all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

1/28 金沢市の家庭ゴミ処理の有料化によせて(その1)

当家がある金沢市では、来る2/1から家庭ゴミ(可燃)を捨てるに際しては有償の専用ゴミ袋を使用せねばならない仕儀となった。というか、すでに昨年2月に決定しており、一年間の周知期間を経て、いよいよ施行となるのである。
どうやってゴミを減量化するのか、当家においても研究に余念がないのであるが(例えばティッシュペーパーの箱はバラせば雑紙として古紙回収にだせる→可燃ゴミの量としては削減できる、など)、それらの成果発表はいずれまた。今回書きたいことは、家庭ゴミ有料化の意義の再確認だ。
 
有料化決定の報が流れたのは家人ともども外界からの刺激にまったく反応できなくなっていた時期で、その後も実施手順の周知のつたなさに憤るのにかまけて、そもそもリーズナブルな制度設計なのかということをきちんと考えていなかった。45リットルゴミ袋が45円てのは高いな、とか小学生のような感想しか持てていなかったのだ。いや、武蔵が辻の近江町側バス停(※)で、社会福祉法人の代表と名乗るひとの奇妙な街頭演説と出会わなかったら、変わらずに小児的な不満をブツブツこぼしていただけかもしれない。

※武蔵が辻は近江町側も、エムザ側もいつも誰かが何かについて声を張り上げているような気がする。金沢のスピーカーズコーナーと言っても良いと思う。日本の言論は守られているなあと思うことしきりである。

Speakers' Corner - Wikipedia

 

その奇妙な演説の趣旨はこんな感じだった。

  1. ゴミ処理が有料化される。
  2. うちを含めて、社会福祉法人はみんなギリギリの運営をしており、この負担増は耐えがたい。
  3. だからゴミ処理有料化には反対だ。

 

1.はFACTだ。問題ない。2.は...施設によるだろうとは思うが、少なくとも演説をしている人のところは苦しいのだろう。「みんな」がFACTなのか、事実の摘示が必要だと思うが、そこは百歩譲っても良い。問題は3.のconclusionだ。なぜ、そうなる?社会福祉法人の減免措置を求める、というのが筋なのではないか?

制度全体を論難するにはあまりにも薄弱な根拠だ。本当に奇妙な、論理が破綻している街頭演説だった。ゴミ処理有料化に対する自分なりの意見を整理せざるを得ないな、と思わせるほどに。そして調べ物が始まってしまったのだった。今回はその結果報告ということになる。
 

なお、今回はいつにも増して長いエントリになる可能性があるため、オチを隠したまま右に左に蛇行するいつものスタイルをまげて、最初に結論を述べる、仕事っぽい感じで行く(プライベートの作文なので嫌なのだが)。その結論は、こんな感じ。

  1. 制度の趣旨、特にスタートポイントは心情的には理解できなくもない。しかしソレを行うべきかという判断をする根拠が示されていない
    先行事例を調べたところ、制度自体は一般的なもので費用も全国平均程度。であるので、制度の出発点である「ゴミを減らしたい」が 本当に 金沢市にとって喫緊の課題なのだとしたら、それほどの悪手なのだとは思われない。
  2. しかし本件を接ぎ木した元々の条例に筋悪の感がある。その条例の大枠に引きずられて、収入の使途が曲がってしまっている可能性がある。
  3. さらに2.が原因となっているのか(つまり2.の問題を市も理解しているのか)、制度の手続き部分の周知に比して、制度の正統性の説明が非常に雑というか粗略になっている。「知らしむべからず、よらしむべし」という言葉をふと思い出してしまう。
  4. 本件を更に大きな枠組みで見つめ直したときに、「市民」とは誰かという事を抜きにしてゴミ処理の話をして良いのだろうかという問題に行き当たってしまった。ただしこれは金沢市だけの問題ではないと思う。

  

 

では、それら結論がどのような経緯で導き出されたのか、一緒になぞってもらおう。

 

...と書き始めたら、本当に長大になってしまった。申し訳無いが続き物になる。

誰に対してわびているかというと、...誰だろう?

 

1/29 鬱になるということ

2/1から始まる金沢市のゴミ処理有料化について書くつもりだったのだけど(え、他のサスペンド中のネタは?)、今書いとかないといけない気持ちになったので、鬱について書く。

 

 

最近、仕事の関係でネットをブラウズしていたら、中々強烈な、でも本当にその通りというエントリを見つけた。

www.megamouth.info 

結果として、最後まであなたと会社は、彼らを退職させるに至ったワークフローや営業上の問題を知る機会がなくなるし、これを機会にそれらが改善される、ということもなくなってしまう。
あのプログラマは何かこの会社では実現できない理由で退職したのであり、我々のワークフローのせいではないと、あなたは思いたがっているし、実際思い込んでいるからだ。

しかし、退職とその代替人材の確保というコストは確実にあなたの会社の損益に影響を与えている筈である。

 

 Yes、ホントにその通り。そのような事が起きないように、「楽しい営業」さんは厳しく躾けることにしている。彼らは痛覚が鈍いから最初は何が起きているのかわからないのだけど、大丈夫、ずーっと指導を続けるとそのうちプログラマの気持ちがわかるか、それとも営業をやめるかするから。

そのようなヴァイオレントな態度をとるのはもちろん心が痛むのだけど(しかしその痛みは、第三者にまで恐ろしい人だと思われてしまうという自分のパブリックイメージの低下を主たる原因とするのだけど)、プログラマが消耗したら取返しがつかない以上、やることはやらねばならない。そしてもう一つ、誰も助けてくれなかった2003年の自分への埋め合わせも幾分あるような気がしている。詳細は書かないけど、その年に超大型のデスマーチが発生し、それを社内、社外の営業がよってたかって更に加速させて、その結果アタシは鬱で倒れることになったのだった。

 

鬱に至る道は、多くの人が想像するようなシンプルなものではない。そもそも機序も確定していない病だ。過労、各種のストレス、アルコール、日照量(!)などはよく知られているけど、例えばゴールに着くというのがヤヴァイというのを知っているだろうか。病からの回復過程で読んだ本に、奥さんが死んだあと、男手一つで息子さんを育て上げられて、その息子さんが学校を卒業した途端、鬱が発症したという人のエピソードが載っていた。ゴールにたどり着いていきなり全力疾走をやめるだけでも、人間は焼き付くことがあるのだ。だから

鬱の人に共通の特徴として、『プライドが高い』というのがあると感じています。
自己肯定に必要なハードルを下げることができない。

のような妄言を見ると、どうにも血が沸騰する。お前は医者か?何人患者を診たのだ?安全サイドから好き勝手言ってんじゃねえぞ、と。

 

原因はさておき、アタシに起きたことはこうだ。2003年末の休みに入ると同時に身体に不調が発生し、年明けから起きられなくなり、その後四ヶ月は寝たきり、抗うつ剤をとりあえず抜くかとなったのがそれから二年後だった(でもパキシルは合わなかったな。希死念慮が出て、オーバードーズして死ぬかと思った。今は注意事項に書かれてるようだね)。そのおかしくなり始めの正月の写真が、今も部屋の中に飾られているのは皮肉だ。そこにはいなくなってしまった息子の笑っている姿が写っているからだ。いや、またドリフトした。

 

鬱は、しんどい。考える力もなくなるし、感情もどんよりとしたまま固定されてしまう。悪いことばかり考え続けるとか、そういうのですらない。考えられないのに、感情もないのに、嫌な気持ちになったときの脳内物質の状況(焦燥感とか、離人感とか、何をやっても必ず駄目になるという確信とか)だけが再現されるというのは、やってみると判るけど、本当にしんどい。

幸い途中でチェンジした薬は良く効き、4月の終わりくらいまで夜も昼もなく眠り続けた、ように思う。そして眠気が幾分薄れたと思ったころ、思考も、感情も、適切に動作している頭が作り出している 状況 なのだということが突如諒解されたのだった。何らかの理由で頭が止まってしまって、人間としての活動(思考、感情など)が出来なくなる病、つまり頭が悪くなる病なのだという事が、誰がなんと言おうと間違いなのない事実なのだという確信が発生したのだ、本当に突然。そして、そこから回復が始まった。

少しずつ頭が動くようになり、鬱に対する知識を遅まきながら仕入れるのと、「鬱になった自分」の観察をするうちに夏になっていた。そのころには、抗うつ剤も、安定剤も、頭を休める(より正確には、動かそうとする意識的・無意識的な企みの一切をくじく)ためのもので、アレを飲んで頭がぼーっとするというのは当たり前、ぼーっとさせてる間に脳が復旧するのだ、という気持ちになっていた。絶対臥褥の森田療法(これもその時に知った)も、ポイントは頭が動いてしまうのを止めるところにあるのであって、薬の有無は些末な話なのだと体験的に思っている。

と書いて、間違いがあったらやだなと調べたら(でもwikipediaだけど)、なんと最近は森田療法でも薬を使うことがあるそうです。我が意を得たり。

森田療法 - Wikipedia

 

そのうちに会社に戻り、そして社内の様々な部署を転々とし、bogusなsagaをいくつも残すことになるのだけどそれは別の話だ。さて、アタシはなぜこんな話を書いてるのだっけ。

そうそう、それは先に挙げたmegamouthさんがBLOGを閉店されるという記事をアップされたからのだった(読者になって一週間も経っていないというのに)。

www.megamouth.info 

他のエントリを見ると鬱で大変ということが記されており、そうなんだよ、鬱は大変なんだよという連帯を表明するために、このエントリを書きました。そうなった理由は様々、治り方も、その後に残る不可逆な影響(アタシにも、ある)も、やはり様々。でも、みんな大変。

という事で、自分の時にはこうでしたというのを連帯の証として記してみました。

 

まだ鬱になったことがないという人に向けては、ならない方が絶対にいいです、とだけ申し上げておきます。なりそうで心配、という場合には予防薬としてこれを推薦しておきます(〈増補改訂 第2版〉のほう)。

いやな気分よ、さようなら/星和書店

なっちゃってから読んでも間に合いません、少なくとも回復を早めるのに役立ちません。なんとなれば鬱は頭が悪くなる病なので、その最中は本なんか読めないのです...。

 

 

明日こそ金沢市のゴミ処理有料化ネタを何とかアップしたいと思っていますが...。

  

 

 

(1/30 追記)

そのうち「最良のビジネス書もしくは自己啓発書として読む『いやな気分よ、さようなら』」という記事を書くべきという天啓を得る。確かに、そうだ。なんで今まで気がつかなかったんだろう。

1/27 雇用の流動化

ロシアの小話だと思うんだけど、森の中で男二人が追いかける熊から逃れるべく走っていて、その最中に一人が助かったと叫ぶという奴。知らない?

もう一人が、なぜだ、まだ熊は追いかけてきてるぜ、と走りながら問うと、助かったと叫んだ男が、だって俺と熊の間にお前がいるじゃないか、という奴。これを笑い話だと取れる人は、幸せな人だと思う。アタシは全然笑えない。本当にその通りだから。きっとアンディーグローブも笑わない、と思う。

 

そういう訳で、政府の働き方改革の成否如何に関わらず、労働側から選ばれる職場環境を提供するということは、自社が生き残る・発展するために非常に重要なポイントであるという事を常々社内で説いている。

他社と横並びで大丈夫と安心するんじゃ無くて、他社より前にうちが出て、うちが助かるようにすることが本質なのです。国内の労働力が減少する中で生き残るというのは、労働環境においても差異化を実現して、他社よりも魅力的になることなのです。

とかね。

 

  

その中で

www.nikkei.comのような話も始まり、またテレワークに関しても年内に実施促進を目的とした改訂指針を出してくる(調べたんだけどURL忘れた...)流れにあり、要するに会社に人を縛り付けるのではなく、貴重な資源である人にあわせて、会社は働ける環境を用意しなさいという情勢になってるのは間違い模様。

 

 

 

最近参考にさせてもらってるBLOGにも、そういう記事が載っていた。

www.financepensionrealestate.work

ですよねー、という感じ。

  

企業が人を抱え込むことが競争力の源泉であった時代は過ぎ、日本で産業構造の調整が進まない、イノベーションが起きないのは労働流動性が低いからだと言われている。中国に多いというゾンビ企業(大赤字なのに金がジャブジャブ回ってくるから倒れないという企業)になぞらえて言えば、日本は本来はフライトしているはずの人材が残っているために倒れないというゾンビ企業が多すぎる、と個人的には理解している。ブラック企業とはそういうものなのだよね。だから上記のBLOGの内容はホントにその通りだと思う。働いていても幸せになれない企業から逃げやすくする(逃げて構わないということに気づきやすくする)、それはゾンビを再殺するのに必要なことだ。

 

ただし実際に規制下で生存競争を繰り広げている企業サイドからすると、解雇規制の緩和というのがセットにならないと現実味がないのもホントである。従業員の解雇が厳しく制限されているのは、先進国中では日本に固有のことで、たとえばアメリカでは人件費は流動費として計上する(日本の場合は固定費...)。労働側が企業を選ぶ権利を充実させるのは当然として、企業にもそれに対抗する手段がないと、健全な状態にはならないだろうとも思うのだ。それに解雇規制の緩和による流動性の促進がないと、いつまで経っても欲しい席が空かない(※)、ということになりかねない。

※というのは労働者側の視点だね。企業側からすると、新しい席を用意できないという言い方になる。

企業が雇用にためらいを持つのは、景気が悪くなったときに調整が出来ないからだけではない(※1)。その人が本当に給与を払うに足るひとなのか、本当に何年にも渡って能力を維持してくれるのかということに確信が持てないのだ。勢い慎重にならざるを得ない。人は欲しい、でもアンマッチだったときにも、その人の定年まで給与を払い続けなければならないというのは何の罰ゲームなのだと思う(※2)。しかも出て行きたい人は出て行き(流動性の拡大)、定年はどんどんと延長され、きっと最後には公務員を除き定年が無くなるだろう。だとしたら、会社は一度人的な負のスパイラルに入ると、やり直しのチャンスが与えられないまま沈み続けることになってしまう。とてもじゃないけどやってられない。

※1 工場の様な設備産業(IT系でも派遣はそうだな)だと景気対応がメインなのかもしれないけど、出来る奴が何人いるかが勝負だというメインストリームのIT系だと、不況は実は才能を確保する良いチャンスだったりしたのだ。ただし、みんなが投げるときに仕込めというアパホテル的戦略が人口減少局面においても有効かというのは、今後の検証が必要。

 

※2 と書くと、人材の育成は企業の責務だ、などと言い出す奴が出てくるので困る。給与を仲立ちとした労働提供の契約にすぎないのだぜ。能力の開発は、労働側のマターだ。企業が育成をするのは、そうした方が都合が良いからに過ぎず、決して ねばならない 話ではないのだ。

もちろん教育のプログラムは用意している(その方が得だからね)。しかし水飲み場までつれていっても水を飲まない奴はどうすればいいの?特にIT系は毎年水を飲んでいないとすぐに干上がってしまう商売なのだが。

リカレント教育の今後を面白く見ているのも、能力開発は個人の問題だという原則に基づくものだからだ。ついにその事を口にしたな、という感じ。企業に社会の維持までを求めるという日本型の労働のあり方は、さまざまなところから無化されていくだろう。

 

 

まとめれば、産業構造の調整・発展のためにも、少子高齢化への対応のためにも、雇用の流動化が進むのは必須。決して資本家の搾取のためにではなく、労働者を幸福にし、同時に企業が生き残っていくために。

そのため今後の日本では、1.定年制の廃止、2.解雇規制の撤廃に向けた法整備や調整 も 進むと考える。公平性やセーフティーネットなしで解雇規制を外すと地獄がこの世に現れてしまうので、解雇条件や、その際の経済的な手当についても当然に法制化が進むだろう。EUの労働法などがメディアを賑わせ始めるのが、世論形成開始のフラグだと思う。

最近経産省リカレント教育についてアレコレ情報を発信してくるのも、同じコンテクストに思える。雇用が流動化し、労働者が新しい産業に直面したときに発生するインピーダンスミスマッチをどうするか、確かに何とかしなければならない問題だし、文科省は頼むに足らず、というのはすでに見えているし。

septiembreokbj.hatenablog.com

  

(補足)

日本には日本独自の慣習がある、そしてそれは得がたいものであって、日本の競争力の源泉であって(...Oh)、という声も まだ 耳にするけど、過去50年の歴史を振り返ってみれば(もっと長くてもいいけど)、結局のところ「日本の特殊性を放棄する」過程であることが見えてくる筈。特に労働慣行は日本の特殊性が未だに凝縮している典型的な分野で、だからこそこれから急激に 普通 に近づいていくのではないかと見ているのです。何しろ人口減少への対応は待ったなしなので。

そして、波乱が起きるときにはビジネスチャンスがあるだろう、とも期待してるのです。

1/25 HP-A4にみるFostexの凋落っぷりに関する雑感

Hi there!

みんな大好き、HP-A4の記事だよ!

(アクセスを見るとダントツでHP-A4関連の記事が多いのだ。ということで、それにお応えしてもう一つ燃料を入れてみるかー、というエントリである)

 

まずはコレだ。

HP-Aシリーズ Windows用 FOSTEX USB Audio Driver ダウンロード | FOSTEX(フォステクス)

 

ようやく署名を何とかしたよ、と宣もうておる。でもね、

ご注意!!

Windows10 Creators Update以降では、これまでデバイスメーカーが専用で用意していたUSB AUDIO 2.0ドライバーがWindows標準で搭載されました事による問題が生じております。

本来USBオーディオドライバーはデバイスメーカーが用意したドライバーを関連付ける事となっておりましたが、今回のWindows10 Creators Updateによって専用ドライバーがあるにも関わらずWindows標準ドライバーが関連付けられることにより動作に支障が発生しております。この症状はWindous側での挙動になりますため、Windowsにて変更が無い限りメーカードライバーでの対処は困難です。

暫定処置として動作環境の変更で再生が可能と成りますのでご紹介致します。

という説明はどうだろう?

Usb Audio Class 2.0がWindows10 Creators Updateでサポートされた以上、Fostexの独自ドライバが必要となるのはASIOじゃなきゃやだという場合のみだ。もっとはっきり書けば、独自ドライバが必要なのは、DSDをDoP(DSD Audio over PCM Frames)ではなく、ネイティブのまま送りたいという場合にのみだ。

サポートの手間を省きたいのは判るけど(場合の数がサポート現場で効いてくるのは、商売柄よく理解している)、何が何に効くのかということを説明せず、Howのみを書き連ねるというのはこの手の非日用品の説明としてはいかがなものかと思う。スピーカーユニットに標準箱の設計書をつけてる丹念さとギャップがありすぎる。

...それともみんなが夢(幻想)を持てる隙間を作るのが、非実用品のベンダーとしての責務だとでも言うのだろうか。何が何でもFostexドライバを使えという態度は、Windows標準より独自ドライバの方が音がいいぜ、理由は知らないけど、という幻想などを容易に育みそうでげんなりする。

 

もうちょっとすっきりとした、ユーザーを育むような情報提供が出来ないものかね。

とりあえず記す。

 

(1/26追記)

この件に関してはMSも情報を公開している。

https://support.microsoft.com/ja-jp/help/4021854/windows-10-doesn-t-install-specific-drivers-for-usb-audio-devices-on-t

回避手順も開示しており、Fostexの説明もこれを元にしたものであることが判る。

それがさらに悲しみを増す。

 

なぜ、Fostexが回避策を説明しなければならないのだろう?OSベンダーが現象を把握していて回避策も提示しているからそっちを見ろ、で終わりでは無いのだろうか?しかし実際にFostexがやっていることは、MSが公開している手順を屋上屋を架すがごとくクドクドとリライトしたものの公開である。

確かにstep by stepでの操作説明を求めるサービス泥棒の顧客が日本には多くいる。しかしWindowsの操作を知っているべきなのはHP-A4の購入者なのであって、それに対する説明コスト(甚だしきは電話でやるのだ)を他の顧客と分担するというのは奪取なのであり、そしてそれにFostexが加担しているというのはどうなのか。

Fostex自身が責任を持つ範囲(署名付きドライバはさっさと出すべきだし、自社ドライバが入らないという事の意味は説明すべきだ)、顧客が責任を持つ範囲(Windowsの使い方は知っていなければならない)、それらの線引きが間違ったまま商売をしているということにげんなりするのである。

 

ちょうど、そのような特集もあるようだ。

「おもてなし」のウソ:日経ビジネスオンライン

 

この前のTOTOはまた違ったパターンのサービスマインド不全だったが。

septiembreokbj.hatenablog.com

 

と、いつものごとく発散するのだが、Fostexに話を戻せば、システム物(ソフトウェア物)のサポート基準を見直さないと、ほんとにつらいと思う。足りてないんじゃ無くて、力(リソース)を投入するポイントが間違っている。エンジニアリングではなくて企画やマーケの問題。

ああ、それは日本の製造業に今なお多く見られる問題であって、つまりそれが悲しみを呼ぶのだ。

1/25 オーディオ再生環境のリフォームに関する備忘録(その3)

オーディオ再生環境のリフォームに関する備忘録、本日はリフォームに当たっての要件に基づいた設計(というほど大げさでもないが、実現方法の確定だからやはり設計だ)の経緯を。
 
 
と書いておいて寄り道をするのも昨日と同じで、なぜDLNA→OpenHomeの道をたどるのか、どうしてRoonを目指さないのか、という疑問に対する現時点の考えを記しておく。
まずは、Roonとは何か。少々長めだが適切に纏まっている記事に解説をお願いしよう。
(なおこの記事は、前回OpenHomeの解説をリンクした「言の葉の穴」の逆木 一さんによるものであった。なるほど、識者とは検索してよくヒットする人の事なり)

www.phileweb.com

ウィキペディアである項目を調べた時、関連項目から次々に興味のある別の項目へ飛んでは長時間を過ごしてしまった……なんて経験したことがある人もいるだろう。Roonが提供する音楽体験はまさにその感覚に近い。

音源に対するメタ情報(作曲、演奏、などその音源に関する情報)データベースと、そこからリンクされる音源情報のリポジトリ(は、まだ業界用語だな。貯蔵庫ですな)。確かに面白そうである。今聴いている曲と関連を持つ曲を一望できるというのは、神の視点を手に入れるかのようだ。

しかし今回のリフォームは、「現実的なコストの範囲で聴きたいものを聴きたいときに聴きたいように聴く」を満たすためのものなので、「コレも聴きたくなったりしませんか?」というサジェスチョンはもちろん大変に興味深いのだが、しかし自分の中から湧き出てくるものではないので、要件として必須ではないのだ。

 
そしてより重要なもう一つの理由が「現実的なコストの範囲」だ。Roonを全能感をもって使おうとするならTIDAL連携は必須だ(RoonはTIDAL連携ができる)。そしてアタシはアーティストにお金を渡したい(出来ればダイレクトにおひねりを投げたい)というスタンスだから、TIDALを使ったとしても個別購入は続けるだろう。もちろんTIDAL経由でアーティストにお金は流れるのは判っている。その上で、契約範囲・期間に限定されずに、聴きたいものについては、聴きたいときに、聴きたいように聴くという権利をお金を渡して確保したいと思うのである。そうした場合、Roon+TIDALにいくらまで払えるのだろう。
TIDALは日本でサービスを始めておらず、裏技を使って契約せざるを得ない。その事によるリスクは目をつぶるとしても、おひねり代を別途払う想定なら、Roon+TIDALの年間費用は合算で200ドル強が自分の気分だ。しかし現実にはRoon:$119 USD a Year、TIDAL:$19.99 USD a month with lossless High Fidelity sound quality、年間約360ドルとなり、想定とずいぶんずれてしまっている。自宅で仕事をやっているなら360ドルでも高いと思わないのだが、日中は基本的にオフィスにいて、もっぱら人と話しをしているので、この金額では折り合えない。うむむ、もうちょっと様子見をするか、となってしまう。

About TIDAL

support.tidal.com 
まとめれば、いまの自分の生活とRoon(+TIDAL)の費用はまだ折り合わない、というのが今回の結論。状況の変化を待とうということだ。
...もうちょっとコナれてくれないですかね、値段。
 
 
 
さて、今回のメイン、要件の実現(設計)だ。
 
設計その1:DMCの選択
 
自由を何よりも大切にする当家においては、スマフォはAndroid一択であるので、コントローラソフトであるDMCは必然的にBubbleUPnPということになる。
だと端折りすぎだな。選択条件は以下のとおり。
 

  1. もちろん使い勝手などの評判の良いモノ。
  2. OpenHomeにも対応していて欲しい。次のエンハンスの時にコントローラーを切り替えるのはイヤ。
  3. 特定のハードウェアベンダーにロックインされたくない。無料であることや、特定環境での利便性よりも、規格に基づいた中立さを優先する。LUMINやLINNのアプリは(できるなら)避けたい。

 

これに従ってBubbleUPnPを購入したのだ。アタシのスマフォにも、家人のスマフォにも入れた(つまり2ライセンス購入した)。

 

 

設計その2:DMSの選択

 すでにファイル共有のために使っていたNASがDMS機能を提供していたので、そのまま利用することにする。あるものは使うべきだ。正確には記せば、NETGEARのReadynas OSにはUPnP/DLNA対応のサーバーがついてくるので、ひとまずコレにすがることにするものである。

 
ここで

www.iodata.jp

www.dela-audio.comに心が揺れるようであれば山籠りでもして(片眉も剃って)、精進潔斎をしてこねばならないのだが、幸いにもそういうことはなかった。多くは語らないが、こういう商売ってどうなんだろうね。リアルタイム性はないんだからジッタも再送も受け側(DMRなど)のバッファで吸収されちゃうでしょうに。アイソクロナス(※)にデータを垂れ流しているUSB DACの接続とは訳が違うのだ。
そのUSB DACだが、ダイレクトに繋げるよという機能拡張をI/OもMELCOもやっている。これまた理解しがたい展開だ。オーディオセットのすぐ隣にNASを配置したいの?アタシゃ御免だ。たとえSSDであっても、ファンレスであっても、NASなぞはマシンルームにいれば良いのだ。

※再送などのない(つまり取りこぼし御免の)USBのアイソクロナス転送だが、それでもアシンクロナスモードだとDAC側がより高精度なクロックを用意してそれに合わせたフロー制御を行うことができる事は知っている。それにしたって一発勝負の転送なんだから、再送ありのTCP/IPとは話が違う。

ところでアイソクロナス転送のモードの一つにアシンクロナスモードがあるのだけど、もうちょっと整理した名前をつければという気がするのはアタシだけだろうか。あれはハード屋さんのセンスだなあと思うよ。ソフト屋の気分じゃない。

 

 

 

設計その3:DMRの選択

 問題はDMRだ。USB DACとして利用していたパイオニアのN-70Aは、元々がネットワークオーディオプレイヤーであるのでDMRとして扱うことができるのだが(しかし先に述べたとおり、OpenHomeには対応していない…)、その他にはUSB DACが5台あるのみで、DMRを実行する何かが必要となる。もっと平易な言い方をすれば、こうだ。
電源を入れっぱなしにして構わない程度の低消費電力のLinuxBoxと、その上で動作するDMRソフトウェア(できればOpenHomeのレンダラーでもあって欲しい)の組合せは何がベストか?評価指標は1.費用(手持ちのUSB DACへの接続性も費用に換算する)、2.安定性、3.製品の継続性の三点。
その結果、Raspberry Piと、その上で動作するVolumioというディストリビューションを選定した。Raspberry Piはラズパイと発声されるくらいにポピュラーなLinuxハード(ボード)。ストレージにするMicroSDは別途用意するにせよ、その他はオールインワンで売価約5000円は安い。

(本家サイト)

www.raspberrypi.org

(解説サイト)

Raspberry Pi - Wikipedia

 

そしてDMR機能を提供するソフトウェアは、OSとその他ソフトがすでに一体の配布物となっている(ディストリビューション)Volumio。

ただしVolumioはの総体はDMS、DMC、DMRの三機能すべてを含むものであって、その中のDMR部分だけを使おうというのが今回の作戦である。

too muchなのではないか、という突っ込みがありそうだが、いやいや、インストールが楽(バイナリを焼くだけ)、情報が豊富というのは何者にも代えがたい美質だ。

Volumioを作ってる人がその使い方で喜ぶかというのは別として。

 

(本家サイト)

volumio.org 

…WEBを見てみてら、いきなりShine On You Crazy Diamondが目に飛び込んでくる。ああ、ここにもIMMWが。どうしよう、周。いや、おちつけ。

IMMWについてはこちら。

septiembreokbj.hatenablog.com

ともあれ、このVolumioを使うことで、USB DACUPnP/DLNA対応のDMRとして扱うことが出来るようになる。

しかも! 最新のVolumioはupmpdcli をデフォルトで動かしてくれるので(先達は手動で入れたりして大変だったみたいだ、南無)、playlist問題に関しては悩む必要がない。

(upmpdcliについてはこちら)

An UPnP Audio Media Renderer based on MPD

 

playlist問題というのは、ピュアなDMRは自分でプレイリストを持たず、DMCからの指示に従って動くという仕様に起因する問題である。するとDMCが終了したり、スリープしてしまったりしたときに、音楽の再生もまた止まってしまう事になる。この仕様はスマホアプリとの相性が極めて悪い。スマホアプリは隙あらば止まるからである。

Windowsアプリと違って表示されていないアプリはプロセス的には死んでいるので、DMRに指示の出し様などないのだ。Androidはそれでもまだ電池の消費さえ気にしなければやりよう(プログラムの作りよう)はあるが、iOSは最近の改訂で本当にstrictになってしまった。PortFowardingがまともに動かないのってどうだろう。...また、話がそれた)

しかしVolumioの場合、upmpdcliがプレイリストを引き受けてくれるのでplaylist問題に悩まされることはない。その代わりと言っては何だが、プレイリストの転送時間幾分いらっとさせられるのだが、いや、それですむなら安いモノである。N-70Aをちょくに使うとplaylist問題に引っかかりまくりで、そのときに感じたフラストレーションに比べればどうということは無いのである。

 

 

 

ああ、今回で終わらせるつもりだったのだけど、力尽きてしまった。

あともう一回、Volumioの設定のポイントと、補遺を記して完結させたい。

 

 

 

では、最後に今日の一枚を。

  

慶一さんですね。インダストリアルではない金物系の音が聞きたくなって掛けていますが(※)、もちろんそれだけのアルバムではありません。EIGHT MELODIESも、SMILES and TEARS 2010(やくしまるえつこ!)も、その他、全編ああ慶一さんだなあという感じの2枚組。確実にファン向けのアルバムですが、そういうマテリアルを通じて、ファンはアーティストその人への理解を深めていくのです。へー、そうなんだ、とか。

※FF-165WK

FF165WK | FOSTEX(フォステクス)の高音部がひずむのが嫌いで(みんな気にならない?)、Monacor DT-350NFを2Kのクロスオーバーで繋いで使うというなんだか邪道なスピーカーを最近使っているのですが、これが割合に具合が良いのです。で高音の抜けが気になるアルバムを掛けて、アレコレ調整をしています。

ちなみに箱はTDB16ですね。この上にツイータースタンドにマウントしたDT-350NFを乗せている訳です。

 

ところでこれを聞いていたら、去年の10/13に上野洋子さんが金沢蓄音機館でヴォイスパフォーマンスをされて、その会場の一番うしろに慶一さんが座ってらしたのを思い出しました。アタシの席の隣の、隣だったのです。ああ、ほんとに記録に残しておかないと色々ヤヴァい感じです。

(そのときの告知WEB)

www.nightkanazawa.com

1/24 中日新聞、よい新聞

www.chunichi.co.jp

2年前、博多でふらりと入った専門店のもつ鍋はとってもおいしかった。本場でない金沢で、期待する方が間違い。と、思いきや、看板に恥じないおいしさだった。

 一番人気は「龍 秘伝のたれ」(2人前3412円)=写真。スープの味付けは濃く、もつと一緒でちょうどよい加減にしてある。秘伝だが、アレルギーの問題があるので、ピーナツでこくを出していると教えてくれた。

 みそ仕立てと思うかもしれないが、しょうゆベース。味に変化を持たせる豚肉のほか、もやし、キャベツ、にらが入る。女性客のリピーターが多い。ちなみに店長さんの名字は「筑後」だが、金沢出身。 

 

「アレルギーの問題があるので、ピーナツでこくを出していると教えてくれた」

 

この文をそのまま解すると、ピーナツにはアレルギーがないということになりますが、マジでしょうか、中日新聞さん。

  1. ピーナツにはアレルギーなんか無いサー。(馬鹿説)
  2. ピーナツにはアレルギーがあるが、のTYPOだよ、メンゴ。(無能説)
  3. 聞き取りしたまま書いたサー。アレルギー?店の考えることでしょ?(開き直り説)

大体この三通りの落ちが考えられて、どれをとってもKUZUという。

ちなみにうちは北陸中日新聞を取ってたんだけど、あんまりにも偏向報道がひどいので子供の教育上まずいということで三年前に北國新聞に切り替えた。新聞代の集金にきたおばちゃんに、ごめんねーやめる、と伝えると、おばちゃんは

「やっぱ、アレ?他のお客さんも最近ひどすぎるって結構やめてる」と言って、左手をさらに左に広げるアクションをしたのだった。ああ、そうです、その通りです。

おばちゃんの諦めっぷりが未だに印象に残ってます。

 

 

しかし今回の記事を見ると、偏向報道うんぬん以前に基本的な能力がなくなってしまっているのだなあというのが判る。うーん、チェックシステムって無いの?それじゃただのBLOGだよ?

 

ちなみに中日新聞から切り替えた北國新聞は、主計町の踊りの流派がチェンジする、それは芸妓さんが家元を怒らせたからだ、という地域に密着した快記事(怪記事)を載せたりするナイスな奴です。大和碓大もめ問題も丹念に取材して連載しているし。少なくとも一読者としてはそう思う。昔のような権益誘導一色の紙面でも無くなったしね。

時々露骨にスゴいのもあるけど、まあそれはご愛敬。少なくとも中日新聞の安定のバイアスに比べれば雲泥の差だ。

むしろあそこは「事業」の方がアレだけど、そこから先は言えねえなあ。

1/24 雑記

Intermezzoから更に後退して雑記。

 

大変に追い込まれた状況で

わが軍の右翼は押されている。中央は崩れかけている。撤退は不可能だ。状況は最高、これより反撃する。

などと発することが出来る人はもちろん格好がよいのであるけれども(※)、そのような振る舞いを可能にするのもミッション(召命される方の奴な)なり大義なりの外部要因か、それとも信念なりの内部要因かがあればこそであって、そのようなものが一切洗い流されてしまった後でも可能なのだろうか。

上記の文言でそのまま検索すれば、この格好いい人が誰なのかすぐみつかります。

 

例えば会社にアレな人がいるとする。自分では仕事をやっているつもりの、しかし実際には口ばっかりで全く成果の出ない、そのくせ暇さえあれば他人の行いをあげつらい如何にその人物が劣っているか不要であるかを声高に話し、であるのだが大通りのことを指摘する能力もないので引き合いに出せるのは誠に些細なことばかりで、自分の仕事が出来ないことに関しても、まずは状況のせいにして、次は相手のせいにして、その次はそんな難しいことを頼むほうのせいにするという、まあ見事なばかりのアレが自分に被害を与える程度の距離で会社に在籍しているとしてみよう。

去年の2/2までの自分なら、まず間違いなく、何とかすることしか考えられなかった。もちろん「何とか」というのは「潰して追い出す」とかそういう短絡的な事ではなくて、そのアレが引き起こす可能性(リスク)を洗い出して、それに応じた計画を立てるということだ。そしてみなさんご承知の通りリスクへの対応は、「回避」、「転嫁」、「軽減」、「受容」四つに大別される。例えばここにまとめてある通り。

www.ipa.go.jp

ただしPMI欽定訳語とちょっと違ってるね。軽減→低減、転嫁→移転、受容→保有。なんだろう、ガチ情報系とPM系で譲れない差違があるのかしら。

 

「アレな人」がもたらすリスク(可能性)を計り、現状取り得る選択肢の中で対策を立て、かつ予防措置が可能であればそれを講じ、ビジネスへのインパクトを抑える。そのためにも「アレな人」がどのような振る舞いをする人間なのかをプロファイリングし、その理解に努め、周辺への影響の度合い(浸透度)もアセスメントし、計画・施策の確度をあげるべくインプットしていく。そのような事が組織の維持・運営には必要なことだと信じていた。いやその必要性は、いまも信じてはいる。問題は、組織の維持・運営が自分の内発的な目的ではなくなってしまっているところにある。前はビジネスの成功というのは、そこに参加した人の集まりで分かちあうものだ、と素朴にも信じていたのだ。いや、未だに信じてはいるのだ。しかし。

 

septiembreokbj.hatenablog.comに書いたとおり、会社というのは契約による結びつきでしかない。それは心の底から信じている。しかしそれと同時に、仕事は、仕事と格闘するチーム(という組織)によって成し遂げられるという事も同様に信じている。だからチームの練度を上げること、チームの能力を向上させることというのは、成功のために必須だと考えて行動してきた。成功?目的を達成することだ。チームは目的達成のための道具であって、チームのために目的がある訳ではない。逆説的だが、だからこそ成功はチームで分配されなければならない。成功保証で契約をしているわけではないのだから。着手に半金、成功で半金、そこまでは言わないが、コンペティティブな仕事の場合など常に成功が待っているわけではないのだから、目的の達成は別途評価すべきだし、それが次の仕事に対するモチベーションにもなる。信賞必罰と書くときついが、功績ある者は必ず賞すべきだし、個人はチームの支援を受けて動けているのだから、成功への賞はチーム全体にも与えられるべきだ。これは未だにそう思っている。

個人として(プロフェッショナルとして)確立し、エキサイティングなチームプレーで成功を獲得し、そしてその報酬を手にする。続けられればこれほど楽しい事はない。その楽しさは、例えばヴィンランドサーガなどに詳しい。

さて視点を変える。いままでは楽しく働くための視点だ。

 

 

そして今度は、楽しく働いてもらう側の視点に立ってみる。チームを編成し、チームに働いてもらう側の立場だ。

このチームが目的に合わせたプロジェクト的なものではなく、ライン的な、定常的な組織の場合、幾分気になることがある。目的のためのチームが設定されるのではなく、チームのために目的が設定されるという倒錯が始まってしまう可能性だ(日本は倒錯に満ちあふれた国なのではないかと思うよ)。そうするとチームは結束するけれども、その外部(対会社)との間においてアノミーが発生する(YES! 部門間の派閥抗争というのはアノミーだと思っているのですよ)。

社会規範が弛緩・崩壊することなどによる、無規範状態や無規則状態

社会を会社、規範をミッション、ビジョン、経営方針と読み替えてみよう。アノミーである。チームという中間集団が固有の意思(モーメントでもいいけど)を持つことにより、「会社の規範」がないがしろにされるときに危機が訪れる。とはいえチーム無しで仕事を行うことはあり得ない。まだ、いまのところ。

ともあれ、ライン的なチームを持つ場合には「会社の規範」とチーム固有の意思に乖離が生じないような手当が必ず必要になる。各チームには政治将校を置く?もしかしたら本当にそれが答えなのかもしれない(マトリックス型組織の複数の指示系統というのは、ソヴィエトからヒントを得たのではと思ったりしなくもない。根拠のない妄想だが)。

 

更に退嬰的な、チームなどいらぬ、組織を機能性を軸に階層化してそれで仕事をこなしていくのだ、要員はダイレクトに組織と結合するのだ、という古くさい組織論に戻るのもありだが、いまさらそんなのでどうにかなるのはコピー機や携帯電話の販売会社程度のものだ(はっはっはっ、イチバンとかね。サイアクだ)。尚このような組織論でどうにかなると思われないためにも、非反復的な粒度の小さい仕事はスルーするなどのルールが別途必要だ。変な仕事は組織を腐らせる。まあ利益率がらみの制約を入れれば、どこかで気がつくという話もある。

 

というわけで、出来ればプロジェクト型の実行チームを、それが無理な場合には「会社の規範」と乖離しない仕掛けを作り込みつつライン型のチームを編成できるようにすると言うのが普通の結論なのだが、それで組織に関する問題が目出度く完了する訳ではない。組織は目的のためのツールであれば、ツールを行使する側からの使い勝手を無視する訳にはいかないからだ。

 

 

さて更に視点を変える。究極的な目的を達成するために、必要とあらばリソースすべてを動員することも許されるというポジション(以下、P)が振られてしまった場合を想像してみよう。

会社というのは自身の存続・発展を希求し、そのために活動を行う存在である。目的もミッションもビジョンももちろんある。しかしさらに根本的な目的は自身の存続・発展にある。やる事終わったら会社は解散してもいい、などと創業者が宣うことも無いではないが、それが通るなら会社ではなくて大規模個人商店に過ぎない(法人格を取るなと言いたい)。

何が言いたいかというと、「それをやったらこの会社は存続・発展するのか?」という超越的な物差し(以下、M)が用意されていて、それによって計画(経営計画、事業計画)からビジネス現業までのすべてが評価される場が会社なのだということだ。そして今仮定した視点とは、儲かったか否かだけではなく、楽しく働く・楽しく働いてもらう、ということすらMに還元評価しなくてはならない、その代わりに必要なら社内のリソースを総動員する指示も出せる、そのような立場の人のものだ(あー、総動員指示を出せるのはCEOで、単なる代表取締役社長だとちょっとアレですが。いや、会社法的には出せるのだけど、CEOが付かない代取が総動員令を出すのはガバナンス的にどうなのということです)。

そのような立場からすると、(その会社に則した)適切な計画が、(その会社のリソース内で)適切に実施されている、ということが保証されることが一番大切なことで、それ以外はまあ、趣味の範囲で、ということになる。

そうすると組織論に期待することも大いに変わってくる。

  1. 経営層の考えているミッション、ビジョン、経営方針(経営計画)にしたがったビジネス現業が展開されること
  2. 経営方針(経営計画)に影響を与える可能性がある情報が、ビジネス現業から迅速に上がってくること

大きくはこの二つ。もちろん適切な計画策定のためのスタッフ部門は存在する前提として、情報の展開の配布と収集が適切に行える仕組みになっていれば、組織に対する期待としてはまずはOKなのだ。

ビジネス環境が変わるスピードが早くそれに対応した組織が必要だ(から計画なんかやってられない)、とか、事業の根本は赤黒なのだからそれが明確になる小集団の集合として捉えるべきだ(信者多いね)、とか、そういう突っ込みが死ぬほど来そうだが、それは

  • どのくらいのスピードで計画のループを回すのか(DODAについてはすでに述べた)という問題に過ぎないのでは?

    septiembreokbj.hatenablog.com

  • 小集団だと赤黒がはっきりさせやすい、という論に異を唱えるつもりはない。なんと言ってもエヴィデンスがある話だから。しかし、それを万物の基本において物事を考えるべきだという説には大いに疑義がある。むしろ中間集団ごとに発生する意思の統一にどう対処するのか。
    僕は地中海の水平線に打たれた巨大な疑問符だ!

ということではないのか。 保証したい性質と、それを実現する仕組みの話を混同するのが大嫌いだ。あ、また脱線した。

 

そのように経営層とビジネス現業の間の、情報の配布と収集を、その会社のビジネスドメインが求めるスピード(と精度)で行えるような仕掛けの担保こそ、Pが自らの組織に求めるものの大枠である。それ以上でも、それ以下でもない。

社員の成長?モチベーション?それらの実現もすべて計画のうえ実現されるべきものであって、必要ならば計画に組み込むのだ。「人が育つ組織」という言い方の暗愚さが許しがたく嫌いだ。人を育てられる人はいる。間違いない。しかし組織は人を育てられない。計画・プログラムがあり、組織(に属する個人)が実行するだけだ。計画を作らずに、組織という名のブラックボックスに丸投げをするのはただの思考停止である。

また、計画を作るということに対して、現場の想像力や自発性を縛るのかなどと難癖をつける奴は(いや、いるのよ、ホントに。口に出すかどうかは別にして)、まず持っていると主張している所の想像力なり自発性なりを、計画に従ったビジネス現業の実施に振り向けてほしいと切に願う。箸の上げ下ろしまで列挙した計画ではないのだから(ああ、一部の大企業だと作るかもね。でもそれは別の問題)。それでも力が余るなら計画への提言を、それしきでも足りないなら計画への参画をしてほしい。要はそんな力があるのなら、是非発揮してほしい、その対象を指示するからということなのだ。

...やばいな、仮定の話をしているというマスクにヒビが入りつつある。

 

 

ということで、いま気にしているのは、経営とビジネスの現場を繋ぐ、いくつかの論理変換のレイヤ をどうやって組織に設置するか、どうすると自然にやれるかということ。

 

よくある組織論比較。

bizhint.jp

なお、これはお笑いの例としてあげた。事業部制(プロジェクト型)...って何言ってんの?PMI(Post Merger Integrationじゃない方)のお経に毒されたアタシじゃなくても、普通にみんな嗤いそうな感じ。

 

もはや古典のマトリックス組織。

Matrix management - Wikipedia

www.pmi.orgなどなど。

 

経営とビジネスの現場の変換誤差を無くすための考察は枚挙にいとまが無いが、しかしどれもしっくりこない。ライン・スタッフ制度をビジネスユニット・経営企画室として実現するというのもよくあるが(うちでもやってみたが)、これもすっきりしない。マトリックス組織も、うーん。

と、ほぼ自分の告白になってきたのだが(しかしもちろん、Pではないよ)、どのように会社組織が見えているのか(いたのか)というのは上に記したとおり。

最初にくどくどと説明したアレな人のことを気にするのをやめたのも、アレな人が見えなくなってしまったからだ。リスクが読み切れて、数字上のインパクトもわかったので「保有」を選択したという話もなくはないが、目の分解能が変わり、微細なことに反応しなくなってしまったのが本質だと思う。Mのことを気にするようになると、見えるモノが変わってくる。本当に。殊に子供を亡くして個人としての目標がすべてなくなったアタシにおいては、その変化がとても著しかったようだ。

いままでも仕事がすべてつらかった訳で無くて(苦しかったことはいっぱいあるが)、仕事を通じた自己実現や、その様を子供に見せている(つもり)ということに意義を感じていたし、なにより問題(特にテクニカルな問題)が解決するときの爽快感を心の底から楽しんでいたと思う。それを去年の2/3に失ってしまった。その気持ちは二度と戻ってこない。そして「それをやったらこの会社は存続・発展するのか?」という物差しに仕える仕事を始めた。個人の目的、目標がない男にはちょうどよい仕事だと思う。

 

 

さて、ようやく冒頭の自問について考えられる。

結論から言えば、そのような格好のよい言や、態度をとる日はアタシには二度とやってこない。アタシの仕事は、必要な人や仕掛けを明らかにして、それを準備して、適切な時と所に置くことだ。Mに仕えるとはそのようなことだ。

ほとんどの戦いの勝敗は、最初の一発が撃たれる前にすでに決まっている。

まさか本当にそんな事を思う日が来るとは思わなかったが、しかしこれが無常という事かと思う。

Mはミッションでも大義でも個人的な信念でもない。ただの(しかし超越的な)基準なのであって、アタシのようなものが仕えるのにちょうど手頃なものなのだ。少なくとも、何もやることがないよりは全然よい。これは韜晦ではない。繰り返す、これは韜晦ではない。

 

 

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いまの仕事がいやになったら、このエントリを読み直して考えるようにしよう。もう帰る道は無いのだし、そのときに新たな変転も訪れていないのなら、ココにいてソレをするしかないのだ、ということを容赦なく思い出すためにこれを書いたのだ。

機能不全な自分の面倒をみるというのは面倒なものであるなあ。