all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

4/17-5/6 引きこもりの記(垂れ流しの雑記)

4/17からこっち、在宅勤務をしている。

いわゆるテレワークというもので、会社のデスクトップPCをリモートデスクトップ接続で利用し、ミーティングはMicrosoft TeamsやZoomの上で行う(あまつさえ、採用面接もWEB会議でやったのだった)。

 

朝起きて、仕事に向かう家人を送り出して、体操をして、椅子に座ったらあっという間に夜だ。そこから買い物に出たりでなかったりしたあと、夕食を作ったりして家人の帰りを待つ。もちろん途中に昼食を作ったり、疲れたらスクワットマジックやステッパーやダンベルやローラー台を使ったりするのだけど、基本は座って、在宅勤務用のディスプレイとして徴用した42型のTVに向かい合っているだけだ。

 

そう描写するとすごく静的な生活に見えてしまうけど、実際はそうでもない。なんとなればWEB会議を一日に5時間も、6時間もやるからだし、そうでないときには相当に大きな音量でスピーカーから音楽を鳴らしっぱなしにしている。つまり、当家における在宅勤務は相当に賑やかなのだ。

 

会議が増えるのは日本の悪弊という事ではなくて、管理監督をしなければならない部署やプロジェクトの数が多いところに持ってきて、それらがちょうど企画フェーズにあって一回一回は短くていいから深いレベルまで議論をしなければならからだ。

いままではなんとなく立ち話や内線で済んでいた事も、こうやって物理的にアイソレートされてしまうと、明示的なコストを払わないことには維持できなくなる。当たり前といえば当たり前だけど、だれが空気や水のことを毎日意識するものか。

(いや、水はそろそろ日本において意識しなけらばならないようだ)

 

ともあれ、そういう風に様々ものの価値を考えさせられるような、もしくは疑ってみなければならないような日が続いている。しかもそれはワタシ一人ではなくて、おそらく世界中で。

もちろん状況の深刻さは人によって大いに異なる。ワタシに起きていることは大変でもなんでもなくて、単に位相が異なったところに置かれただけのぬるい状況だが、同時に仕事が立ちゆかなくて苦しんでいる人がいて、生活に困窮する人がいて、もちろん病の中でもがいている人がいて、そしてそれらの状況に仕事として立ち向かっている人がいる。唯一いえることは、単一の原因が引き起こす状況の規模としては過去最大級の出来事に直面しているのだし、その観点において世界の人はワタシとつながっているのだなと確信することができる。

 

なんというチラシの裏

まあ引きこもっていると、かえって世界を感じる(感じざるを得ない)という事ですね。

 

ただこれらの結果、自分自身が特殊なモードに入ってしまった事は記録に残しておかなければならない(だから日記を書いている)。

いろんな事の意味が解体されるというか、コンクリートではなくなってしまっているというか。前提条件に依存した特殊解を一般解だと誤解している人たちのことをWow!と評して暮らしてきたクソ野郎のワタシだが、自分自身が様々な前提条件を非自明なまま、暗黙のまま、眠らせてきていたのだという事に直面させられた結果、いま起きている(いままで起きていた)事象を可能にする前提は何か、なぜ我々(大きく出たな!)はその前提の存在を明示的に認識することができないのか、そればかりが気になって仕方がない心持ちになってしまっている。

これからの日常は現象学的アプローチに覆い尽くされることになるのだろうという事だ。

 

これは経営にもプログラミングにも資することであって、仕事上の関係者は大いに喜ぶべきだろう。おそらくワタシの性能はまだ向上する。

問題は日常がさらに統合を失う可能性があることで、まずは家人にあきれられないように何らか手段を講じなければ。少なくとも仕事から帰ってきてあれこれ吐き出したい家人にエポケーせよと口走ったりしてはならないのだが、気を抜くと言ってしまいそうで怖い...。