all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

8/30 夏休みの読書感想文(2)

さすがに夏休み、吉田茂だけでは重すぎるので企業人向けエンターテイメントも読んだのだった。

  

 

That's Entertainment!

ページをめくるのももどかしいという感じで、一晩で読み切ってしまった。

 

事業部制という工場単位の独立採算制*1、そして外様の会社を競争させることで発生させるダイナミズム。それらを最初は直接に、途中からは間接に統治する松下幸之助というアンビバレンスをはらんだ「複雑な人」。その組織がこのままでは先がないという認識を持ったときに、彼は役員序列を26人飛ばして平取を社長にする。これはその時に社長にされてしまった山下俊彦の評伝。

もうむちゃくちゃ面白い。山下自身のエピソードは当然面白いのだが(つまらない奴の評伝を出されても困る)、同じくらいに面白いのが読み進めるごとに深まる松下への理解だ。そうか松下はそんな会社だったのか。

マニュファクチャラーだとの自覚があったのは驚きだった。マネシタ電器と言われてたのも気にしてたのか。この本には工場重視の姿勢を示す山下の言動が数多く載せられているが、それは松下全体で合意を持つ価値観の先鋭化であって、決して新たな価値観の導入ではない。昔からES(エンジニアリング サンプル)を出せば終わり、あとは工場や製造会社の仕事だというカルチャーのSONYと好対照だ。

松下幸之助がどういう人物であったのかが判ってくるのも面白い。彼はもはや親鸞日蓮のようなものであって、直弟子もきえ*2、本人に接したことのない弟子と、言葉だけが残っている。なるほど、こんな人であったのかというのが、譜代の番頭、娘婿、そして山下らとのやりとりから浮かび上がってくる。

 

そしてこの本が素晴らしいのは、例えば「ソニー自叙伝」のような提灯本と違って、このあとの凋落の原因を書いているところだ。と言っても、後継の中村体制にその責を求めるこの本の主張を肯定している訳ではない。マニュファクチャラーからの脱皮、もしくはマニュファクチャラーとは異なるカルチャーを松下に接ぎ木をできなかった帰結としての凋落だという傍証が散見される。そこにこの本の魅力がある。例えばこんな下りがある。

(同書P325より引用)

従来のフォン・ノイマン型のコンピューターは、原理的には一万八〇〇〇本の真空管をつないだ初期コンピューターから進化していない。ハード(半導体)が頼りないから、ソフトの側に負担がかかり、コンピューター・メーカーは膨大な数のシステム・エンジニアを抱えねばならない。メインフレームは、ソフトの巨大な構築物になってしまった。

ところが、半導体の集積度が革命的に高まったことで一変する。水野の言葉を引き写すなら「ソフトをハードに切り戻す」ことができるようになる。ソフトをICチップに落とし込む。そうなれば、これまでのソフトの巨大構築物は無用の長物と化すだろう。

 

 

前後の流れから、昭和60年ごろの発言と思われる。ハードがソフトを肩代わりするのはよい、しかしそうすると今度は高性能になったハードを使ってソフトは新たな機能や領域に挑戦していく。そうやってハードはソフトを、ソフトはハードを互いに牽引しつつ、だれも見たことがない領域にむけて発展していく。そんな事は80年代半ばであれば、判る人にはもう判っていた。大体1984年(昭和59年)には初代のマッキントッシュが発売されていたのだ。あれを見て、ソフトが貪欲にハードウェアを飲み込み続ける未来を想像できなかったのだとしたらどうかしている。

 

いま欲しいものをちゃんと(そして安く)作るかではなく、まだ誰も(自分すら)しらないものを作るための準備をどうするか、そのための構造をどう作るか。そういうカルチャーを作れなかった結果としての(コンサル依存型)中村革命なのだと思う。そして、ソフトウェアはどこまで行っても工場というものになじまないということを早い時期に見抜けなかったことも。

この本では中村革命下のスマホビジネスの軌跡を難じているが、それは最終局面であって、それ以前に「ソフトが判らない」という大問題があった。はっきりは書けないがガラケー時代のOS選定で右往左往した話を側聞している。

 

こういう記録がある。

lolipop-teru.ssl-lolipop.jp

これがパナソニックの話だとは言えないが、パナの携帯開発に巻き込まれた人の話だと「まあうちもそうだったよ」とのことだ。幸いその人はグループ会社の社員だったのだけど、深夜の会議やその結果としての家庭崩壊は当たり前にあったと聞いた。

 

いや、パナソニックをディスりたいという訳ではない。

目先のそろばんでプラズマ事業にオールインする(そして失敗する)のも、開発力が追従できず撤退を余儀なくされるハンドセット事業も、結局は「わたしたちのビジネスモデルを破壊する危機とは何なのか?」という問題認識を持つことが出来なかったからだろうと、本の外側の知識を持っているワタシはそう思う。プラズマの件は、破壊的なテクノロジが出てきているにも関わらず古いテクノロ*3固執した失敗。ハンドセットの件は、製品ではなく製品を作り出す土壌に競争力が求められるステージである事を理解できなかったことによる失敗*4

そこまで踏み込まず、良いところだけを書くというのは食い足りないところだし、それが評伝というものなのだろう。そのおかげで抜群に面白くはある。読み進めている間は。

ただし、これを経営指南書だと思って読むと大変なことになる。正確には、リーダー指南書としては今も通じるところ大なのだけど、今の時代に通じる経営かと言われるとそこにはビッグクエスチョンがつく、そういう感じ。

 

とはいえ面白かった。夏休みのリフレッシュメントとしてとても良かったことは記しておくべきだろう。

 

 

 

追記

 

あと、タイトルがとても良いというのも記録に残しておきたい。

本のタイトルの神様とは松下幸之助、ぼくとはこのとき社長になった山下俊彦。山下は社長退任後、「ぼくでも社長が務まった」という自叙伝をだしており、ぼくはそこから来ている。

 手に取るときにさまざま事を想像させ、読み終わってみればたしかにこう付けざるを得ないと納得させるタイトル。これを付けるセンスに感服。いいなあ、こういうセンス。正直うらやましい。

 

*1:GEなんかが言う事業部制とは違う訳だ。字面にだまされてはならない

*2:PHPは知らねど、ビジネス界に直弟子はもういない。

*3:先がないテクノロジだとは思って無かったんでしょうな。でもMooreの法則が効かないという時点で、将来性がないと思うべきだった筈。21世紀に入ってからの事なんだから...。

*4:逆にコモディティー化してしまえばパナのような会社はやりやすかったのかも知れないと思う。ここもSONYと対象的だ。彼らはコモディティーが本当に苦手で、だから自らの首を絞めかねない計画的陳腐化を行ったりもする。まあ自覚的なのだろう。

8/28 夏休みの読書感想文(1)

今年の夏休みに読んだ本の感想を忘れないうちに残しておく。

 

まずはこれ。

 

保阪正康 著 「吉田茂 戦後日本の設計者」 (朝日選書)

 

資料のまとめとして読むと面白いが、保阪正康吉田茂の内面を想像したり、また歴史的観点(!)とわざわざ銘打って吉田茂の行動の限界を語る事によって、保阪自身の限界が言外に語られてしまうという残念な本であった。

 

まずはその記述内容の問題を。

定見のない報道が事態を混乱させる状況を書いておきながら、それに関して主権が民衆に移ったことをしない吉田茂は云々と評するのをみると、相当に偏った眼鏡をかけておられるのが判る。

この人の「昭和陸軍の研究」は、それでもまだ面白かったのだけどなあ...と思って、本棚から取り出してパラパラめくると、おや不思議。昔は面白いと思った本なのに、今よむととても浅薄な印象を受ける。

 

その理由は「吉田茂 戦後日本の設計者」と対比してみると判るような気がする。

戦前は言論の自由がなく、戦後にはあったという通説は、しかし本当なのだろうか。たしかに言論の自由はなかっただろうなという気はするが、しかし言論がなかった訳ではなく、また国民が「正しい」意見を表明することが出来なかった訳ではない。むしろ国民の求めるところに応えようとして政府(や軍)が身動きが取れなくなっていく、選択肢を失っていく課程として昭和史の前半を読み解くことは可能な筈だ。「正しい」意見を持たされた国民が、政府・軍とともにデフレスパイラルを回した、運動の軌跡という捉え方だ。

ところが保坂の書くところでは、国民に責を置く視点が一切欠如している。陸軍という特殊思想を持つ(しかもそれを世代を超えて継承する機構を具備する)「悪の集団」が問題を引き起こしました、極端にいうとそういうまとめ方になってしまう。それは吉田茂についても同じで、民主主義を理解できない保守主義者(明治維新からの一貫性を追求する尊皇主義者)が行ったことには妥当なこともありましたが政治的な負の遺産はやはり問題です、吉田に対して保坂の言っていることはそういう事でしかない。どちらの本においても、常に国民は無辜のまま、誰かがやったことを、その誰かの内面のロジックからだけ語ろうとしているのだ。

 

それは馬鹿げている。当然内面のロジックはそれぞれにあるにせよ、ある行動は外部・他者との相互作用の結果として生じるものであって、すると政治領域において活動するプレイヤー(プレイヤー集団)を書くのであれば、そのプレイヤー最大の外部・他者である国民が書かれないという視座の有り様はまったく理解できない。

というか、理解できなくはないのだ。国民を無辜のまま、イノセントなままにしておきたいというのが保坂の最大の欲望...しかも本人も自覚せざる...だとすれば、まあ整合性はある。戦後民主主義による教育(って広いな、1946年から1970年までとしておこうか、とりあえず)を受けた人たちに散見される傾向でもあるし、それほど突飛な話でもないはずだ。

 

そして内容のみならず、その記述のスタイルにも大いに問題がある。

吉田茂 戦後日本の設計者」は全体の2/3を過ぎたあたりから読み進めるのがツラくなる本でもあった。行間から抑制的に語るという態度をいよいよ放棄して、保坂自身が直接的に語りだすからである。

主張したい事の是非はさておき(個人としてはゴミだと思ってるけど)、本書とは分けて、まとめて主張を添えるくらいの慎みがなかったものだろうか。米びつに砂をまかれた(しかも著者自ら!)感があり、まことに残念。

この人、調べてきてまとめるのはうまいのにねえ。

...もしや著者本人もすべてを理解していて、ある種のプロパガンダとしてわざわざこれを書いた、という事もないと思うのだけど、まさかねえ。

 

 

結論的には、夏休みにふさわしい一冊。どうでも良いことを考えることこそ夏休みの醍醐味であって、

 

  ああ、これはすごく役に立った!蒙が啓かれた!!

 

なんてのは夏休みの読書としては失格だと思うのだ。ちょうどよいダメ具合であったということである。

 

(しかし、保阪正康が「良心的な書き手」とか言ってる人たちって...)

8/16 白い暴動(映画)

ちょっと前に某所で見た「白い暴動」についての備忘録。

 

eiga.com

こういう紹介をちゃんと読んでたら、きっと見にいかなっただろう。いや、ギリ行ったかな?

「白い暴動」でググって出てくる数々の言説(をを、あれを言説と言うのなら)を見てたら間違いなく行かなかっただろう。いや、怖いもの見たさに行ったかな?

 

 

とにかく、フライヤーを見た時に頭に浮かんだのは、

White riot, I wanna riot
White riot, a riot of my own

そう威勢良く歌うジョー・ストラマーを見たいという事だけだった。ジョージオーウェルが好きな、ミドルクラス出身のロマンチストの男が(詳しくは付記2で)、一番元気だった頃を、そして一番かっこよかったと個人的には思う頃を見たいだけだったのだ*1

だから映画館に見に行った。

 

映画は、まあ何というか、そういうモノだった。

London Callingを伴ってのオープニングは高揚感をかき立てるけど、それは映画の力じゃなくて曲の力だ。そしてあとは地味に、ジミに、RAR*2とNF*3の対決が語られる。いや、それが悪いって言うんじゃない。でも映画としてはあまりにつたなく、たどたどしい。

例えば昔見たシクロという映画、Radio HeadのCreepがかかっているトレイラーがずるくて*4それだけで必見のフラグが立ってしまったのだけど、それでも映画としてちゃんと立っていたので*5、強引とも思えるCreepの使いっぷりも許さざるを得なかった。トレイラーの言語道断なあざとさを含めて。

それに比べると、これはひどい。様々な発言に絵と記録映像がくっついているだけだ。確かにNFはお話にならない。ナチスのシンパが多かったUKらしいと言えばそれまでだが、あんなのが1977年にまだ示威活動をしてたのを映像で見るのはなかなかの体験だ。しかし、それはそれとして、なぜ映画でなければならないのか。なぜエモーションを喚起するフォーマットである必要があるのか。問題はそこだ。

結局のところRARがやったことは、NFを押さえ込むためにNF以上の動員をするという「数」の決戦であって、そして地方から集まってきた人たちは自らを「良識派」と名乗っていた。そう、良識がある人たちをuniteするために音楽を使った、という話を84分かけて説明したというのがこの映画のすべてであって、どこをどう見ても白い暴動と名乗る必然性にはつながっていかない。

「これはウッドストックじゃない」とは記録映像の中でRARの主催者が述べる言葉だけど、明確にこの映画の本質を語っていておかしい。

「ここは音楽を聴くあつまりじゃないんだ、政治集会のおまけとしてみんなをuniteさせるアトラクションを提供してるだけなんだ。みんな、トム・ロビンソンの歌を聴いて一つになってくれ」彼の言いたかったことは、きっとこんなことだったのだろう。それをはっきりと言わない/言えないところにこそRARの本質があるのだと見る。政治活動と構えさせずに政治活動に人々を動員するという方針こそがRARなのだ。

実際、ライブのトリは当時人気絶頂のクラッシュではなく、「人をつなぎ合わせる」トム・ロビンソンが務めた。なんというダサい趣味。テイストじゃなくて、機能が求められるなんて、まさに政治集会だ。

 

なるほど、大変でしたね。そうやってRARの皆さんはNFを退治したのですね。政治活動だと意識させずに人を動員する方法を採用して、成功を収められたのですね。

しかし、では何故そのような戦略がNFを退けたのだという政治ドキュメンタリーにしなかったのでしょうか?何故(新しい)音楽やカルチャーが(古い)Racismを退けたという新旧対立の構図の刷り込みに終始されるのでしょうか?事実の記録(ドキュメンタリー)というには、あまりにもタイトルとのギャップがあります。

 

誰が見ても確実に判ると思うが、白い暴動である必然は映画の中に存在していない。ではなぜ白い暴動なのか。それは、いま、この時のことをより多くの人に語りたいという欲(まあ意図でもいいけど)の現れと見るべきだ。では、ファシストとナチの区別もつかないナイーブな人たちの物語を、白い暴動というキャッチーなイコン付き(付いているだけ)の映画にして拡散させなければならないのはどのような意図ゆえなのか。

それは今のところ判らない。が、少なくともRARの「うつくしい」思い出のためではないだろう。もちろん何らかの陰謀だとも思わないが、しかし特定の側面にのみ光を当てた、意図が山盛りの作品であることに疑いはない。

 

NFのようなものに対峙するときには意思と数が必要で、数を集めるには戦略がいる。それはその通り。それをうまくやれば成功するというのも我々を勇気づける。が、それ以上のことはここには無い。であれば、映画である必要はないだろう。

何しろツマラナイ作品であった。

 

以上、作品の感想はここまで。 

 

 

 

 

あとは作品を見に行ったことを含めての感想。こっちはより面倒な話になる。

 

ああ詰まんなかったなあ、時間を無駄にしたなあ.と思いつつ(ツマラナイと思うと見ながらまとめる癖がある)、それでも劇中曲をちゃんと再確認しようとエンドロールを凝視していたら、それを横切って邪魔をしてくれる人影多数。おまえら何見に来てるの?ここのエンドロールの曲表チェックしないでどうするの?サントラでてないみたいだぜ?

その疑問の答えは、理解しがたい人たちの影が中央通路隣のワタシの席に近づいてきて、どんな年齢、風体なのかが見えた時におおよそが判った。映画が終わって明かりがついて場内に残っている人を見てはっきりした。ああ、この人たちはagainst racismの部分だけを見に来た人たちなんだな。クラッシュどころか、Rockの事は添え物なんだな、と。

 

なるほど、なるほど。みなさんはRacistが良識ある人たちに打ち負かされる話を見に来たのですね?

(今日ググってよくわかりましたよ。え、これが今の日本の状況に重なるのですか?ピーター・バラカンさんは思い込みが強いのでどうにも困りますねえ...)

 

場内の一人一人アンケートをしたわけじゃないので、直接的な根拠は残せない。あくまでも直観(直感じゃないよ)。でも傍証はある。最近そこの上映リストにずっと違和感があったんのだけど、「そういう傾向が好きな人たちに向けてのプログラムの割合が高くなってきている事」だと言語化するとすっきりする。

まあ、彼らはお金を落としてくれるのだろう。いろんな人が足を運ぶプログラム選定は映画館の存続に必要だし。しかし、母屋を貸して庇をとられるという事をやはり恐れるし恐れてほしい。緊張感をもったうまい舵取りをして、どちらにも偏らない(どちらからも金を巻き上げる)、結局は映画の素晴らしさがコアにある自由な映画館であってほしいと思う。

しかしついに小川淳也のあの映画も掛かってるしなあ、あの手の人たちからのお金を恐れず受けいると腹を括っちゃったのかもしれないなあ。ふんだくれるだけふんだくろう、と。だとしても、何しろ一線を越えないでうまくやってほしい。

 

そのためにも、もう少し(映画的なプログラムを)見行かなきゃね。

そのような恐るべき結論が、白い暴動(映画)の本当の感想。

 

 

 

追記1

映画的にはまったくもってアレだったけど、当時の音楽を覚えている身としては、それでも見所はいくつかあった。

 

The Selectorのポーリーン・ブラックさんが変わらず気合いの入った感じでお元気そうなのはなによりでした。

それからシャム69のジミー・パーシーさんはマジで良い奴だった事にびっくり。

そして最も重要なのは、Xray Spexの動いてるのを見られたこと。あっという間に持って行かれて、すぐにAmazonで注文をした。素晴らしい。当時ノーマークだったこれを買うきっかけを得ただけでも映画館に足を運んだカイがあるものだ、と強弁しておこう。

 

 

 

 

追記2

ジョー・ストラマーについては、他の(パンクロック)ミュージシャンから「あいつは労働者階級じゃねえ、ミドルクラスだ。本当のことは何も判っちゃいねえんだ」的な批判を受けていたという記憶がある。80年代は音楽雑誌をちゃんと読んでいたので覚えているのだ。

ということで、この気にちゃんと調べてみようとWikipediaの力にすがることにする。

 

まずご本人の記事。

en.wikipedia.org

 

お父さんは以下のごとし。MBEももらっている。

His British father, Ronald Ralph Mellor MBE (1916–1984), was a clerical officer—later attaining the rank of second secretary—in the foreign service

 

 

二等書記官というのがどういうものなのかは以下のとおり。

en.wikipedia.org

The distinction between managers and officers is not necessarily as apparent. Senior officers (such as first and second secretaries) often manage junior diplomats and locally hired staff.

 とあるので、任地によってはOfficerではなくManagerとして活動することもあるポジション。なるほど、MBEはもらえなくもない感じである。

 

出身の学校はここ。

en.wikipedia.orgおぼっちゃん学校(private school)だ。

 

 

では、こういう人出自の人は、UKではどの社会階層に属するのか。

そのものズバリのエントリがちゃんとある。

en.wikipedia.org

なかなか面白いエントリで、巷間いわれる「Middleも三段階あって...」というのは、

Informal classifications and stereotypes

なのだと言うことも判ったりする。

その「Informal classifications and stereotypes」によれば、Middleの上ことUpper middleの壁は想像していた以上に高い。収入もそうだけど、生まれが効いてくるのだね。ここは完全に誤解していた。Upperは生まれの問題、Middleは仕事の問題と大まかな区分があるのだろうと思い込んでいたのだけど、どうやらそれは非UK人の勘違いのようだ。

ご両親の出自に特段のものは無いようなので(あれば書かれているだろう)、Middle middle classというところだろうか。一つ下のLower middleにはun-skilledという属性指定もあるようだし、Middle middleで間違いないだろう。

ということで、どうかんがえてもWorking classではない。オレたちのことは判らないぜ、と言われるのも故無きことではないのだ(そのUs and themっぷりにげんなりするのは別儀として)。

 

こういう逆スティグマ(いや、彼の世界観からすると順方向にスティグマなのかな?)が彼の人生行路に影響を与えたのだろうなと想像はするが*6、しかし死後18年もたって、死体を担ぎ挙げられたりするとは思ってもなかっただろう。

もちろん死者は好悪を語らない。まあ、RIPということだ。

 

 

 

*1:ジョー・ストラマーについて死語語られる事のほとんどが、誠実だったとか、素敵な奴だったの類いだというのはどうだろうか。最高だった、もっと聞きたかったとは誰も言わなかった。もう一度スゴイのを出してくれるのを待ってたのに、すらなかった。それって現役音楽家の死なのか、と思ったのを強く覚えている。

*2:Rock Against Racism

*3:National Front

*4:まあ、それがトレイラーというものだのだけど

*5:詩人と書いてクズと読む、という人が出てくるだけで点が甘くなるという個人的なバイアスをさっ引いても、良い作品。

*6:もちろんNFに入っていた兄の自殺はもちろんだが

8/14 コトラーのマーケティングコンセプト(再読)

まとまった夏期休暇。読書とやり残しの仕事の片付けを半々で過ごす。

本日はそのやり残しの処理の一つ、ある計画に対するコメントの作成を。書き終えてメールしたあとに、そういえばと思って本棚から引っ張り出したのがこれ。

 

 

今回書いたコメントにかかる領域のところを読み直したら、まさに同じ視点のことが書かれていた。うむむと思い、ストーリーがない本向けの方法*1で再読をする。

 

読後の感想は、昔読んだ時の「ふーん、なるほど」ではなくて、「まさに!」。

 

 この本は、出てすぐのときに本屋で平積みになっているのを買ったように思う。浜松町の文教堂だったんじゃないかな。

当時は自社で開発・販売しているパッケージの部門に所属していたのだけど、そこのビジネス推進体制に大いに異議があり、これでは話にならぬ、ならば袂を分かつまでよと別部門に飛び出た頃だ。それで、手持ちにない、違った考え方をある程度の塊で仕入れるためにこの本を買った、筈だ。アーキテクトとしてのキャリアを諦めて(あんなのがビジネス推進をしてるんじゃ、安心してアーキテクチャの美しさを追求してられないぜ)、マネジメント方向に軸足を移そうとする中で、押さえの知識として興味をそそられたのだと思う。

 

当時の印象は「ふーん、なるほど」であると同時に、「えらく幅が広いなあ」だった。たとえば、どうしてリーディングなの?、とか。その違和感は追求されることなく、そのまま本棚を飾る一冊になった。

 

そこから17年。いろいろと知識を仕入れつづけながら、様々な修羅場に巻き込まれ、気がついたら事業推進について も 責任を持つようになっていた。うむむ、場合によっては17年前の自分(のような人)からの批判を受けそうなポジションであり、実際に批判を受けるかどうかは今後のお楽しみなのだけど、おそらくそうはならない気がしている。

一番大きいのは、Howを押しつけたりするのではなく(しかも慣習以外の理由の提示なく...)、何について考えるべきか、そしてそれは何故なのかを語れるからだ。と同時に、合意されたWhyとWhatの範囲を前提にするなら、Howはみなさんの得意な方法でどうぞと、権限委譲しているからだ。要するに練功功夫が練れてきたのだろうと思っている、まあ自画自賛だが。

 

コトラーマーケティングコンセプト」を17年ぶりに読んだ感想が「まさに!」だったのも、功夫が足りてきたからだろう。

17年前は、マーケはモノやコトを売るための技法の集まりだと勘違いしていた。今は、(モノやコトを介した)価値がお金と交換されていく状況を時間的、空間的な広がりを持ってモデリングする思想(の一種)がマーケティングだと捉えている。どこまでモデリングするかという広がりは、どの高さから価値とお金の交換を見つめているか次第で、だからこそマーケティングは製品開発にも、販売にも、実施する組織にも、そして最後には事業そのものにもつながっていく。なんとなれば、すべての事業は顧客*2に価値を提供し、その対価で前に進む(無限を志向する)運動体だからだ。

「まさに!」という気持ちはマーケティングに詳しくなったからではなくて、様々な角度・立ち位置から事業の推進に関わってきて(練功してきて)、事業を進めるにはどの範囲でものごとを考えなければならないかを人に伝える側になったこと、そしてその時の視座としてマーケティングが極めて有効だとすでに自身で納得していた事による。だから、そうなんだよ、オレもそう思ってたんだよ、という感想になったのだ。

 

とはいえ、それって17年前に真剣に勉強していれば(違和感を追求していれば)、回り道をせずに済んだのではないかという気もする。気もするのだが、それじゃだめなんだとも思う。経験を通じて時間をかけて「判っていく」ことが本質的に重要なのではないかと。いくら知識を仕入れても(そしてケーススタディで定着を図っても)、それでは知恵にならないんじゃないかと。

 

ともあれ、17年を経ての答え合わせはおおよそ良好だったと言えよう*3。夏期休暇の一日にふさわしい出来事であった。

 

 

追記

 

買った書店名を正確を記すために調べたところ、うむむという事実が発覚。

 

 

「文教堂」浜松町店さん、さようなら...|浜松町ニュース|浜松町STORY|文化放送&419&63683&http://www.joqr.co.jp/hama-story/PicsPlay_159401516336533.jpg

 

なんと2020/7/6に閉店されていたとは。

最近はほぼ新幹線だし、飛行機の時にも京急を使ってたので浜松町の具合には昏かったのだが、そうか閉店ですか。

 いろいろですなあ。

 

*1:と言ってもそんな特殊なことではなくて、おおよそ半分の地点から終わりまでを読み、そして今度は先頭から最初に読み始めたところまでを読む、という方法。もちろん理由(メリット)はあるが、それは今日のサブジェクトではない。

*2:ところで常々思っているのだけど、顧客という言葉は含意が曖昧すぎる。モノやコトを購入して現在利用している人に限定するのか、それとも将来購入してくれる可能性がある人までを含めるのか。セールスは前者を顧客、後者を見込み顧客と明確に言い分けるのだけど、マーケでは後者も顧客という言葉に含めるのが一般的だ。人(法人含む)に着目するセールスと、市場(マーケット)という総体の振る舞いに着目するマーケの違いと言えばそれまでなんだが、まあここが誤解・争いのもとになるのだよね。弊社ではセールスはマーケに従属するという組織アーキテクチャを取ることで落ち着いたけど、余所ではまだ並立体制のところが多いみたい。どうやって意思の統合を図っているのだろう?統合幕僚本部みたいなのがあって、ちゃんと作戦計画の整合性を管理しているのだろうか。もちろんそういう行き方も有りだが、リソースがない中小からするとリッチな事であるなあと思う。

*3:ああ、大昔この言い回しが爆発的にはやったのを思い出した。やばいな。寿命かもな。

4/17-5/6 引きこもりの記(垂れ流しの雑記)

4/17からこっち、在宅勤務をしている。

いわゆるテレワークというもので、会社のデスクトップPCをリモートデスクトップ接続で利用し、ミーティングはMicrosoft TeamsやZoomの上で行う(あまつさえ、採用面接もWEB会議でやったのだった)。

 

朝起きて、仕事に向かう家人を送り出して、体操をして、椅子に座ったらあっという間に夜だ。そこから買い物に出たりでなかったりしたあと、夕食を作ったりして家人の帰りを待つ。もちろん途中に昼食を作ったり、疲れたらスクワットマジックやステッパーやダンベルやローラー台を使ったりするのだけど、基本は座って、在宅勤務用のディスプレイとして徴用した42型のTVに向かい合っているだけだ。

 

そう描写するとすごく静的な生活に見えてしまうけど、実際はそうでもない。なんとなればWEB会議を一日に5時間も、6時間もやるからだし、そうでないときには相当に大きな音量でスピーカーから音楽を鳴らしっぱなしにしている。つまり、当家における在宅勤務は相当に賑やかなのだ。

 

会議が増えるのは日本の悪弊という事ではなくて、管理監督をしなければならない部署やプロジェクトの数が多いところに持ってきて、それらがちょうど企画フェーズにあって一回一回は短くていいから深いレベルまで議論をしなければならからだ。

いままではなんとなく立ち話や内線で済んでいた事も、こうやって物理的にアイソレートされてしまうと、明示的なコストを払わないことには維持できなくなる。当たり前といえば当たり前だけど、だれが空気や水のことを毎日意識するものか。

(いや、水はそろそろ日本において意識しなけらばならないようだ)

 

ともあれ、そういう風に様々ものの価値を考えさせられるような、もしくは疑ってみなければならないような日が続いている。しかもそれはワタシ一人ではなくて、おそらく世界中で。

もちろん状況の深刻さは人によって大いに異なる。ワタシに起きていることは大変でもなんでもなくて、単に位相が異なったところに置かれただけのぬるい状況だが、同時に仕事が立ちゆかなくて苦しんでいる人がいて、生活に困窮する人がいて、もちろん病の中でもがいている人がいて、そしてそれらの状況に仕事として立ち向かっている人がいる。唯一いえることは、単一の原因が引き起こす状況の規模としては過去最大級の出来事に直面しているのだし、その観点において世界の人はワタシとつながっているのだなと確信することができる。

 

なんというチラシの裏

まあ引きこもっていると、かえって世界を感じる(感じざるを得ない)という事ですね。

 

ただこれらの結果、自分自身が特殊なモードに入ってしまった事は記録に残しておかなければならない(だから日記を書いている)。

いろんな事の意味が解体されるというか、コンクリートではなくなってしまっているというか。前提条件に依存した特殊解を一般解だと誤解している人たちのことをWow!と評して暮らしてきたクソ野郎のワタシだが、自分自身が様々な前提条件を非自明なまま、暗黙のまま、眠らせてきていたのだという事に直面させられた結果、いま起きている(いままで起きていた)事象を可能にする前提は何か、なぜ我々(大きく出たな!)はその前提の存在を明示的に認識することができないのか、そればかりが気になって仕方がない心持ちになってしまっている。

これからの日常は現象学的アプローチに覆い尽くされることになるのだろうという事だ。

 

これは経営にもプログラミングにも資することであって、仕事上の関係者は大いに喜ぶべきだろう。おそらくワタシの性能はまだ向上する。

問題は日常がさらに統合を失う可能性があることで、まずは家人にあきれられないように何らか手段を講じなければ。少なくとも仕事から帰ってきてあれこれ吐き出したい家人にエポケーせよと口走ったりしてはならないのだが、気を抜くと言ってしまいそうで怖い...。

 

4/12 永遠と

とある事をどうにも許せない自分に最近気がついた。

 

『延々と』と書きたいつもりで『永遠と』と書いている文章がどうにも我慢ならないのだ。どんなに立派な事が書かれていても、永遠とが出てきた時点でもう全部だめ。ゴミにしか見えなくなる。

 

誤用、俗読みがいつの間にか定着してしまうことがあるのは言語の常だが、こればっかりは許せない。どうしてだろうと考えてみると、文法的にアカンのが引っかかっているのだと気がついた。

『延々と』は副詞だけど、永遠は名詞・形容動詞ナリ活用なので『永遠+と』はあり得ない。そして、それが感覚的にでも気持ち悪くないというのがどうにもキモチワルイのだ。本当に気持ち悪くないのだろうか?それとも『永遠と』と書いてる人は、永遠に対して『エンエン』の音を当ててるのだろうか?

 

何にせよよくわからない。

 

もしかして突如気にならなくなる日が来るのかもしれないが、そうすると今度は何が許せなかったのかが判らなくなるに違いない。よってここにメモを残すものである。

 

 

追記

ということを他の人がどう思っているかをネットで調べてみたところ、変わっていくのは当たり前だから気にならない派と、文法としてあり得ない組み合わせへの違和感は許せない派に分かれていることが判明。

前者の急先鋒は『雰囲気』が『ふいんき』と読まれるのもすでにOKと言い出しており、『なぜか変換できない』という有名なフレーズを葬り去らんとする勢いにめまいがしたものの、音や字の順番違いが定着するというのは実は日本語の歴史のなかでは間々ある事であって、その最も有名な例が秋葉原。これらの順番違いが通ってしまう理由は、おそらく単語に閉じている(他のルールまで浸食しない)ということによる。異なった意味が通ってしまう・定着してしまうというのも同じで、品詞の別までは侵していないのだ。

そう考えると『永遠と』の不気味さが際だってくる。音、意味、文法の三つのレベル全てでviolationをする誤用というのはちょっと例がないのではないか。

もしコレが残るようなら、日本語は大転換期を向かえているという事になるのかも知れない。

...いやしかし、だがしかし。

 

4/12 コロナ対応休業に対する補償要求に見る日本国の圧倒的な劣化、もしくは『民意と言われるもの』との対峙を避け続けてきた事への諦観

と、すごく大げさなタイトルだけど、残しておきたい記録は割とシンプル(である筈だが、しかし)。

 

 

政府や地方自治体に対して休業補償を求める声が喧しいが、なぜ補償なのだろう?

 

補償というのは『損害・費用などを補いつぐなうこと』であり、政府や地方自治体が今回の災禍を引き起こしたのではない以上*1、償いをする訳にはいかないのは自明であって、その無理な行為の要求が日本中で澎湃しているがごとき各種報道は何を言わんとしているのだろうかと非常に不安になる。

 

困っている人、事業者は大声で支援を求めれば宜しい。ワタシも困れば声も上げるし、その声量の拡大に努めるために目的ベースの連帯を見ず知らずの他人とも結ぶだろう。

しかし事業主であったり、給与所得者であったり、自営業であったりする国民*2が、債務の履行(そう、補償というのは債務の履行だ)を国や地方自治体に求める根拠はどこにあるのだろう。

 

 

考え方はいくつかあり得るけど、どれもこれもすっきりしない。

  1. そもそも救済を求める人々の国語力の著しい低下。
    補償要求が債務の履行だと思っていない、という可能性はなくもない。
    しかし各種ニュースメディアの人々が同じく補償と言っており、彼らがこの言葉が債務の履行を意味することを知らないとは考えにくい。であるので本人が何と言っていようと国語的な誤りは訂正するだろう。『それは支援要請ですよね?』と。よって単なる国語力の低下に基づくものだとは考えにくい。

  2. そもそも救済を求める人々は休業要請への対応をもって権利義務関係が確定したと思っている。
    そして、その権利義務関係の範囲で補償を要求することができると考えているという可能性もなくはない。
    でも要請とはお願いのことであって命令ではない。緊急事態宣言のときに散々もめた話であって、現在の日本国憲法の元では私権の制限には著しい困難が伴い*3、だから政府からでるものは基本的に『お願い』であって、それによって政府側に債務が発生する訳ではない。

と思っていたら、様々な仮説(と言っても上に書いたような与太なので、hypothesisではなくてassumptionだ)を収斂させるような情報となる記事を見つけた。今までは対応する事象が茫漠としていて、論の変数に束縛される値が不明だったのだが、この記事では何が対象となるのかがハッキリしている。政府高官(って誰だろうね)の発言に対するコメント記事ではなくて、すでに決まった事をどう読み解くかという記事なのだ。

 

toyokeizai.net

休業事業者には「感染拡大防止協力金」の名目で補償を行う。

 

 

記事を読むと、記事の筆者が権利義務関係がない事柄に『補償』を当てはめることを何らためらっていないのが判る。補償と聞いた時に、それはどのような根拠に基づくのか、それは権利義務として甲乙が認識しているのか、ということを考えるのがすべてのスタート地点なのだけど、そのような視座から状況を整理して伝えようとしていないのだ。あらビックリ。

 

国と国民の関には、1)自由権と、2)生存権という基本的な約束があり、前者においては国民の側にも自助努力が求められるし*4)、後者に対しては国民は履行を求める権利を有する。のだよね?

支援と補償の区別がつかないということは、自由権生存権の境目が判っていないということで、それは憲法改正とかそんな事以前の、相当にバカげた状態なのだけど、無辜の*5国民だけではなく、特権的な地位にある各種ニュースメディアまでがそのような事にお構いなしの情報*6を垂れ流しているのは理解に苦しむ。特権的な地位には、それに伴う義務がつきものだ。権利義務に基づく要請と、お願いという事の間に横たわる距離についての説明をするのは、特権的な地位にある各種ニュースメディアの義務なんじゃないの?

 

 

などと書いていると『無辜の民』を巡る綱引きの反対側である政府や都道府県レベルの地方自治*7がまるで無罪であるかのように見えてしまうのだけど勿論そんな事はなくて、原理原則から物事を考えるという習慣を国民から奪うことに熱心であったのはそもそも彼らの方が先だ。その伝統は今日、このような状況に至っても止むことはなくて、厚生労働省が発信する国民向けの情報の貧しさ、乏しさがそれを裏付けてあまりある*8

 

しかし権力とはそもそもそういうものであって、だからこそニュースメディアやジャーナリストはそれと向かい合い続ける為に、検証可能かつ論証可能な、そしてその読者を啓蒙*9するような情報の発信をするものだと、ワタクシは脳天気にもそう思っていたのです。まことにナイーブな事です。しかし社会の維持・発展ということに対してジャーナリズムを選択した彼らが責務を持つのだとしたら(感ずるのだとしたら)、それ以外の方途はちょっと思いつかない。

もちろん読者の理解力はベルカーブどおりの分布だろうし、その分布のどこに水準点を置くのかは議論があってしかるべきだけど、今次の報道に見られる説明のレベリングは社会の維持・発展に資する事を意図しているとは到底思えない。要点をかみ砕いて整理して伝えることによって、みんながそれぞれの意見を持てるようにするというのは君たちの責務だったのではないの?

 

70年代に凋落が始まり、ポストモダンの80年代にとどめが刺された『権威主義に基づく啓蒙思想』に代わってこの30年の日本を覆っていたのは『ベルカーブの半分から下の人間を首肯させるポピュリズム』だったというのがワタシの大きな認識なのだけど、それもいよいよ終着点というか極限値にたどり着きつつある模様。ジャーナリズムまでが迎合どころかそれを加速させているのだから。言葉の意味一つ整理して伝えられないのにジャーナリズムと名乗って恥じないのは、いわゆる一つの退廃であり、最終局面の現れとしか言いようがない。

(ああ、ちょっと端折りすぎた。啓蒙思想が殺されたのは、本邦における基本的人権の特異的な強さあっての話なので、この30年の流れは1947年にすでに準備されていたと見ています。権威主義だけを殺し、啓蒙思想を生き残らせるという選択肢をそのとき作り出せなかった理由も同じです。なので、最終局面というのは30年の最後ということではなくて、戦後日本の最終局面ということです)

 

メディアやジャーナリズムがある種の党派性に基づく工作を企んでいるという陰謀論をネットで見かけるけど*10、残念ながらその可能性は低そうだ。知的及び道徳的退廃に比べれば党派性に基づく工作の方が一億倍も健全だし、「善良」だ*11とシニックではなく、本心からそう思っているワタシだけど、しかし残念ながら、メディアを覆う論調や言葉遣いの揃い具合から考えると、陰謀よりは退廃の方が説明としてより自然に思える。陰謀以前にバカなのだ。

 

さて、今度の国難は日本国を袋小路から脱させる契機になるのだろうか。心配すべき次世代を持たない身としては、今が歴史としてどのように整理されるのかを見られない*12事を心残りに思うだけだと無責任に言ってしまえるけど、まだ若い人や、子孫がいる人はこれからますます大変だろうな。

何しろ、問題をみんなで解決するための土台というのを、長い時間を掛けて腐らせてきちゃったんだから。これから先、現在のモーメントのままポピュリズムで右往左往する国に落ち着くのか、はたまた反動で支配層に丸投げの国に戻るのか。それとも、その二つの奈落の間の、細くて険しいけど出口のある道を歩んでいけるのか。色々と気になっちゃうけど、しかし。

*1:個々の活動について後で行政訴訟を起こされる可能性は勿論存在するが、現時点において災禍自体について特段の意図があったり、重過失があったり等を断定することはできない。

*2:すなわち、すべての国民ではないことに注意。

*3:なので、共産党が言い立てている私権を毀損する行為なぞやりようもないのだけど、もしかして彼らはワレワレが想像もできないような法律ハッカーを飼っていて、法や制度の穴をつく攻撃方法を想定しており、ただその知識を展開すると悪用される恐れがあるのでその事については語らず、ただ危険についてのみ警告を発するというある種理性的な態度を取っているのだろうか。ハハハ、否定されるまではどのような事でも可能性として列挙することが可能なのだ。

*4:もちろんその結果に対して援助・支援を求めることはOK。ここを求めてはいけないというのが俗にいう『自己責任論』だが、自由権から自己責任論が導かれるというのはどういう論理に寄るのかが全く理解できない。

*5:と書いて何と読むのかは秘密。

*6:あれを報道と呼ぶのはどうだろう?

*7:市町村レベルの自治体は..レベルがアレなので、彼らを気にしても無駄でしょう。市町村という行政単位は、全てを都道県で所轄するわけにはいかないから存在しているだけの擬制である位に思ってないと付き合えないです。要するにその土地の利権の表出に過ぎないのであって...。

*8:なんぼなんでもアレはないやろ、と厚生労働省のサイトを眺めてる度にゲンナリする。

*9:問題の多い言葉だけど、そういうしかない。

*10:しかも笑ってしまうことに右派、左派の両方がそう主張する

*11:その結果として訪れるものが健全、善良であるかは勿論別次元だけど。

*12:だって歴史が定まるのって30年くらい掛かるのでしょ?