の缶チューハイはasahiのもの。

まずは缶チューハイを摂取。ストロングゼロと同じ効能が発生。ああ、アルコール依存症を作り出すことを辞さずという商売に、みんな舵を切ってたんだね。4㍑のペットボトル焼酎は、それでも買うときに必要な勇気が濫用の最後の歯止めになっていたかなと思うんだけど、このストロング系の缶チューハイはそれすら感じさせないところが罪深い。ま、日本の未来はすでに他人事なので、自分がアルコール依存症にならなけれはよいのだけどね。

そして夕食の準備をするためにホッピーに切り替え(オイ)、そのままホッピーを飲みつつ一人で夕食。その際に見てたのが、コレダ

 

 

Blondieさんのライブです。なんとコレ、2017年2月の収録らしく、当時71歳のデボラハリーさんを見る事ができるのですが、まったく悪くないパフォーマンスです。怖い物みたさで見始めて、結局最後までつるっと行ってしまいました。

音が聞き取りにくいらしく一部音程を外してるところもあったり、ちょっと声が出づらいところもあったりするのですが、それは何というかシワのようなものであって、それよりも70過ぎてBlondieとして成立しているところに大いなる感銘を受けました。

↓にあるとおり、昔のメンバーはデボラハリー以外はギターのクリススタインのみ。

ブロンディ (バンド) - Wikipedia

でもそれってスゴイことで、2010年代にBlondieをやろうとしたときに必要なリソースを集めたということであって、リユニオン(と書いて同窓会と読む)が目的ではないのですよね。なのでこのライブは、昔日を知るファンには「おお、マジでブロンディじゃん!」、お若い方には「なにこれ、カッコイイ」という反応が期待できる内容になってます。ステージの後方には三つのモニターが配されてて、始まる前はそれがノイズ画面(アナログ放送時代の「砂の嵐」)になってるんだけど、それをみると「ビデオドローム!!」と連想するくらいには思い入れがあるアタシには、「すげ、ブロンディまだカッコイイよ」というパフォーマンスでした。

デボラハリーは中々ご立派な体型におなりなんだけど(婉曲な...)、それをものともしない堂々とした態度(とお召し物)でステージを進行させていき、ついには見ているこっちがソレを気にする己の不明を羞じるという価値観が倒錯する瞬間が訪れるに至って、成る程Reality Distortion Fieldを発動できるか否かがバンドのチャームの有無の中核なのだなと気付かされたのでした。

皆様におかれましても、騙されたと思って是非一時間十一分のこのライブをご覧頂きたく。Amazon Primeに入ってれば只で見られますし。

(あと、顎関節症という言葉を始めて知ったのもデボラハリーさんを通じてでした。それでソロを出した後、お休みに入っちゃったのですよね。森高千里さんのときには、デボラハリーさんみたいだなあ、と思った記憶があります)

  

 

なおビデオドロームはこちら。お若いデボラハリーさんがご覧いただけます。

ストロングゼロ 飲む、もちろん酔う、お酒だもの

箍が外れたらしく、同じ日にもう一つポスト。

最近話題になってしまったストロングゼロを飲みつつ。理由は追々。

 

リードはこれでいいかな?

news.careerconnection.jp  

水無田気流さんの的外れなコメントがタノシイ記事ですが(だって、

誰かに反応してもらわないと自分が存在していないかのような、新しいタイプの孤独感

 なんてのが新しいなんて、「詩人」としてどうなの? と)、

しかし、それは問題ではないのです。問題は「アレって、特別なアルコールなの?他のアルコールと区別しなきゃいけないの?」というところにあります。

 

お酒を飲めば壊れるのは広く知られた話なのですが、それでも何とか世の中が回っているのは、アルコールをどう用いていくかノウハウとして蓄積されているところがあるからです。自制心?いやいや、ノウハウです。ただこれも新たな敵に対しては役に立たない場合もあるので、新型の敵か否かは重要な問題なのです。

であるので、ストロングゼロが固有種として危ないかどうかは大いに興味をそそられます。ほかに固有の酒がヤヴァイというケースというと、例えばアブサンなんかがそうですね。これは

アブサン - Wikipedia

 ↑にあるとおり、ニガヨモギがアカンのだそうです(チェルノブイリとの関係は

ニガヨモギ - Wikipedia

をどうぞ)。強度も去ることながら、混ざり物がダメなのだ、と言うことですね。

 

さてストロングゼロ。実は「アレ(ストロングゼロ)は肝臓を潰すぜ」という言説を何年も前から耳にしていたのだけど、一応(お金を払ってくれるユーザーは)生かさず殺さずだろうということで、製造元がキクものを故意に混ぜてるとか、製造コストを下げるために工程上のリスク判断を逃げているとか、そういうのは薄そうだなあと思っていた。ポッと出のサンガリアが先陣を切った商品ならそういう疑いもあるのだけど、嗜癖する人からお金を頂いて120年にならんとするサントリーなわけで、宿主を倒す方向には向かいにくいだろうとかね。

 むしろ気になるのは体内にアルコールを取り込むまでの機序のほうで、適当な甘さ(と言ってもゼロなんだけど)でつまみなどのバッファを阻害させて、9%で、ロング缶で、というアルコールの破壊力をダイレクトにデリバリするところに問題があるのか、と思慮するものである(ああ、酔ってるなあ)。

ホントに?では、試してみましょう。

  

そのような訳で、自分の体を使ってストロングゼロの効きっぷりを丹念に再確認してみようと飲み始めたわけです。これが今現在の状況。

ところでワタシにおけるストロングゼロとは出張先の宿に戻るときの最後の押さえ選手的な位置付けであって、ストロングゼロを素面から飲み始めるのは個人的には極めて希なのでした。すでにアルコールも、食べ物も足りている状況下における保険的な役割を期待することが専らで(ほら、寝る前にもうちょっとアルコールが足りない、というときに非常に困るでしょ?)、今日の様にゼロの状態からコレを摂取するときに何が起きるのかを、自分はほぼ何も知らないのだね。理想的な被験者と言えなくもないな。

 

そして約一時間でロング缶三本を体内に投入した感想は、「つまみのいらない酒は悪い酒という格言(さっき考えた)のとおり、コレあかんね」。

多くの悪い酒は、その価格の高さによって通常は濫用を避けることが出来るのだけれど、こいつはどうにもならない。なんとなれば安いのだから。ああ、なるほど、確かにダメだわ、これ。ぼーっとしているうちに缶が進む。

 

ちょっと分析的に書きます。

安く、効きやすく、手に入りやすい酒、は地獄への一本道ですが、たしかにストロングゼロはそうでした。

何より安いのは論を待たないですよね。

効きについては、ポイントが二つ。まずはこの果実フレーバー、マジでアカン。食い物が邪魔になる。同程度のアルコール強度のものとしてホッピーがあるけど、ホッピーの場合は食べ物の邪魔をしない。というか普通におなかが空いてきて何か食べることになるので、どこかで胃の容積の奪い合いが発生して呑みが止まる。対してストロングゼロは胃が塞がらず、人間を一個のパイプにしていく感じ。詰まり爽快。

もう一つのポイントは9%という濃度。これも多分罠で、消化器系に負担をかけずにだらだらと流し込み続けられ、アルコールも吸収し続けられる最適濃度なのかも。もうちょっと上のワインだとこうは行かない。最初の一口のパンチはなくても、一定ペースで続けられる(続いてしまう)ので結果的に大量にアルコールを摂取してしまう、絶妙にして最悪の濃さ。

そしてどこでも売っているのもご承知のとおり。

 

まとめます。

酒飲みを生かさず、殺さず、お金を引っ張ることを商売の根幹として120年にならんとする寿屋のリリースしている商品がコレである事に大いに衝撃をうけるものであります。それともストロングゼロを好んで買う人は、そもそも長期的なユーザーにはなり得ないという事なのか知らん。いずれにせよ、awfulな感じ。

アルコールという即効、遅効いずれにおいても強力な毒物と人間が共存できてるのは、その濫用を矯めるためのガードとしての文化があるからで、それがないところにアルコールをブッこむと大体地獄が発生する。典型例はエスキモーね。

アルコールを摂取する文化(ということは、アルコールを使用するためのガイドラインを共有する文化という事だね)が薄れつつある日本は、ストロングゼロを通じてアルコールの恐ろしさと再度対面することになりそうです。福祉としてのストロングゼロ、とか馬鹿な事言ってる人々はもうちょっと物を考えた方が良いでしょう(他国の事例と比較が出来ないのが島国根性という事なのかな)。

 

 

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等々、という(薬物)摂取実験の間に聞いていたのがコレ。

 

あれ、this wheel's on fireってこんなブルージーな感じだったっけ?Music from Big Pinkに入ってるアレはさておき(なぜあのような演奏に?)、Dylanのはアアだし。

熟考しばし。スジバンのカバーの印象が強すぎるんだね。あれも捨てがたいアルバムだけど、一人っきりでストロングゼロに向かいあうにはウエット過ぎる。trust in meとかsea breezesとかthe passengerとか最高にいいんだけど。

 

とまれ、ブライアンオーガーってスタイル優先の鼻につく嫌な奴だという思い込みがあったんだけど(では、なぜCDを買う?まあ、ソレハ色々...)、ストロングゼロによって知覚の扉が開かれた本日、ついにブラインオーガーと邂逅した感じ。もっと生々しかったんだ。すいません、誤解してました。

ストロングゼロを飲んでるだけあって、非常にアレな表現にしかならないけど、それもまた摂取実験の記録ということで。