all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

5/8 sketch of india. まとめ

2/6のエントリで、インド旅行のまとめは次回でと言ってからなんと90日余りが過ぎていた。

忙しかったからでもあるし*1、まとめ方になやんでいたからでもある。たかだか一週間弱行ってきただけでアレコレ言っていいものだろうかというのもあるし...。

 

とはいえ、何かを語らなきゃいられない位にショックを受けたのも事実なので、あくまでも自分が見聞きした範囲+調べたことにおいての『インド』を残しておこう。ハズカシイのだが致し方ない。後で記憶のねつ造をするよりはマシということで。

 

 

インドに関する印象は2/6のエントリに集約されている。

septiembreokbj.hatenablog.com

結局のところ、みんなやりたいことをやるのだ。自分も含めて。そういうものなのだ。
だから、周りの他人が何をやろうとしているのかはギリギリまで見極めるし、何か隙があればこちらもやりたい事をやる。

 

ニューデリーの路上は人と乗り物が織りなすカオスに見えるけれど、「そういうものなのだ」と現状を一先ず飲み込む力をベースとして、いくつかの原則を適用した結果なのであって、それは決して理解不能なものではない。ワタシはそこにリアリスティックな、そしてギリギリまでリアルを追求するが故に粘っこい、路上文化をみる。

 

『「そういうものなのだ」と現状を一先ず飲み込む力』

 

そして、『そういうものなのだ』という態度は決して路上にとどまるものではなく、遍く社会の原則なのだと見た。貧困とリッチ(人でも、街でも、モノでも)、古さと新しさ、狡猾さと親切さ、その他もろもろのrandomness。これらを『かくあらねばならない』という原理で整理するには、あまりにもインドは通時的にも空間的にも広大かつ複雑に過ぎる。『そういうものなのだ』という態度で一旦は受け止めないと、とてもじゃないけどやっていけない。

 

 

唯一『かくあらねばならない』が適用されていると思ったのは、『インドという国がある』ということについてだ。

広い国土には13億人が住み、多くの言語(その数800超、連邦公用語だけでも22)、多くの宗教*2が入り乱れている。それらの総体を『一つの国』として成り立たせるには、どう考えても『かくあらねばならない』という意志が必要だろう。

 

septiembreokbj.hatenablog.com

で書き漏らしたことがあった。

映画が始まるまでに広告があるのは日本と同じだけど、スマホや清涼飲料の広告の間に、日本ではちょっと考えられないものが混じっていた事に驚いた。空母が、潜水艦が、戦闘機が、そして兵士が次々と登場し、誰がインドを守っているのかという事を伝える力強いイメージのそのムービーは、インド海軍は君を求めている、と締めくくる。インド海軍のリクルート広告が映画館で掛かるのだね。

そして、それら広告が終わり、いよいよ本編かと思われた時に、観客が全員立ち上がり館内にはもっともらしい曲が流れ始める。噂に聞いていた国歌斉唱だ。日本で聞いた時にはあまり本気にしていなかったのだけど(やる事もあるだろう、程度に受け止めていた)、やはりやるのだ!

そのときまでに得ていた各種の刺激や情報を含めて、この瞬間世界が転回したのだった。彼らは本気なのだ。彼らは『かくあらねばならない』ということを、インドという国を実在させることを徹底しようとしているのだ。インド亜大陸という領域とその中の人や文化はリアルだけど、Republic of Indiaは意志に基づくアーティフィシャルな存在なのだね。

『そういうものなのだ』という原則に基づく社会と、それ故に生ずる『かくあらねばならない』という意志の発露としての国家。これって『かくあらねばならない』という原則に基づく社会と、それ故に生ずる『そういうものだ』という無自覚の発露としての国家という本邦の真逆だ。

 

『かくあらねばならない』という縛りの国からの旅行者であるところのワタクシは、デリーの路上で『そういうものなのだ』という態度と出会い、自分にあると思っていた『普遍性』が相対化されるという素晴らしい体験を得た。『そういうものなのだ』という原則であっても世界は回るのだし、そして自分は『かくあらねばならない』という教義*3の徒であったのだな、と。

それと同時にインドにおける『かくあらねばならない』が、日本において長らく不在であったことの理由もなんとなく見当がついてきた*4

差違は偉大なり。

 

 

まとめれば、今回の旅の印象はこうだ。

  • カオス→だがそれがいい
  • 鏡の国への旅→そのおかげで自分が何者なのか、自分がどこにいるのかが更に理解が深まった
  • 『そういうものなのだ』という態度と社会→アタシもこれからはそう言ってみよう。

 そして、また行こう、行かねばと思ったのだった。小松、チェンナイ直通便というとんでもないラインが開設されるという追い風もあるしね。

 

 

追記

PETTAの最後におけるラジニ・カーントの顔が悪鬼羅刹のごとくに見えたのは、極めて日本人的な感覚の故である。それに気がついたのは日本に戻って一月もした頃のことだ。

滞在の最終日にナショナルミュージアムに行って様々な神像を見たときに気がつくべきだった。インドの神様は鬼のような顔をして、悪を滅ぼすのだ。あれは復讐譚なのではなく、極めてインド的な勧善懲悪(というか、バランスの復元)であって、最後の顔がそれを物語っている。

いつもながら、繋がるまでに時間がかかる。そのかわらぬ鈍さに我ながら呆れるものナリ。

*1:株主総会やら、年度計画やら、組織再編やら(いや、これはまだ進行中だ...)の本業業務で忙殺されていた。ああ、ソフトウェア開発現場に逃避したい。

*2:ヒンドゥー教徒80.5%、イスラム教徒13.4%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.9%、 仏教徒0.8%、ジャイナ教徒0.4%(2001年国勢調査)、だそうです

*3:つまり、あまたある説の一つに過ぎないということですな。

*4:最近は日本でもいよいよ国家において『かくあらねばならない』をちらほら見受けるようになってきましたが、それは社会において『かくあらねばならない』が減衰しつつあるからだと見ることができます。インドほど振り切った『そういうものなのだ』になるかは判らないけど、少なくとも社会の成員が共通の公(つまり『かくあらねばならない』)を持たなくなってきているのであれば、誰かが意志を担保しなければならぬということなんじゃないかな、と。