all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

2/6 sketch of india. 交通事情編(on the road)

気を抜くとあっというまに時間が経ってしまう。

1/25くらいにあげるつもりだった、初めてのインド(デリー旅行)で見聞きした範囲の交通事情の後編、気がつけば2/6だ。記憶がしっかりしている内にメモを残しておこうという一連の試みなんだから、さっさと書くべきなのは間違いない。のではあるのだけど、まあ力が入らない時期なのも確かだ。ううむ、2月ってのがカレンダーから消えるという手はないものだろうか。

 

 

さて、on the roadにおける交通事情だ。

路上におけるプレーヤーをまずは列挙しよう。


  1. 半分くらいスズキ*1。もうマジでスズキ。アルトK10、アルト800、その先代のマルチ800がジャカジャカ走ってる。スズキ以外も、大体排気量1000ccまでの小型車。時々中型のセダン、そしてベンツとか。大型SUVは希だった気がする。路線バス、スクールバスとバスももちろんいる。
    あと思い出してみると、トラックをあんまり見かけなかったように思う。気のせいなのか、ホントに走ってないのかは不明。いないはず無いんだけど、例えば山手通りにおけるトラックの発見率と有意差があるような気がする。
    とおもって探してみると2017年のだけどこういう記事も見つかる。

    www.afpbb.comやはり何らかの制限がかかってるのかしらね。



  2. バイク
    時間帯にもよるけど、路上面積の1.5~2割を締めるのがバイク。二ケツどころか三ケツが普通だけど、サイズは小さめで日本だと125ccくらいのバイクがもっぱら。250ccサイズを時折見かけて、それより大きいのはほぼ見ない。そして接触事故対策なのだろうか、ゴツいエンジンガードをつけれるバイクが結構いる。
    一番見かけたロゴは『HERO』。車のマジョリティがスズキだったのでもしやバイクも、と思ってたんだけど違う模様。しかしHERO、なんとなくインドの人々が好みそうな名前だなあと思う。


  3. リクシャー(オートリクシャー)
    そしてこれを忘れてはなりませぬ。

    ja.wikipedia.org昼夜問わずに路上の2,3割を締めるのが(オート)リクシャーといわれる三輪タクシー。
    人が集まるところの路肩にには、客待ちのリクシャーがつねにたむろしている。タクシーだからね。トラブルも楽しむ、という境地にまでは達せなかった初回訪問で、リクシャーも試せなかったのだけど、女子高生二人連れとかが価格交渉をしながら普通に乗ってるのも見たので、次回はトライしよう。
    等というソフト面はさておき、ハード面としてのリクシャーは遅い、ふらふら走る、人間や荷物がこぼれてきそう、という動くシケイン的な性質を有していてて、路上のカオス指数を向上させる重要なプレーヤーだ。

  4. その他
    自転車はその他の部門かな、いないわけじゃ無いけどまれだから。車種的にはトップチューブが水平の、ごっつい前三角がある商用車。勿論タイヤは700c。ブレーキもロッドブレーキじゃなかろうか(すれ近いざまの観察による)。
    一回だけロードレーサーに乗っている人を見たけど、イカつい防塵マスクをしての乗車だった。『この世界の有り様(よう)を全力で否定する』というパフォーミングアートなんじゃないかなと思う。というかそうであって欲しい。なぜそうまでして乗るの?同じ自転車のりとして理解できない。
    その他部門として欠かせないのは馬車(ポニーかな)。こちらを見たのは二回。ニューデリーの路上では馬車よりもロードレーサーのほうがマイノリティなのだ、少なくとも見て数えた範囲では。

 

さて、インドの方がウーベルと発音するところのuberの車窓から眺めたニューデリーの路上、そこで上記プレーヤーが入り乱れる様を箇条書きにしてみよう。

 

[全プレーヤー 共通の振る舞い]

  • 道路一杯のプレーヤーたちは、車間距離10~20cmのまま進んでいく。
    気持ちはわかる。隙間があくと、誰かが突っ込んでくるのだ。

[車、バイク、リクシャー 共通の振る舞い]

  • 右車線から左車線への移動も自由自在。
    というか、事前に曲がりたい方向の車線に寄っておくという事をしない。曲がりたいコーナーが見えてきてから、そこににじり寄っていく。
  • そもそも全員車線の間を漂うように走る。
    何が起きるか判らない路上では、直進に固執するのは無駄どころか危険なのかもしれない、と思わせるくらいに全ての車は左右に漂いつつ走っている。
    車線って何だろう、という根源的な問いが発生してしまった。
  • ラクション鳴らしまくり。
    にぎやかです。よかったですね。

[逆走について]

  • 歩道側の路肩でバイクが逆走するのはかなり当たり前。リクシャーもやるね。
  • 中央分離帯に目をやると、自転車が逆走していることも。(バイクも数件みた)
  • 交差点で車が逆走してくることもある。
  • 合流車線の入り口から車が出てきたときには思わずニッコリしてしまった。驚くと微笑むこともあるんだね。

 

スピードや物理的な挙動が異なる各プレーヤーが、ほこりっぽいだけではなく明確に汚れている空気に満ち満ちた、渋滞一歩手前のぎゅう詰めの路上を、上記の不思議な振る舞いを繰り広げながら進んでいく状況はすでに十分カオスなんだけど、実際はそれに輪をかけてカオスであって、何故かといえば信号というものが大きな交差点にしかないから。

そうです、横断歩道というものがほぼ存在しないのです。こんな重要なことなのに、事前情報のどこに書いてなかったよ!(日本人的激憤)

 

インドに着いた最初の夜、宿のブロックから大通りを挟んだ向こうのショッピングモールに行こうとして、横断歩道を探し、そんなものは見当たらないという事に気がついた時のショックは相当なもの*2なのだけど、それでもレアな事象に違いない若しくは見落としがあったのだと思っていたのです、そのときは。まさかニューデリー中がほぼそんな状態だなんて。

 

ではインドの人々はどうしているかというと、カオスあふれる路上を当たり前の顔をして渡りたいように渡っていく*3。たとえそれが片側三車線であっても。人こそがインドの路上におけるカオスの最終要素なのだ。

 

不思議なのは、人と乗り物が入り乱れたカオスマキシマムな路上がそれほど阿鼻叫喚ではないということ。上海の路上における殺伐感*4なんかと比べると、その違いは際立っている。

もちろん最初は各プレーヤーの振る舞いにびっくりして、ありもしないブレーキを踏むべく足が突っ張ってばかりいたのだけど、段々とある種のルールというか原理原則の上に運行されているシステムなのだなあと思われてきた。

 

おそらく、その原理原則は以下の二つにに集約されるのではないか。

 

  1. 結局のところ、みんなやりたいことをやるのだ。自分も含めて。そういうものなのだ。
    だから、周りの他人が何をやろうとしているのかはギリギリまで見極めるし、何か隙があればこちらもやりたい事をやる。
  2. 事故は馬鹿げたことだ。誰も得をしない。
    正しい、正しくない以前に、事故は誰にとっても損な事なのだ。

 

 

この原則が共有され、適用されているとすれば、路上におけるカオスを見る目が大いに変わってくる。前提条件のもとでは十分に合理的でありうるからだ。

確かに彼らはギリギリまで粘るけど、最後は誰かが引く。自分の意思が通るかどうかを丹念に見極めようとしているし、無理なら事故っても損なので次の機会を狙う。二大原則の上で、お互いに腹の探り合いをしながら進む、超絶リアリスティックな路上文化*5と見ることができるじゃないか。

たしかに逆走とかどうなのよ、と思いはするのだけど、それは原則1に対する法の優越性をどうみるかの問題で、原則1を掲げるかどうかとは関係がない。日本人的には常に法が優越するとおもうのだけど、インディアン的にはまあボチボチで、ということなのだろう。それまで考えれば、やはり彼らは原則に対して合理的だ。

 

ラクションがうるさいのも、よく観察するとなるほどと思えてくる。

日本におけるクラクションの発するメッセージは、道交法の意図とは異なり、「何だコノヤロー」だ。もう少しひどい言い方をすれば「コロス」。これは上海でもそう思った。日本と上海はクラクションの量に差はあれど、意図としては事後的で、起きてしまったことに対する意見表明なのだ。

ところがデリーの路上では違う。あそこでのクラクションは、「ワタシがそことおるから、ワタシ、ワタシ、ワタシ」という自己主張のメッセージを発するためのものだ。意図としては事前的で、これから起きることのリスク低減をもくろんでいる*6のだ。つまり原則2の適用なのだ。

 

 

まとめます。

ニューデリーの路上は人と乗り物が織りなすカオスに見えるけれど、「そういうものなのだ」と現状を一先ず飲み込む力をベースとして、いくつかの原則を適用した結果なのであって、それは決して理解不能なものではない。ワタシはそこにリアリスティックな、そしてギリギリまでリアルを追求するが故に粘っこい、路上文化をみる。

 

翻って(特に最近の*7)日本では、「ワタシはルールを守っているのだから、ぶつかったあいつが悪い」という筋論、建前主義が跋扈しつつあるようだ。これは非常にイマジナリーな態度であって、なるほど一国の衰微というのはこういうところに現れるのかと思う。

 

 

ということで今回の旅行で一番気になった『「そういうものなのだ」と現状を一先ず飲み込む力』にふれたところで本エントリは終了。このリアリスティックな態度こそがインドの最大の特徴だ、という本旅行の結論を次回エントリでまとめてインド編は終了の予定。

 

 

追記

と、すごく合理性があるように書きましたが、ベンツとか、BMWとか、大型SUVに乗っている人は、そういう合理性の規の外側にいたことは付記しておく。

何らかの方法で現実との接触を断つことができるようになると、合理性を求めない動き方になっていくのだなあ、と以前から思っていたのだけど、そのサンプルをインドでも得ることができたのだった。

 

 

 

 

*1:正確にはマルチ・スズキ・インディア

ja.wikipedia.org

*2:そのときワタシの脳裏に浮かんだ言葉は『橋の無い川』でした...。

*3:ワタシも途中から慣れました。Feel, don't think、と自分におまじないをかけたりもしましたけど。

*4:こっちもタクシーからの路上観察ばかりだったけど、乗っているタクシーを含めてみんなでタマの取り合いをしているような感じだったよ。

*5:運転文化と言わずに路上文化としたのは人までが含まれるから。

*6:いや、上海でも事前的な意図でのクラクションは無くは無いんだけど、比率でいうとフジャッケンナ系の方が多かった記憶がある。対してデリーでは、事後におけるクラクションは圧倒的に少なかった。

*7:70年代にはまだ残滓があった大雑把さは、その後悪しきものとして石もて追われてしまいました。