all things must pass

記録と備忘録による自己同一性の維持を目的とするものです。

10/27 日本郵便はDXとかそんな事の前にまずやるべき事があるー国際郵便マイページサービス

海外の友人にCDを送ろうと思ってようやく品物をそろえて宛名を書こうとしたらあら大変。

アメリカは手書きの宛名ではアカンようになっていたのだった。

www.post.japanpost.jp

まあ、しゃーない。

ではということで、日本郵便が用意している宛名印刷サービスを使うことにしてアカウントを取得し、粛々と入力をしたのだった。

(使ったのはここ)

www.post.japanpost.jp

しかし宛名を印刷するための用紙を取り寄せるというのはいかにも面倒ください。

何か良い手がないものかと思っていたら、こういうことが書いてある。

国際郵便マイページサービスのご利用方法 国際郵便マイページサービス for ゆうプリタッチ - 日本郵便

登録した発送情報に対するQRコードをメールに送り、それを郵便局にあるプリンタから印刷するというサービスだ。

そうか、これは便利だ。いま登録した発送情報のQRコードを自分のメールに送れば専用用紙の取り寄せが不要になり、明日にも発送ができるじゃないか!(取り寄せると5営業日かかるのだそうです)

 

 

...ところがどこを見てもQRコード送信のボタンがない。なぜだ?

よーく見るとこう書いてある。

国際郵便マイページサービス for ゆうプリタッチ

スマートフォンで入力した情報から作成される二次元コードを使って、郵便局に設置されている専用プリンタ「ゆうプリタッチ※」でEMS、国際eパケット、国際eパケットライト、国際小包、国際書留郵便の発送に必要な書類すべてが印刷できるサービスです。

 

はあ、なるほど。WEBサービスではあるけれども、PCから入る場合とスマホから入る場合で使える機能が違うのか...。

日本郵便、バカなんじゃないの?マスダヒロヤ、なめてんじゃねーぞ?

 

しかしまあ、あれだ、ワタシも大人だ。

スマホからログインして、そこから入力済みの情報を選んで、QRコードのメール送信をするくらいの我慢はできるさ。

だからスマホからログインをするさ。

するさ。

するさ...。

 

スマホ用の画面からログインをすると、何度やっても発送元の入力画面に遷移してしまう。バグなのか?ログイン画面を間違えているのか?

気持ちを静めるためにコンビニにお茶を買いに行って落ち着いてから考えた。

 

スマホから入ったときは、送付ワンショットの専用機能になるのだな、このサービスは。

...クソじゃないか。

 

そこからわかりにくい日本郵便のサイトをクエストすると、そういう事が書いてあるページが確かに存在していた。

国際郵便マイページサービス | 日本郵便株式会社

なんとパソコン版とスマホ版は異なるサービスを提供しているのだそうだ。

事業者向けと個人向けなのだそうだ。

...しかしパソコン版からアカウントを登録するときに「これは事業者向けです」とは一言も言われなかったぞ?

 

腹が立ったことは二つある。

一つ目は、二つのサービスを作るのだとしたら、なぜ共通のアカウントにしたのだろうかということだ。

スマホ版(と彼らが呼ぶ環境)にPC版(と彼らが呼ぶ環境)で作ったアカウントでログインできたとき、同じデータが表示されることを信じて疑わなかったーなんとなれば、データとはアカウントに紐付くものだからだ。今回のようなシステム設計はどう考えても論外だ。連携しない複数のサービスは、個別にアカウントを発行すべきなのだ。

*1

 

 

そしてより重要なのが二つ目の方だ。*2

なぜそれぞれ機能が中途半端な二つのサービスを作るのかということだ、しかも同じ名前で。「一つのサービス×環境毎に最適化されたUI」ではダメなのか?

PC版にQRコード送信ボタンを付けないという判断はどのような枠組みのなかで「合理」となったのか想像が付かない。少なくともコストではないよね、すでに存在するコード(WEB API)を呼び出すだけなのだから。

極めて内向きな論理がまかり通っているのだろうと想像してしまう。「事業者と個人はサービスを分けねばならない」等のべき論とかね。あほか。

 

 

 

まとめればこうだ。

何がDXなものかね。4300億突っ込もうが、楽天と手を組もうが、こんな事を通してしまうような会社はどうにもならぬよ。

まったくもって昏い話でした。とほほ。*3

 

 

追記

本件は結局Chromeスマホエミュレーションをやって、そこから入力した。

(正確にはPC版で入力したデータをコピペした)

スマホで(大量の)データを打たせるな、情報を消費するためにつくられたものに、消費以外のことをさせるな。

そういうことだ。

 

追記2

そのPC版も一旦印刷画面に入るとデータが消えるという事にびっくり。

履歴を見せる別画面からは確認できるのだが、入力データの一覧があってそこでステータスとして印刷前、後を表示するという思想ではないのだ。

おもしろすぎて死にそう。毎回発明してるんだろうな、日本郵便。馬鹿すぎ。

*1:スマホ版はアカウント登録をしてある場合には、デフォルト送付元、登録済みの宛先、登録済みの物品を引用できるのだそうだ。探し回って判った。

なるほど、成程。ではなぜストレートフォワードに、入力済みの案件情報が使えないのか?やはり理解できない。

そして似たような、しかし少しずつ違う説明があるWEBサイトってどうなのだろう。仕事を増やすのが好きなのだね。DXの真逆だね。

*2:この説明の仕方は花森安治のまねだ。

*3:日本の行く末がよくわかる話ですね。

10/24 「恐れのない組織」に関する読書メモ

いま進行中の本についての覚え書き。

読み切った時にはちゃんとまとめる予定だが、ちょっと理解できないところが多すぎるので、最後まで読み切れない乃至は読み切った時に何が何だか判らなくなっている恐れがあり、珍しいことだが途中のメモを取るものある。

 

読んでいるのはこれ。

www.amazon.co.jp

 

本格的に読む前にざっくりつまみ読みをするんだけど、そこでまず引っかかってしまった。失敗した企業の事例にノキアが入ってて、この内容について大いに違和感があったからだ。

ノキア心理的安全性が確保されてない組織だった事を疑うつもりはないんだけど、あの判断の鈍さはどちらかと言うとビジネススクール系の話、マーケティングであったり、MoTであったり、そういうとこでの失敗だという理解が一般的。
 
プログラマーとしてのわたしとしては、「凡俗が理解できないSymbian OS環境で10年世界を抑え込みたかったら、凡俗プログラマーがいなくても携帯電話会社の商売が成り立つ仕掛けを考えるべきだった」という理解をしている。数に勝る凡俗プログラマーを利用するグーグルやアップル(の戦略)が詰む大戦略を考案できなかったのがノキアの敗因だろうと。
そう考えてても誰も言えなかった、と本書の著者は思うのかも知れないけど、そこは微妙。
彼らの最後のあがきをそばで見てた立場からすると、何しろ彼らには戦略が無かった。ノキアにも奥の院があって、そこがすべての戦略を握りつぶしてた?
うーん、津波が来ることから全員が目をそらしてたのはおそらく間違いないんだろうけど、それが上への忖度によるかと言われるとそんな気がしなくて、
 
  • 過度の楽観(これからのマーケットサイズではなくて、その時点のシェアで自分たちの影響力を計ってしまった)
  • アプリのマーケットが誕生することの意味の把握ミス(ノキア自身がアプリマーケットを始めていて、それが却って彼らの目を曇らせた)
  • すでに完成したOSを持っているのが自分たちだけである事の意味を見誤った(Symbian OSのプログラムは、普通のプログラマーには書けないんだけど、その事の意味がシリアスに判ってなかった…)
 
と、どちらかと言うと思い上がりのほうが大きい気がするのですよ。
まあ、心理的安全性のなさがそれに拍車をかけたと言われれば別に否定はしないけど、(極論すると)忖度が横行して潰れたと言われても困るなあと思いました。
 
あ、あとね、まだ戦えると思われるタイミングでやる気を失くしちゃったようにしか見えないのが当時不思議だったし、そして今なお不思議。
これも心理的安全性で説明できるのか?
勝ったと思ってた試合をいきなりひっくり返された事による組織全体のショック症状かなー、と思わなくも無いのだけど、でもフィンランド人ってそんなナイーブか?
(それともそんな国民性がある?)
 
ともあれ、ノキアの失敗はそれだけで本が書ける題材のはずなんで、あんまりさらっと触れてほしくなかったなという気持ちになった。あの時の現場が、すべて心理的安全性で説明がつくとでも?
 
そして偏見(わたしから著者に対する偏見)。
著者近影や、本文中でのMe Too運動の称揚などを見ると、「リベラル」な人なんだろうなという印象。
 
 
そしてそれらを抱えたまま冒頭が読み始めてみると至るところに穴が。
あげつらうときりがないのだが、それらから抽象されることはこんなところだ。
  • 心理的な安全性があれば、質の高い意見を述べることが可能になるのか?
    ゴミのような意見を気軽にいうことが出来る、民主的な職場ができあがるだけではないのか?
    例えば、心理的な安全性を備えたノキアはグーグル、アップルの伸長を押さえる戦略を考えだし、そして実行することができたのか?
  • 決定的な瞬間に決定的な問いを発することと、ノイズを気軽にまき散らすことができること、その二つを分別するために何が必要なのか?
    著者はそれを語るつもりがあるのか?
  • 心理的安全性とは直接操作可能な指標なのか?
    そして、これが因果関係における因であることをどうやって証明したのか?
    本書で示されているデータ、事例から言えるのは、成功している組織と心理的安全性の間に正の相関(強い、をつけてもよい)があるのみであって、心理的安全性の結果として成功が発生するいう裏付けは説明されていない-著者の信念意外は。*1

読み進めても読み進めても上記に対する答えはなく、むしろ謎が深まるばかりだ。

もしや、これが「リベラリズム」という事なのだろうか?

リベラリズム」の教義を受け入れれば上記はすべて自明になるのだろうか?

...だとしたら本当に「リベラリズム」というのはXXXXなのだと思う。

 

いや、人間は可塑的であり、未来にむかってトランスフォーメーションを繰り返して行かなければならないという信念を持っているという意味において、ワタシは十分にリベラルな筈なんだけど、なんだろう、この折り合わない感じは。

もしや彼らは状況を整えると人間本来に備わっている悟性が発露されて、すべてがOKになるとでも思っているのだろうか。

もしそうだったら死ぬほどいやだなと思う。

 

以上をまとめると、2021/10/24時点の読書メモはこんな感じ。

リベラリズム」の気持ち悪さを満喫しつつあります。欺瞞と偽善のすべてがつまったようなすばらしい本です。

おお、本当でしょうか。こんな本が売られているなんて。

Tipsとして役に立つことがいくら入っていようと、欺瞞と偽善が社会に流す害悪を消し去ることはできません。

おどろくべきことです、手間暇かけてあつめたそれなりの素材からこんなXXXXを作り出せるなんて。

さて、頑張って最後まで読んでみましょう...。

頑張る時点で負けてるのですがね。

 

 

 
 

*1:根拠のない確信を信念というのですよね。

9/18 総務省が仕切るということ

www.nikkei.com

自治体が受け付ける住民票の写しの交付手続きで、対話アプリ「LINE」を使った申請ができなくなる見通しだ。総務省が関連省令を改正し、オンライン申請に必要な本人確認を厳しくする。東京都渋谷区は2020年度からLINEを使った申請を受け付けているが、現行方式は近く使えなくなるため改正に反発している。

 

 

まあLINEはそもそも使ってないので(あんなの使うのどうかしてる)、ワタシにはハナから関係のない話ではある。便利/不便でしかモノを考えられない輩の事なぞ知るものか。LINEを使わない者を嗤い、法令違反の運用が発覚したあとでも『大丈夫な筈、問題ない筈』と言い張り続ける○○の如き人々は、そのように人生を(○○なのに人生?)を送っていけば良いのだ。*1

 

が、そんな事をわざわざ記録に残したいのではない。

書き残しておきたいのは、今日docomoから届いた一通のメッセージだ。

そのメッセージの内容は、ここにも記載がある。

www.nttdocomo.co.jp

ドコモ ケータイ対応開始!MVNOのお客さまも9月下旬よりご利用になれます

だそうである。

 

他キャリアにおいても、それぞれのMVNOで+メッセージが利用できるようになるとの事だ。

今までMVNOに対するサポートをやる気が無かったキャリアが、あまり儲けにもならないMVNOの収容に突如走ったのは何故か。おそらくLINEを公的利用禁止としたときの受け皿と機能するように、総務省が仕切ったのだと思われる。

 

そもそもLINEだけでもあやしいのに、それがバンクと一体化するのを総務省が許すはずがないと見ていた。本件、すべてのキャリア(MNO)に本人認証と情報管理の手間を押しつけるという正攻法に総務省が出たということなのだろう。

つまり残しておきたいということはこうだ。

 

『+メッセージを着地点としたLINE切りを総務省が仕切っていることを9/18に認識しました。予想があたると良いですね。』

 

さて、当たるかどうか?

おそらくは、当たるはず。バンクの悲鳴を聞きたい、という個人的な願望の反映としてではなく、総務省のリニューアルにかかわる事だと思われるから。

デジタル庁以後の総務省の立ち位置を今ひとつつかみ損ねていたのだが、最近聞こえてきた情報からすると、

  • 総務省:経営企画室
  • デジタル庁:情シス部門

が近いのではと思いつつある。マイナンバーが情シス部門の管掌下に入るというのもそれはそれで胸熱で、ようやく実用期の入り口まで来たのだなという感じ。

ともあれ、そのように実働官庁が分かれた以上、総務省はこれまで以上に企画、調定に邁進するしかない訳で、本件(LINE アウト、+メッセージ イン)は実に象徴的に見える。

 

たのしみな事である。

 

 

追記 ... どうなるバンク?

さて、バンク、何か巻き返しを図れるのか?

pay payの落日(もう常識だと思ってたけど、これもまだ気がついていない人がいてビックリ)も、今回のLINEも(こっちの方は表面化するのはこれからだけど)、共通して思うのは

 

 バンクって事業戦略弱いな

 

という事だ。

世界に出て行けないサービスはどうやって生き残るのか...違うな、世界に出て行けないサービスを使って国内でどう勝ちきるかということに関する失敗である点において、その二つは同じだし、やっぱあそこはリアルビジネスの戦略が弱い体質なんだろうな、と。

pay payにおいては手数料を業界最安にする事から逆算して戦略を考えなければならかった筈だし(インフラに詭道なしですぜ)、

LINEにおいては、パブリックサービスになる部分を切り出してそのうえで自分ち(バンク)が儲かる仕掛けを考えられないならくっつくべきじゃなかった訳だし。

でも実際には、LINEにしろ、pay payにしろ、ユーザー数があれば強い、ユーザー数さえ抱えていれば勝ちきれるという前提の固執してどんどんハマっていっているのだ。

いまの時代、ユーザーがよそに引っ越す敷居はスゴく低くなっている。だから、ある時点のユーザー数がリアルエステートであるが如きことを思っているのって、それこそout of dateな考え方だと思うのだ。そこをバンクは全然考えていない、ように思われる。それとも携帯での成功バターン、

『流動化して、取り込んで、そしたら乗り換え手数料で縛る』

に溺れすぎて、まず取り込んでしまえば(数を作ってしまえば)、あとは何とか縛れるものだという幻想にやられてしまったのか。

ただその携帯の成功パターンだって総務省からきつく指導をくらっている訳で、他人の客は流動化させるけど、自分所の客は縛るというのはやはり無理な相談なのだと思うのだ。*2

 

要するに、バンクは商売のやり方が行き詰まりにきているのだ。おそらく。

(会社を売り買いするビジネスに於いてもARMの件が面白いことになっており、さらに面白いことにAppleはARMが囲い込まれることに嫌気してRISC Vのエンジニアをあつめて始めているという!)

さあ、お楽しみはこれからだ。

 

*1:もちろん○○であってもボリシェビキボリシェビキなので、メンシェビキであるワタクシは最終的に彼らに負けるのだが、それはそれで良い。

*2:愚か者は『経済圏をつくって』と気安くいうが、出口であるマーケットプレイスの競争力が圧倒的に劣るバンクがそれを言ってもねえ、と。

9/18 転進

9/18と言えばジミヘンの51回目の命日であり、かつカップヌードルの50回目の誕生日なのだが、今日残しておきたいことはそれではない*1

 

あまり語る人がいないうちに(つまり後出しじゃんけんと思われないうちに)残しておきたいということは、こうだ*2

 

『いま、様々なものの値上げについて喧しい。木材、小麦、その他いろいろ。だけど、ホントは値上げじゃないよね。日本が世界の平均的な経済成長*3から取り残されているせいで、世界の価格上昇について行けてないだけだよね。

本質は購買力の(相対的な)低下なのに、値上げだけを言うのって敗退を転進というアレと同じだよね。さて、いつ本当のことを言うんだろうか』

 

『値上げ』ではなく『日本の購買力またも低下』という見出しが一般メディアで当たり前になる日はくるのだろうか。

それとも、敗戦の日まで黙っていて、そしてあのときと同じく、敗戦を終戦と言い換えるんだろうか。

 

どうするんだろ、どうなるんだろ。大事なことから目をそらして、その場を凌ぐ習慣はなくならないんだな、この国は。暗い気持ちにしかならないな。

うちは家人と二人、あとは年取ってのたれ死ぬだけだから構やしないけど、若い子たちはカワイソウだな。

こんなつまなんない滅び方をする国になるとは思わなかったな。

 

*1:ジミヘンについてはMessage From Nine To The Universeの再々発まで何も書くべき事がない。権利関係がややこしいのか、遺族会が強欲なのかは知らないが、この名盤は出ては消えを2回やっている。youtubeに違法アップが乗っているが、ワタシはお金を払って聞きたいのだ

*2:仮想通貨がconsidered harmfulだというエントリを残しておけたのはホントによかった。

*3:インフレとも言うが。

7/24 備忘録

びっくりしたので備忘録。

 

The Monochrome SetのGoodLifeというアルバムを仕事のBGMに流していたら*1、5曲目のB-I-D Spells BIDの冒頭MCで

『この曲はJoy DivisionIan Curtisに捧げます』

と言っていることに本日初めて気がついた。

何というにぶさか!今頃気がつくなんて!というのが書き残しておきたいことである。

 

5曲目は BRISTOL TRINITY HALL 1980 5/21 からのテイクなので、Ian Curtisが死んだ3日あとのライブということになる。なるほど。なるほど。

Joy DivisionのライブにThe Monochrome SetやScritti Polittiが呼ばれたこともあったようだし、このあたりは同期なのだね。

 

f:id:septiembreokbj:20210724134347j:plain

Joy Division at Electric Ballroom

ともあれ、今頃気がつくかねという自分のまぬけ具合はやはり記録に残すべきということで、ここに記す。

アフリカンカンフーナチスをみて悲しい気持ちになったことなどついては、またどこかで。

 

 

追記

あ、備忘しなきゃいけない事がまだあったのだった。

はみだしっ子』のフー姉さまは、くらもちふさこ先生がモデルだったというのを去年知った。なるほど、そうだったのか。これは本当に備忘録。

 

あと、これは80年代にすでにしっていたのだけど、その『はみだしっ子』の中の番外編短編であるパーティー教室は、元ネタがキングズレーエイミスの『酒について』のP23あたりから始まるところにある。なぜこれを書いておくかというと、年若い友人にこのまえこの話をしようとしたときにディテールが飛んでいてちょっと悲しい気持ちになったから。まあ、これも備忘録か。

ヴァーノン・ヒートン著『カクテルパーティーの秘密』をエイミスがくさす展開がそのまま作品にになっており、かつコック・エールを作中でアンジーに作らせている。これでエイミスが元ネタでないなど、ちょっと考えられない。

あ、それどころか第二章になる「ワイン考(その1)」はそのまんまでしたね。これはもう、言い逃れができないレベル(誰がする?)。

 

『酒について』はもう古書としてしか手に入らないが、エイミスならではのところに加えて訳注の充実ぶりなども素晴らしく、今新刊で入手できないのが残念でならない。

...いや、理由はわかっているのだ。こういうのはもう流行らないのだね。

バブル崩壊から30年、日本ではまだ文化大革命がつづいており*2、(中流的)教養主義に連なる(と思われるもの)は、すべて唾棄すべきものだという事になっているからだ。わたし自身、昨日の世界があったことを忘れている(思い出しかねている)事が常態になりつつあり、時々我に返っては慄然とする。

そうだ、そういう感情を覚えておかなければならないのだ。備忘録である。*3

 

しかし、エイミスがAngry Young Men*4一派に含まれているというのはなんとなく知っていたが、そこにコリンウィルソンも入っているという認識はなかった。今回の備忘録にあたって周辺を調べていたら、その事実に行き当たったのでそれも残しておく。

そうか、コリンウィルソンはそういう事だったのか。もっとボッチのイメージがあったのだが。なんだかエイミスと仲が良かったみたいだし。そうか、そうだったのか。

en.wikipedia.org

*1:Miles地獄に飽きたので、違う方向に行きたかった。でも根拠がないわけではなくて、『憂鬱と官能』のハードカバー版、P205にEine Symphonie des Grauensが『はい、これは僕の作った曲じゃなくてカバーですが...』と取り上げられているとおり、Spank HappyでThe Monochrome Setがカバーされていることから、菊地成孔さんを通じてMilesとThe Monochrome Setはうっすらリンクしている事になっているのだ。

*2:毛沢東への個人崇拝こそないが、造反有理としか思えないことを、しかし若者だけではなくすべての年代が30年言い続けています。われわれは今なお壮大な実験のさなかにあるという事ですね。どこに行き着くかはだいぶはっきりしてきているのですが、さてこの実験が完了する日はあるのでしょうか?

*3:保守であるとか、懐古であるとか、そういう事ではなくて、人間として暮らすためのトレーニングが必要だけど、それはどこに行ってしまったの?という話。スマホ+検索が悪、というのを語る人は結構いるけど、やっぱそうなのかね。だとすると、文明や社会の崩壊に手を貸す商売を一生懸命ずっと続けてきたということになる。それもなかなかにツラい。もう人生の四季も最後の季節に入ろうというころになって、自分の仕事に根源的な疑念を抱こうとは。

*4:Look Back In Angerである。おや、そうか、いや、これはまたどこかで。

リベラル

家人の仕事の都合があって今なお自粛状態が続いており、その反動で本とCDを買いまくっている。なるほど、これは、という発見がいろいろあるのだけど、それはどこかで記録を残すとして、今日は今現在なおもめているアメリカ大統領選挙について。
 
 
別にトランプが好きな訳でもない(嫌いな訳でもない)。が、バイデンは勘弁して欲しいと思っていた。いや、それは正確ではない。

リベラルな人たちが、自分たちではマジョリティになれない、でも党としては勝ちたい、そう思って一番ネガティブが少ないと思われる「終わった人*1を立てて選挙をすることがどうにも気持ち悪かった。まずは認知症の検査結果を出せ、何ならみんなの前で認知症検査を受けろ、というレベルの人間を出してどうするのと。

 

いかにもリベラルらしい話だ。彼らはかくあるべきという理想*2から話を始め、それを実現するための手段は大抵のことが許されると思っている。この手段を選ぶ事がないという傾向がなぜ年々高まっていいるのかというのは別に書くとして(ホントにちゃんと書けるのか?)、そういう訳で10代の時にはあれほど素敵だと思っていたリベラルという言葉が、いまは恥ずかしくてたまらない。それどころか「リベラル」は悪だとさえ思っている。

まさかリベラルが自分の中の悪を意味する言葉になる日が来るとは思いもしなかった。でもBLMがリベラルなのであれば、やはりリベラルは悪としか言いようがない。「理想」の為には暴動という手段が許されるのだというのは、すでにワタシの立つ世界とは断絶している。加えてBLMの話が恐ろしいのは、あれは突き詰めると「最低基準の人間に生まれなかったのは不公平だ」というところにたどりだろうからだ(いまはまだだけど、必ずそうなる)。なんとなれば、リベラルは「理想」の敷衍を止めるための思想や仕掛けを持っていない。というか、そのような歯止めを(この言葉は使いたくないが、そういうのを良識というのだ)否定していく歴史を重ねてきているからだ。*3
 
 
そういう訳で、アメリカの大統領選挙に重ね合わせて見ていたものは、
  • リベラルと自称する人たちを退けうるのか
  • 事実や慣習や文化や(物理)法則など、社会の連結材であった諸々よりも政治的な正しさ*4やかくあるべきという「理想」が優先するという思想を押さえ込み得るのか
そう言うことだった。
もちろん社会の連結材にも期限切れはあるし、手当ても必要なのは間違いない。でも、かくあるべきという視座から物事を評価するのは、やはり悪でしかない。
 
 
 
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ワタシはペシミスト(というのもあれだけど、物事の暗い面を見るような偏りを持って生まれたのは間違いない)なので、選挙不正の有無にかかわらずバイデンが大統領職を手に入れるのだろうと思っています。
メディアの総動員、そしてワタシはあったと思っている選挙不正、その他さまざまな事を使っての大統領職の獲得ですが、それはまさにリベラルそのものです。かくあるべき、から始めると途中の手段はどうでもよくなる、実にリベラルらしい有り様でした。
そしてそれがアメリカを覆い、そのうちに日本をも覆っていくのだろうと考えると、本当にぞっとします。
理想や理念を通してしか世界を見られない幼稚な人たちがマジョリティである社会、そのようなところに住んでいくのはとてもツラく苦しいことなのです、ワタシにとっては。
ワタシ自身が老舎のような最後を迎えるとまでは言いませんが、そういう世の中になっていくような暗い予感があります。文化大革命は中国のお家芸ではなかったというのがBLMが教えてくれたことですから。
 
もし助かる道があるとしたら、誰かがリベラルの再定義をすることなのですが、いまそれが出来るモーメントを持った人(人たち)が存在するのかどうか。いないだろうな、むりだろうな。きっと行き着くところまで行くんだろうな。リベラルに対抗するために、より現実主義的なスタンスで臨んでいかなきゃならないんだろうな。でもオレはこれから老人になるだけなのに、そんな風に社会と付き合っていかなきゃならないのか、面倒くせえな。だったらさっさと死んじまった方がマシだな。気にくわねえ気持ちの悪い話を見聞きしながら毎日くさくさしてても仕方ねえからな。きっと台湾は中国に(武力)併合されちゃうしなあ。そしたら次は沖縄独立だしなあ。
 
 
そういう暗澹たる気持ちにさせてくれた2020年のアメリカ大統領選挙でした。

*1:でも、なんだかスキャンダルすごそうですが

*2:理想?空想的な理念を理想というのは勘弁してほしい

*3:旧弊の打破と良識の破棄の区別はとても難しい。ワタシもリベラルが行ってきた旧弊の打破に快哉を叫んだ口だ。すばらしい、私たちを縛る古くさいモノは打ち壊してしまうべきなのだ。もっとやろう、どんどんやろう、ためらわずにやろう。そのようにして私たちは旧弊と同時に多くの良識を失ってしまった。

*4:もちろん特定の正しいに過ぎない

8/30 レガシー

安倍総理のレガシーは何かということについてメディアが喧しい。

多くはダメだしであり、一部には褒めるところもあるのだが、その両者ともがなぜだか働き方改革のことを取り上げない。大いに不思議。

 

語ると長いので、その不思議さだけを記すにとどめる。

 

「国際的な競争力」を向上させるには、unpaid workに頼るという悪癖を根絶させなければならず*1

また長らく同じ企業に勤め続けることによる長期的な利益というものが消失している以上、従来一般的であった勤務事情はunpaid workの強要に他ならず*2

要するにバブル崩壊このかた、日本においては退嬰と倫理的堕落によって競争力を自ら減ずるということが一般的であり、それを食い止める動きが働き方改革なのだと解している。

もっと言えば、社員から労働者へ、という意識の変容を求めることが、日本国に暮らす全員の利益になるという考えに基づく施策だったと解しているのだが、それは勘違いなのだろうか。

 

あれを働き方改革と呼ぶのはある種のオブラートであって(...って、何年オブラートを使ってないだろう。若い人は見たことがないに違いない)、本質は労使の本義に立ち返れというオーダーだと思っている。その上にしか国の立ち直りはないよ、という。

きっとこのあとは解雇規制の緩和やそれとセットになるセーフティーネットの話、そして労働者の能力向上(リカレント教育など)の話が盛り上がってくるのだと予測するのだけど、それら一連の動きを後に振り返ってみれば、それらのすべての根本は働き方改革のときにすでに予告されていたと判るのではないか。

そのくらいインパクトがある施策が働き方改革だったのだと思っている。思っているのだけど、みなさまの取り上げ方はそうでもない。

 

うーん、不思議だ。

確かにあれを「お父さんと一緒に夕食が食べられるようにしよう」というレベルの話だと思っている人が少なからずいるのだが、だがしかし。

 

*1:でないと本質的な戦略の向上に目を向ける動機が生じないではないか。努力という戦術では戦略は破れないのだ。

*2:いまの無理に関して払い戻しを受けるタイミングがなくなっているのだから、同じ勤務事情の意味することがバブル崩壊前とは全く異なるのだけど、それが判らないバカが多いようだ。